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多摩湖の桜

多摩湖入口a

東大和周辺の桜は、都内と一週間ほど開花時期がずれるので、四月に入ってからが
見ごろとなっています。ただ、今日(4月3日)の雨で少し色が褪せてしまうかもしれま
せん。
上の写真は多摩湖(村山貯水池)入口の桜の写真。きれいに桜が咲いております。

多摩湖は桜の名所でもあり、毎年都内近郊からお花見のお客様がいらっしゃってくれ
ます。ここ2年ほどはコロナ禍で少なくはなっておりますが。
多摩湖は大正末期から昭和2年にかけて、都民の飲用水を確保するためにつくら
れた人造湖です。当時はその景観を楽しむためにホテルが作られたり、女優さんが
グラビア写真を撮りに来たりして、都民の観光地として楽しまれたようです。
その観光の目玉の一つが多摩湖周辺の桜です。
昭和9年(1934)に服部時計店(現SEIKO)社長の服部金太郎氏が亡くなった際に、
遺族から1万本の桜の寄付があり、翌10年に多摩湖の周囲に植えられました。植え
られた品種もソメイヨシノだけではなく、白山桜、紅山桜、紅彼岸桜、里桜など数種が
植えられ、訪れる人の目を楽しませました。
太平洋戦争で残念ながら伐採される木々が増え、その残ったものが現在の多摩湖に
咲く桜となっています。

ところが、ご存じの方も多いと思いますが、花見の主役ソメイヨシノは江戸時代に作ら
れた人工種です。エドヒガンとオオシマザクラを交配して作られたといいますが、自家
和合性に劣り種子から発芽に至ることはありません。つまり、世界中の全てのソメイ
ヨシノはかなり限られた数の原木のクローンということになります。
このことがソメイヨシノが一斉に開花する理由になっているのですが、その一方で
特定の病気にかかりやすく環境変化に弱い理由にもなっています。
寿命も短くて60~100年ほどと云われています。外から見ると幹は太くて立派でも
中は空洞化していて、台風などでポッキリ折れるなんてことも・・・。

ということで、多摩湖周辺のソメイヨシノもそろそろ寿命となり、最近では伐採が進んで
行われています。放っておいて急に枝が折れて通行人や車に直撃したら危ないです
から。
伐採したあとには、新たな苗木が植えられています。
上に載せた写真は数年前に植えられた若い木です。
で、この若木。ソメイヨシノのように見えますがソメイヨシノではないのです。

公益財団法人・日本花の会では2009年からソメイヨシノの苗木販売を中止し、替わって
病気に強く、花や開花時期がソメイヨシノと類似するジンダイアケボノへの植え替えを
推奨しているとのことです。
とういことで、写真の多摩湖の桜はソメイヨシノではなくジンダイアケボノということに
なります。

さて、一方コチラの写真。

陽光桜2a

ここは東大和市内の住宅地の道路ですが、ここにもかつては道路沿いにソメイ
ヨシノが植えられ見事な花を咲かせていましたが、樹齢50年を過ぎて立ち枯れ
等が出てきたために全て伐採。ご覧のように新しく苗木が植えられています。

陽光桜1a

ソメイヨシノよりも若干花の色が濃いように感じられます。
市役所の環境課で聞いたところ、コチラは陽光桜という品種だそうです。
やはり日本花の会の推奨で、病気や害虫に強い品種だそうです。多少ソメイヨシノ
よりも開花時期が早いような気がします。

日本人が桜を愛でる習慣は、梅に替わって桜を詠む和歌が増えた平安時代頃と
云われています。
花見の風習が庶民に広まったのは江戸時代。天海大僧正が上野に植えた桜が
名所となってからですが、寛永寺の境内では宴会をすることは禁じられました。
享保5年(1720)に徳川吉宗が浅草隅田川堤や飛鳥山へ桜を植えさせて、庶民
の行楽を奨励したことが現在まで続く「お花見」の風習となっています。吉宗と
しては享保の改革による庶民の不満を逸らす、ガス抜き政策だったのでしょう。

桜の品種にはヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガンなどの11種の野生種が
あり、これらを組み合わせて現在400種以上の品種があるそうです。
その主役が今までソメイヨシノだったわけですが、これまで書いてきたように、
今後はアケボノやヨウコウなどの品種へと移行が進んでいきます。
残っているソメイヨシノを見られるのも今のうちかも知れません。


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[ 2022/04/03 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(0)

血梅(ちばい)

桜の開花はまだもう少し先ですが、梅は見ごろの時期を迎えております。
我が家の庭の紅梅も七分咲きといったところでしょうか。
この紅梅について、先日父親から意外な発言を聞いたのであります。

「ウチの紅梅『血梅(ちばい)』っていうらしいよ。知ってる?」
「ええええーーッ!?」

一瞬、我が耳を疑いました。ち、血梅ですと・・・?
そんなバカな!そんな梅の木が我が家の庭にあるなんて、考えられない!
いや、待て。ウチのオヤジは時々とんでもない嘘をつく。
「お父さん、長嶋と友達通して知り合いだからさ。柴田のサインなら今度貰ってこ
よう。新浦がいいか。」
子供の頃、何度騙されたことか!年齢が近いし、父の友人が立教に行ってた
らしいから、なんとなくリアルな所を突いてくるのだ。
ただ・・・。
「ウチの庭の手入れをお願いしている植木屋のF川さん、あの人が八王子で
手に入れたらしくてさ。いい梅だっていうんで、数年前に買ったんだよ」
という話を聞き、これはもしや・・・と思い直しました。

関家 血梅2a
庭の紅梅。はたして血梅なのか・・・?

さて、そもそも血梅とは何ぞや?とお思いの方もいらっしゃるでしょう。
血梅とは、新選組局長近藤勇が大変愛でたという紅梅なのです。
まだ近藤が京都に行く前、試衛館の道場主だった頃。ある日、八王子千人町の千人頭
石坂弥次右衛門を訪ねます。同じく千人同心で石坂の組の世話役だった日野宿井上
松五郎(後の新選組副長助勤・井上源三郎の兄)の案内だったといいます。おそらく
剣術談義などしたのでしょう。
近藤がふと庭に目を向けると、石坂家の庭の紅梅が花を咲かせていました。あまり派手
ではなく慎ましやかに咲くこの梅を近藤はたいそう気に入りました。すると石坂も嬉しかった
とみえて「それでは後日、接ぎ木か取り木をして贈りましょう」と約束を交わしたのです。

この紅梅が血梅です。
その名の由来は、枝を切ると中は血がにじんだように真っ赤だからとのこと。

しかし、皆さんもご承知の通り、その後近藤は京都へ行き新選組を結成。再び石坂の
家を訪れることはなく、慶応4年(1868)4月25日に板橋で刑場の露と消えます。
また石坂の運命も過酷なものでした。
同じく慶応4年閏4月。千人同心(その頃は千人隊と改称)の勤めとして日光勤番に
出ていると、新政府軍がやって来たので東照宮を戦火に巻き込むわけにもいかず、
無血にてその場を引き渡し八王子に帰ります。
ところが、戦わずして東照宮を官軍に引き渡したことへの責任を追及する声が高まり、
そのプレッシャーに耐え切れなくなった石坂は切腹してしまったのです。

明治維新後、石坂家は八王子を離れます。近藤と弥次右衛門が愛でた血梅は千人
町の石坂家の隣家にひっそりと残されていたと云いますが、昭和20年(1945)の
八王子空襲で被災し、焼けてしまったのでした。
ところが生命の力とは強いもの。
やがて黒焦げになっていた血梅の幹から新たな芽が出て、花を咲かせたのです。
その後、八王子の佐宗文雄さんという方がこのオリジナルの血梅から接ぎ穂をして
次第にその数を増やしていったとのことです。

日野市の大昌寺の近くに「ちばい」という蕎麦屋さんがあります。
ちばいとは即ち血梅。お店の庭に血梅が植えられ、そのまま店名になっているの
です。このお店のご主人のお父様が谷春雄さんという新選組研究の第一人者で
あったことから、佐宗さんから血梅の木を贈られたとのことです。
ワタクシもこのお店で初めて血梅のことを知りました。

ちばい
「そば処 ちばい」
外観はホントにふつうの住宅なので見つけにくいですが、蕎麦は美味しいです。

ということで、植木屋のF川さんが八王子から入手したということであれば、我が家の
紅梅も佐宗さんが増やした血梅の子孫の1本の可能性はあるのかな。
試しに小枝を1本切ってみますと、

関家 血梅4a

うっすらと赤い。写真だとわかり辛いですが、実際はもうちょい赤めです。
・・・ただね、別の植木屋さんの言うことには「紅梅の枝は切るとたいてい中は赤い」
とのことだそうです。

果たして我が家の紅梅は石坂弥次右衛門が愛し、近藤勇が誉めた血梅の子孫
なのか?
・・・まぁ、いいや。
血梅であったとしても、そうじゃなかったとしても、この梅が我が家の庭にきたのは
何かの縁。
毎年、血梅にまつわるエピソードを思い出し、ワタクシも愛でることにいたします。


石坂弥次右衛門墓
石坂弥次右衛門義禮の墓 八王子市興岳寺
水鉢は日光市から贈られたもの。


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[ 2022/03/06 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(0)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方㉒ 箱館戦争と渋沢成一郎

相当遅くなりましたが、箱館戦争終戦時の渋沢成一郎を見ていきます。
「青天を衝け」を見た方ならご承知の通り、成一郎は生き残って明治の世の中を
実業家として生きています。

明治2年(1869)の3月に、箱館旧幕軍は新政府軍の最新鋭艦「甲鉄」を奪う作戦
(アボルダージュ)に出ますが失敗します。「宮古湾海戦」
しかし、この作戦に成一郎は参加していませんのでここでは省略。
彰義隊は陸軍兵なので主力にならなかったのでしょう。それでも15人が作戦に参加
し蟠龍艦に乗り込んだようですが(「上野彰義隊と箱館戦争史」 菊地明)、判明して
いる者の氏名から推察して、大彰義隊から選抜された者でしょう。

4月9日、雪解けを待っていよいよ新政府軍が蝦夷に上陸してきます。
上陸地点は渡島半島の西岸乙部。そこから二股口、木古内口、松前口の3方向から
進軍します。当初は少しでも土地勘がある旧幕府軍が優勢でしたが、新政府軍は
兵力を青森に集中させ、そこからどんどん援兵を繰り出すので、次第に優勢になって
いきます。
ちなみに、このとき新政府軍の指揮を執ったのは長州の山田顕義。後の日本大学
創立者。日大OBの方々でも、山田さんが法律家ということは知っていても、それ以前は
とても有能な軍人だったことを知る人は少ないようです。あの、例の前理事長だった人
は・・・案外そういうコトは知ってるかもしれない。

箱館奉行所

兵力の多さに、制海権まで相手に奪われていては旧幕府軍に勝ち目はありません。
さて、そんな中我らが渋沢成一郎はどこで戦っていたのでしょう。
成一郎率いる小彰義隊は、最初は湯の川に布陣していたようです。湯の川は箱館の
東側ですから、亀田半島方面から来る敵を警戒していたのでしょう。しかし、実際には
新政府軍は松前半島を攻略して西側から五稜郭を目指してきたので、湯の川は戦場
にはならなかったようです。
5月に入り、ついに難攻不落と思われていた函館山を乗り越えて新政府軍が箱館市内
に突入。箱館湾に突き出た弁天台場で戦っていた新選組を救出に向かった土方歳三が、
一本木関門で敵弾に倒れ戦死してしまいます。5月11日でした。

一本木関門

旧幕府軍は一本木関門奪還のために出陣しますが、この戦闘に出たのが仙台藩出身
の額兵隊、見国隊、そして小彰義隊でした.。湯の川から箱館に戻っていたのですね。
しかし、一本木関門は奪還できず、小彰義隊は五稜郭との中間にある千代ヶ岡陣屋に
入ります。
しかし、13日の夜頃から五稜郭を抜け出して、新政府側に投降する兵士が相次いだと
いいます。まぁ、伝習隊などは幕臣ではなく、金で雇われた者が多かったのでもう先が
見えたとなると逃げる者も多かったのでしょう。
さて、成一郎らが立て籠もった千代ヶ岡陣屋も16日には陥落してしまうのですが、この
前後に成一郎はとある行動に出たようです。

「(成一郎らは)五稜郭裏門の番兵たりしが、隊長渋沢成一郎、兵隊ことごとく引き集めて
郭内を忍び出で、義に背いて官軍に降る。」
(「蝦夷錦」)

小彰義隊は千代ヶ岡から五稜郭に移っていたようですが、なんと成一郎は部下を引き連
れて投降してしまったというんですね。驚きです!
ところが一方でこのような証言も。

「その夜、渋沢成一郎、松平・中島の問答を聞き黙し居たりしが、如何思いけん、部下の
士林清五郎初め数十人を随え、湯の川に脱走す」
(「蝦夷の夢」)

これは衝鋒隊の今井信郎の記録です。千代ヶ岡陣屋で松平太郎と中島三郎助が撤退
するかどうかについて議論していたところ、その様子を聞いていた成一郎らがいつの間
にか脱走していた、という内容。
これと似た証言は、

「渋沢成一郎、津田主計等最初より衆に先達て激論せし者なるが、此隙に至り竟に臆い
念発り窃かに脱出す」
(「説夢録」)

こちらは上野戦争に参加したあと、一聯隊に所属していた石川忠恕の記録。
これらを総合的に見ていくと、小彰義隊は五稜郭か千代ヶ岡陣屋にいた(あるいは両方)
が、敗戦の決まる少し前に成一郎が部下を引き連れ脱走した、ということになります。
今井信郎は逃げた先は湯の川であると、具体的です。

箱館戦争は5月18日に榎本武揚らが降伏したことにより、終結しました。
しかし、同日に箱館政権幹部の全員が降伏、出頭したわけではありません。
開拓奉行の沢太郎左衛門らはモロラン(現室蘭)にいたために、彼等が五稜郭の降伏
を知ったのは5月22日。箱館に出頭したのは6月11日になってからでした。
そして、渋沢成一郎もまた、新政府軍に出頭したのがその頃だと思われます。
というのも、榎本や大鳥らに遅れて、沢と成一郎は7月5日に一緒に東京に送還され、
辰口の糺問所に入れられたからです。
成一郎らはやはり湯の川に潜んでいたようです。(「上野彰義隊と箱館戦争史」)

ということは今井信郎の証言がかなり的を得ているようです。
ただ、ここにもう一つ成一郎の行動についての記録があります。

「澁澤成一郎ハ湯ノ川ト申所江出張致シ居、六月十八日伏罪仕」(「陸軍裁判所記」)

これは明治4年12月の陸軍裁判所の記録です。
ここには成一郎が出頭したのは6月18日であるとし、また湯の川へは脱走ではなく
出張だったと記されています。これは裁判所の正式な記録であるため、成一郎だけ
ではなく榎本や大鳥など他の幹部らの証言を入れた上での記録でしょう。
これを信じれば、理由はわかりませんが総裁の榎本か、陸軍奉行の大鳥に命じられて
湯の川に配置されたことになります。

成一郎ら小彰義隊が最後にいたのは湯の川に間違いないようですが、はたしてそれが
脱走だったのか出張だったのか?
どちらなのでしょう。

遊撃隊にいた間宮魁という人が大正6年に「箱館脱走人名」という名簿を著しています。

⑫箱館脱走人名a
「函館市中央図書館デジタル資料館」より

これを見ると、榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介に続いて渋沢成一郎の名前が出ています。
「監軍」とあることから目付をしていたということでしょう。
「脱」とあることから終戦前に脱走していたと間宮も思っていたようですが、No.4の位置に
成一郎を書いたということは、彼は旧幕府軍内部で高い地位にいて、周囲もそれを認めて
いた可能性があったのではないでしょうか。

繰り返しになりますが、渋沢成一郎は自ら戊辰戦争中の日記、自伝、記録の類を残して
いません。地元の深谷に書簡集のようなものもあるようですが、明治になって実業家に
なってからのものだそうです。
成一郎が彰義隊を組織し、振武軍、榎本艦隊に合流、箱館戦争に至るまでその行動の
記録は同じ旧幕府軍にいた人の記録によってのみです。
山崎有信は「彰義隊戦史」の中で本人に取材をしていますが、天野八郎や菅沼三五郎
らとの分離について詳細は語っていません。

今までご紹介してきたように、渋沢成一郎という人物は一橋家に仕官以降、将軍慶喜の
側近にまで出世。彰義隊結成時もリーダーに推されました。しかし、転戦の都度再結成、
分裂を繰り返します。
優秀な素質がありながら、組織のリーダーには向かなかったのかなぁと思うところも感じ
ます。
渋沢栄一が成一郎のことを一足飛びに結果を求める性格だったと評していますが、そう
いう所なんでしょうか。

大河ドラマのレギュラーキャラになったことで、今までほとんど研究されなかった成一郎に
初めてスポットが当たったようです。
今後、新史料が発見されるかもしれませんし、新たな研究を待つことに期待したいと
思います。


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[ 2022/02/27 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(0)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方㉑ 

昨年の秋に渋沢成一郎について講座を行ったときに、受講生の方からこんな
質問が出ました。
「『青天を衝け』の箱館戦争のシーンで、土方歳三と渋沢成一郎が同じような
洋装で戦っていたが、実際はどうだったのですか?」

土方と成一郎a

コレですね。右が土方歳三(町田啓太)、左が成一郎(高良健吾)。

土方については、洋装で撮った写真が残っていますから間違いはないですね。

②土方歳三

上の町田啓太さんの衣装は、とても良く再現されています。
当時のことなので服の素材はラシャですかね。箱館は寒いし。
かなり重かったと思います。

ただ、成一郎がどんな服装で戦ったのかを記している資料は、ワタクシの知る限り
ないんですよね。
成一郎が作った彰義隊は、上野戦争では和装で戦ったようです。戦争時の写真は
ありませんが多くの錦絵でそのように描かれていますので、大筋間違いはない
でしょう。

上野戦争a

「新彰義隊戦史」によれば、杉浦日向子さんの「合葬」に描かれている姿が彰義隊
隊士たちの服装を巧く表現していると書いています。ご興味のある方はご一読を。
成一郎は上野戦争には参加していませんが、飯能戦争でもほぼ同じ格好だったの
ではないでしょうか。
彼が和装から洋装の軍服に着替えたとすれば、榎本艦隊に合流した後のことだと
思います。この時の様子としては、寺沢儭太郎が坊主頭だったと証言しています。

⑩旧幕軍将校a

上の写真は箱館での旧幕府陸軍首脳の面々。けっこう有名な写真ですね。
ワタクシが数年前に五稜郭タワーに訪れたとき、戊辰戦争集結150年記念のスタ
ンプラリーをやっていて、達成したらこの写真のクリアファイルを頂きましたw
ここに写っているのは前列左から、細谷安太郎(伝習隊)、ブリュネ、松平太郎、
田島金太郎(通訳)、後列左からカズヌーヴ、マルラン、福島時之助(通訳)、フォル
タン。
陸軍はフランス式の部隊編成にもなったことですし、幹部以上はこのような完全な
洋装になったと思われます。成一郎も現時点で写真は見つかっていませんが、
高良健吾さんのような洋装だったでしょう。
まぁ、緊急事態時ですので、それぞれの服に多少の違いがあるのは仕方ないで
すね。

⑦幕府歩兵a

ところでこの写真は「幕末ハードボイルド」(伊藤春奈・原書房)に掲載されている
写真で「洋装した幕府軍の歩兵隊」の説明があります。
歩兵は武士ではなく、民間の百姓や肉体労働者、火消、博徒のような人たちが
金で雇われて勤めました。武士のような格式にこだわったプライドが無いので、
洋装にもすぐに馴染んじゃう。
この写真は上野戦争以前でしょうけど、彰義隊は(天野八郎らが経歴不問に隊士
を集めたとはいえ)幕臣・他藩士が多かったでしょうから、和装の隊士が多かった
のでしょうね。
箱館での旧幕府軍の兵士たちは、伝習隊や衝鋒隊など幕府陸軍が母体となって
いる部隊の兵が多かったので、こんな服装でしょうか。

さて、今回の最後に。
旧幕府軍側の軍服といって忘れていけないのは、コレでしょう。

⑧額兵隊a

仙台藩からの脱藩部隊、星恂太郎率いる額兵隊の「リバーシブル隊服」!
通常は赤い方を表に着て、いざ戦いとなったら黒い方を表にして出動すると
いう、画期的制服。基地内勤務では青いブレザー、出動時にはオレンジ隊服
へと替わる科学特捜隊を思わせるシステムですね。
とにかく通常時に、目立つ赤を採用するところがオシャレ。
幕末イチのオシャレ番長。ドン小西にも文句は言わせません。

昨今、こっちの学校の方がカワイイから、と制服のデザインで進学校を決める
子も多いそうですが、ワタクシも当時の仙台藩士だったら「あのリバーシブルが
着られる!」ってだけで、額兵隊に入隊しちゃったかもしれません。


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[ 2022/02/11 ] 未分類 | TB(0) | CM(1)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑳ 陸軍奉行添役

前回の記事で渋沢成一郎が何らかの規律違反をしたために、彰義隊が二つに分裂。
成一郎はより小さな「小彰義隊」の頭となったことを書きました。
彰義隊隊士寺沢儭太郎によれば、それは松前城の金庫から運び出した金銭の横領
だといいます。

さて、慶応4年も終わろうとしている12月15日。士官以上の入札によって、この箱館
旧幕府軍の閣僚が決められました。「箱館政府」とか「蝦夷共和国」などと云われます
が、榎本たちに蝦夷を日本から独立させる気持ちは全く無く、あくまでも部隊ごとに
分かれていた旧幕府軍を統一し、治安維持を目的にしたものと考えるのが妥当だと
思います。
誰がどの役職に就いたのかは、いろんな本に出ていますのでココでは一々書きませ
んが、成一郎がどの役職を与えられたのかだけ触れたいと思います。コレ、案外と
どの本にも書かれていないのです。

前回ご紹介した荒井宣行(額兵隊)の「蝦夷錦」によれば、成一郎は「陸軍奉行添役」
に就任したとなっています。日本国語大辞典によれば「添役」とは「主務者に付いて
補助する役、補佐役。次官。」とあります。
陸軍大臣が大鳥圭介、奉行並が土方歳三ですから、その副官に任命されたという
ことになりますね。
「新選組隊士録」(相川司)では松平太郎を大将、大鳥を中将、土方を少将と表現して
いますが、となれば陸軍奉行添役は准将でしょうか。

蝦夷錦2a
「蝦夷錦」(函館中央図書館デジタル資料館)

ただ、上の史料を見ていただければお分かりのように、添役には13人が名を連ねて
いるので成一郎だけの役職ではありませんでした。なぜこんなに「副官」が必要だった
かというと、おそらく陸軍内のバランスを考えた結果なのでしょう。
彼等の経歴を見ると

新選組系・・・相馬、大島、大野、安富
遊撃隊系・・・澤、忠内、宮路
彰義隊系・・・渋沢、津田
幕臣・草風隊系・・・牧野、堀、佐久間
伊達家臣・・・金成

このように分けられます。新選組系の相馬らは土方歳三付きだったようですし、牧野は
伝習士官隊の軍監をしていたので大鳥に近かったようです。
また、堀、忠内は江差守備隊、佐久間は松前守備隊に所属していたようですので、箱館
周辺以外にも人員を配置する関係上、これだけの人数が必要だったのでしょう。

とにかく、成一郎はこれら箱館政権の陸軍幹部の中に名を連ねたわけです。
もしも、彼が寺沢儭太郎の言うように敵から奪った金銭を横領し、それを榎本や土方らから
咎められていたのならば、このような役職には就けなかったと思うのですが、いかがで
しょうか?
彰義隊内部で何らかのトラブルがあり、その責任を取らされたことは間違いないと思い
ますが、それほど不名誉なことではなかったと推察します。

さて、箱館政権陸軍はフランス式軍制に整備もされました。
それまで彰義隊や遊撃隊、額兵隊など独立性の高い部隊の集合体だったものを再編成
したわけです。全体を第1~第4列士満(レジマン)という聯隊に分けました。
列士満とはフランス語のregiment(聯隊)をそのまま漢字に当てはめたものです。
成一郎の小彰義隊は第1列士満の第1大隊3番小隊に。
菅沼三五郎、池田大隅率いる彰義隊は第1列士満の第2大隊第4~7小隊となりました。

しかし、その後に起こる箱館戦争の記録などを見てみると、実際の戦場ではやはり箱館
以前の旧部隊ごとにまとまって戦っていた場合が多いようですね。


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[ 2022/01/30 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)