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猫でもわかる彰義隊 2

前回までのあらすじ。
  
  彰義隊は天野八郎と渋沢成一郎の二派に分かれた。
  天野八郎は遠藤太津郎に似ている。 以上。

さぁ、前回の復習も済んだところで、今回もいってみまショーン・コネリー。

渋沢らと袂を分かった天野率いる彰義隊は上野に入り、寛永寺の寒松院に本営を
置きます。この時隊士は1000人を超え、さらにまだ入隊者が増えているという
状況が続いていました。
江戸っ子たちは内心「薩摩や長州の田舎モンに征服されちまうのかよ、悲しいねぇ」
と思っていましたから、江戸を守ろうと集まる彰義隊はカッコ良く見えたようで、拍手
喝采を送ったといいます。
吉原でも薩長藩士は全く人気がなく、「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」がおネェちゃん
たちの合言葉でした。

彰義隊の目的は「輪王寺宮をお守りする」ということでした。
輪王寺宮は皇族ですから(しかも名義上天皇の子)、征討の勅諚でも出ないかぎり
宮をお守りしていれば朝敵にはならないのです。
これは後の話になりますが、佐幕側の東北・北陸雄藩が「奥羽越列藩同盟」を結成
したときに、輪王寺宮に即位していただき「東日本政権」を樹立させようという計画が
ありました。
天野がどこまで考えていたかわかりませんが、幕府を再興させるにしても、慶喜より
輪王寺宮の方がずっと大事であるという考えはあったでしょう。
宮は天皇にもなれるお方ですが、徳川将軍は慶喜でなくてもいいのです。

渋沢成一郎は慶喜の家臣だったので、主君の命がとにかく第一でした。
天野も慶喜が水戸へ行くときには千住大橋まで見送っていますので、忠義の心はあった
でしょうが、渋沢ほどの慶喜個人への忠誠心は無かったと思います。
それよりも幕府を再興させることが大事なのです。

しかし、彰義隊を取り巻く空気は次第にキビしくなって行きます。
新政府が田安亀之助(徳川家達・いえさと)に徳川家を相続させる許可を出すと、市中
警備も新政府が行うと通達してきました。勝海舟はこれを機会に、彰義隊に武装解除を
持ちかけますが、これにおとなしく応じる天野らではありません。
江戸市中では日ごとに新政府側と彰義隊士の衝突が多くなってきます。
ついに新政府は彰義隊を賊徒と定め、5月15日に攻撃すると決定したのです。

上野の山に入った彰義隊は2000人とも3000人とも云われています。
正確な名簿は残されておらず、また、神木隊(高田藩)とか万字隊(関宿藩)というような
諸藩からの参加部隊もあったので、実際の人数はわかりません。
しかし、15日の戦争が起きたとき、彰義隊側には1000人ほどの人数しかいませんで
した。
というのも、隊士らは各組み分けがされ、持ち場も決まっていましたが、比較的自由に
遊びに出たりしていたみたいなんですね。
彰義隊は新選組のような局中法度もなければ、血の粛清もありません。来る者は拒まず、
去る者は追わず。だからスパイも相当入り込んでいたし、「ちょっとサムライ気取ってみる
か」みたいなハンパ者も3000人の数の中にはいたようです。
なので、彰義隊を「烏合の衆」と決めつけるものもあります。

さて、前回のこのブログのマンガで「彰義隊に金がない」という意味のマンガを描きました。
けどこれはウソです。だから詐欺なんですよ、奥さん!
彰義隊は銃火器でバンバン撃ってくる新政府軍に対し、刀鎗で向かっていったイメージが
あります。当時の錦絵もそう描いてあります。だから武器を調達するお金がなかったのか
しら・・・なんて思ってしまうんですが、これは間違い。
お金はあったんです。
だって、正式に幕府(暫定統治機構)から市中見廻りを拝命していたのですから、お金は
出ていました。さらに、明治の江戸時代考証家の三田村鳶魚(えんぎょ)って人が書いて
るんですが、寛永寺は大名への金貸しをしていて慶応3年には500万両の蓄財があった
らしいです。
でも、彰義隊は全体でも小銃400~500挺、弾丸も平均で5~6発。大砲も11門しか
なかったと云われています。
要するに、金はあったんだけど、十分に準備しておかなかったというのが真相のようなん
ですね。

15日の午前7時、いよいよ開戦。
まぁ、戦いの推移は他でいろいろ本など出ていますので参照してください。
ココでは上野が戦場になってしまったもう一つの理由に触れてみたいと思います。

新政府側は輪王寺宮に何度も山を下りるように呼びかけました。
しかし、宮は一向に上野を出る気配を見せませんでした。
といっても、これは宮ご自身だけの考えではなく、周りもそうさせていたんですね。
輪王寺宮は寛永寺のトップではありますが、これはモチロン形式上のこと。
実際には執当というポジションの者が寺務一切を取り仕切っていました。
この時期、その執当にいたのが覚王院義観という坊さんです。この人がゴリゴリの主戦派
なんですね。ボーズなのに。

ま、理由はあるんですよ。
慶喜が寛永寺で謹慎していた時、つまりまだ新政府軍が江戸に総攻撃をしようとしていた
時。輪王寺宮である公現法親王と覚王院義観は、駿府まで来ていた大総督府に出向いて
戦争の回避と慶喜の助命を訴えたんです。
総督の有栖川宮熾仁親王とは同じ皇族ですし、有栖川宮家からは過去に輪王寺宮も出て
いる、話も通じやすいと思ったのでしょう。
ところがドッコイ。「あンたなー、そないなコト言うてもさっぱワヤですねん。早よ江戸へ
お帰りはって、幕府の主戦派を押さえたほうがよろしおまっせー。ホンマでっせー。」
と冷たくあしらわれちゃった。
これには宮さまも義観もアタマにきたワケです。
結局、戦争を回避させたのは山岡鉄舟とか勝海舟とか、元々は身分の軽い幕臣たちでしょ。
プライドを傷つけられた宮さまと義観は
「天野ッチ、軍資金はたんまりあるわさッ。思いっきりおやんなさいな!」
てコトで、これもまた上野が戦場になった理由でありましょう。

戦争は、当初彰義隊が押す場面があったものの、やはり新政府軍の人数と銃火器には
勝てず、午後4時には勝敗が決しました。新政府軍側死者43人に対し、彰義隊側死者
300人以上という大敗です。
輪王寺宮は北口から逃れ、後に榎本武揚らと合流し仙台に行きます。
彰義隊は結成から4ヶ月、わずか半日の戦いで壊滅してしまいました。実際にはその残党が
箱館戦争まで戦うんですが、彰義隊が歴史の主役となったのはこの1日だけです。

上野戦争と彰義隊とは、いったい何だったのでしょうか?

伊勢八という呉服太物を商う店の、加太民之助という商人が彰義隊に参加し、そのまま
帰らなかったそうです。彼は妻子にその理由として「江戸っ子として薩摩が威張っている
状況にガマンできねェんだ、こんちきしょう!」と言い残していったそうです。
彰義隊にはそういう人が、幕臣、町人問わずたくさん参加していたのでしょうね。
薩摩が鳥羽・伏見の戦いのきっかけを作るまで、さんざん江戸で乱暴に及んだことをみんな
忘れていなかったのですよ。
天野がその人たちを引き入れ、それは一見「烏合の衆」に見えたかもしれませんし、そう
いった側面は確かにあったでしょう。しかし、江戸っ子の心もまた上野にあったのだと
思います。

新政府軍が半日で戦争を終わらせたのは、戦いが長引けば周りで様子を見ている幕臣らが
加勢してくる恐れがあったからでした。
戦いの済んだ後で新政府軍は火を放ち、上野の山にあった多くの堂塔伽藍が焼失しました。
戦後、彰義隊の残党狩りは執拗に行われ、天野も隠れている所を見つけられ捕縛。獄中で
病気になりそのまま息を引き取ります。38歳でした。

彰義隊マンガ2

彰義隊の中にも頭並を務めた春日左衛門という「君容貌美麗にして尤も強気あり」
と云われたメンズもいたようですが、如何せん絵とか写真が残ってないのです。
まぁ、新選組でも沖田さんのように肖像画が残ってなくてもイメージでイケメン扱いされ
てる人もいるワケで・・・結局、彰義隊そのものがマイナー扱いだから隊士たちも語られ
ないんでしょうね。
東京の人だったら、語り残さなきゃいけないよね。彰義隊。

よしッ、東京オリンピックの公式マスコットは「天野八郎ッチ」だッ!フガー!


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猫でもわかる彰義隊 1

彰義隊マンガ

奥さん、このようにお子さんを名乗る人物から「彰義隊にはいったから金を送れ」
という電話があっても、絶対にお金を振り込まないでください!
それは100%、詐欺です!
周りの人に一度相談するなどして、気を付けましょう。
KC庁子猫署からのお願いです。

「でも私彰義隊ってよく知らないし・・・騙されたら主人からラリアット喰らってしまい
ますの、どうしましょう・・・!」
「それは困りましたね。では、彰義隊について少しお話しましょうか。」

つーわけで、やっと本題に入りますのだ。
これからマジメな話になるので、その前にジャブを一発かましてみました。

幕末の狭山丘陵一帯にやってきた武装集団のうち、残る一つは「振武軍」です。
この振武軍をお話するには、どうしても彰義隊 のことを知っていただかないと
話が前に進みません。
彰義隊は慶応4年(1868)頃の旧幕府方武装集団の中では、一番大きく、また有名
な部隊です。この彰義隊と新政府軍が上野で戦争をしたのですが、日本史の教科書
ではこのことが、ほとんど触れられていません。
東京の明治維新は江戸城の無血開城で平和的に行われたと思いがちですが、真実
は決してそうではないのですよ、というお話です。
今回はちょっと多摩を離れて、この彰義隊にスポットを当ててみたいと思います。

まずは2人の人物をご紹介します。
1人目は天野八郎
彼は上野国(群馬県)の庄屋の次男として生まれました。
本名は大井田林太郎。父親が江戸で公事宿を経営していたので彼も江戸へ出て、
学問や撃剣を学びます。背が低くて小太り、歯並びも悪かったと云われイケメンには
ほど遠かったようですね。
唯一残っている写真を見ると、往年の名悪役俳優・遠藤太津郎さんみたいです。
しかし正義感が強く、意外に身も軽く、幅2間(3.6m)の堀なら簡単に飛び越えたそう
で、リーダーシップと身体能力は高かったんですね。
後に与力の広浜家の養子に入りますが、やがて離縁。姓を天野と改めますが、
その理由はわかっていません。
天保2年(1831)生まれなので、戊申戦争時は37歳です。

もう1人は渋沢成一郎
武蔵国榛沢郡(埼玉県深谷市)の血洗島という、なんやら横溝正史の小説に出てきそう
な名前の村の出身です。藍玉の生産と養蚕で財を成した農家の分家に生まれました。
天保9年(1838)生まれで、2歳下の従弟に明治の大実業家渋沢栄一がいます。
成一郎と栄一は江戸に出て、一橋家用人の平岡円四郎という人と知り合いになります。
平岡は主君・一橋慶喜のためにデキる家臣を探している最中でした。
成一郎と栄一は平岡に誘われ、一橋慶喜の家臣になります。そして慶喜が慶応2年
(1866)に徳川宗家を継いだことにより、幕臣になったのです。
栄一はフランスで行われた万国博に参加した慶喜の弟・徳川昭武の随行員として欧州
に派遣される、成一郎は陸軍奉行支配調役から奥右筆格に抜擢されるなど、大活躍。
平岡の目に狂いはなかったんですね。

さて。しかしながら時代の風は徳川方に大逆風。
慶喜は上野寛永寺に謹慎に入ります。
なぜ、謹慎場所が寛永寺だったのでしょう?
一つは徳川家の菩提寺だから。徳川の菩提寺は芝の増上寺もありますが、上野の
方が山もあり守りやすい、北への逃げ道が確保しやすいこと。
もう一つは寛永寺の貫主・輪王寺宮の存在です。
現在は天台宗の頂点は比叡山延暦寺ですが、江戸時代は徳川氏の力により上野寛永
寺がそのトップの地位にありました。
さらに輪王寺宮は、東照宮のある日光輪王寺の門跡でもあり、徳川氏の影響は
非常に大きいものでした。
代々の輪王寺宮には、一品(いっぽん)法親王という位の皇族が務めることになって
います。一品とは皇族の中でも最高位の位で、天皇の子(大抵は養子ですが)に与え
られることになっていました。
天皇の子ですから、いざという時には還俗して即位も可能です。
つまり、輪王寺宮とは「徳川氏の力により奉じられた東国の天皇」であったのです。

慶喜との関係で言えば、彼の母は有栖川宮家の出身ですが、10、11、12代の
輪王寺宮も有栖川宮家から出ていて、慶喜とは親戚関係なんですね。
この当時は代替わりして、13代の公現法親王という方(伏見宮家出身)が輪王寺宮を
継いでいましたが、慶喜が上野寛永寺に籠ったのには、「守ってもらえる人脈と場所」
という理由があったようです。
この辺りの話、すっげーメンド臭いんですが、このことを知っていないと「なぜ上野で
戦争があったのか」がわからないままになってしまいます。

慶喜が謹慎に入ると、「慶喜様をお守りするための警護隊を作ろう。そのための会合を
開くので集まってください」という回状が、一橋家家臣、撒兵方(幕府仏式鉄砲隊)らに
回ってきました。
言い出しっぺは一橋家家臣の本多敏三郎と、陸軍取調役並の伴門五郎でした。
第1回目の会合は雑司ヶ谷鬼子母神門前の茶店で行われましたが、新政府の目を気に
してか集まったのはたったの17人。
とりあえず、隊の名称を「尊王恭順有志会」と定め、これが彰義隊の第一歩となったの
です。

しかし、17人じゃどーしよーもねーだろ、OLの女子会じゃねーんだから(←ウソ)、って
ことになり、四谷の円応寺で再びミーティング。
すると、呼びかけが功を奏したのか2回目の会合が30人、3回目は67人と段々と人が
集まってきます。
その3回目の会合にやってきたのが、先に話した天野八郎と渋沢成一郎の2人。
彼らはその場で血誓書に署名血判を押し、正式に入隊します。そして、尊王恭順有志会
の名称も「彰義隊」と改められたのです。

彰義隊のリーダーには渋沢が推されました。農民の出身とはいえ、奥右筆格という重職
にも就き、頭もサエるというのがその理由でした。
ちなみに、栄一はこの時徳川昭武に付いてフランスにいました。もし、日本にいたならば
間違いなく彰義隊に参加していたでしょう。
驚くのは一橋家家臣でも幕臣でもない天野が、ナンバー2の位置に就いたことです。
おそらく、天野は以前から幕臣らと交流を持ち、「アイツ、見た目は遠藤太津郎みたい
だけど、頭もいいし剣も使うナイスガイだね」という高評価を受けていたものと思われます。

というように、彰義隊は慶喜の身辺警護を目的とした部隊であり、決して「薩長と一戦
やらかしてやろうゼ」という目的で作られたものではありませんでした。
特に頭取の渋沢は一橋家家臣でしたから、「当主慶喜様のお命だけは、何としても
守らなければならぬ」という気持ちが大きかったのです。
ところが次第に彰義隊の評判が広がり、入隊希望者がわんさかと集まってくるように
なりました。
幕府がなくなり「明日はどっちだ・・・」という状況に身を置いた幕臣らの受け皿と、
彰義隊が見られてきたようです。
いよいよ隊士が300人を超えると、勝海舟らは「ヤバイ、新政府に余計な建議をかけ
られる」と心配します。しかし、前将軍を守ると言っている者らを解散させるわけにも
いかない。ということで、彰義隊に江戸市中の見廻りという仕事を与えることにしました。

ところがこの頃になると、彰義隊の中で意見の対立が起こり、渋沢派と天野派という
二つの派閥ができてしまいます。
渋沢は先にも話したように、彰義隊の目的は慶喜の護衛であるというスタンスです。
新入隊士も幕臣に限る、としていました。
しかし、集まってくる者の中には「薩長のヤツらに江戸の町を大手を振って歩かれる
のはガマンできねぇ。一戦やらかして、あわよくば幕府の再興だ!」と考える者が
多く、その意を汲み取っていたのが天野だったんですね。
天野は隊士募集も「身分・前歴問わず」、薩長への反抗心があり戦う気持ちがあれば
誰でも引き受けました。
簡単に言ってしまうと、慎重論の渋沢派と主戦論の天野派です。

次第に二派の衝突は表面化することになります。
そしてついに「新政府に寝返らないこと」「降伏はしないこと」を約束して天野派と
渋沢派は分裂してしまいます。
この頃、4月11日、慶喜は水戸で謹慎するために江戸を出ます。
彰義隊の大多数を率いることになった天野は、1000人余りに増えた隊士とともに
上野の山に入ります。
輪王寺宮を奉じて、新政府を撃退し、幕府再興!
それが天野率いる彰義隊の目的となったのです。

一方の渋沢は100人の隊士を連れて江戸を出ました。
慶喜のいない江戸にいても仕方がないし、水戸は他藩ですから入れません。
彼らは青梅街道を西に進み、田無村(西東京市)に駐屯しました。
「ここで新たに編成し直し、新しい部隊を作る!」
振武軍 の誕生です。


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仁義隊、八王子に屯集す!

慶喜将軍や幕閣たちが新政府軍に全面恭順することに納得がいかない旗本・
御家人たちは、各地でグループを作り、武力抵抗を試みます。

当時の江戸の人たちからすれば、薩摩や長州人など言葉も通じない「外国人」と
同じです。そんなヤツらに蹂躙されるくらいなら「死んだ方がまし」と一矢報いて
死に場所を探すサムライもいたでしょう。
それから、徳川本家が領地を没収されるということは、将軍から土地・屋敷を
与えられている幕臣は生活の基盤を失うことにもなり、「食うためにも何とか
しないと・・・!」との思いで仲間と集まる者たちもいたはずです。

幕府海軍や陸軍から戦力を率いて脱走した榎本武揚大鳥圭介らは、今後の
幕臣や旧幕府側につく諸藩をどうするかについて、もっと明確なビジョンを持って
動いていたのでしょうが、関東各地を中心に現れた旧幕府方武力集団はどこまで
の計画性を持って行動していたのでしょうか。

「里正日誌」には、この時期に東大和周辺に現れた3つの部隊について書かれて
います。それぞれ仁義隊・精勇隊・振武軍 と名乗る部隊です。
彼らはどう行動し、周辺の村々に影響を与えたのでしょうか。
先ずは仁義隊から見てみましょう。

「辰(慶応4年)閏4月 脱走300人余り八王子宿へ屯集し金策した一件
閏4月11日より八王子宿寺町松門寺・観音寺・本立寺へ仁義隊の内脱走
した凡そ300人余りが屯集し、旅宿から毎日炊き出しを出させた。旅宿はもちろん
近くの村の実力者らを呼び出し、隊長の間宮金八郎がそれぞれ隊にかかる金の
相談を申し付けてきた。
千人隊からは鉄砲20挺を借り受け、木曽村組合(町田市)の農兵から鉄砲
30挺、八王子・拝島両組合の農兵からは鉄砲はもちろん刀・脇差・鎗などを押借り
した。
19日の昼後に一同出立して府中宿に泊まり、中野村宝仙寺へ屯集するつもり
だったところ、この挙に乗じて八王子近辺の博徒が20人余り仁義隊に入隊して、
前夜の18日夜に凡そ50人余りが何処かへ脱走したという。
大総督府より田安殿へご沙汰があり、田安殿より勝安房殿へ仰せ渡され、
勝殿より鎮撫方の歩兵頭・原嘉藤次殿へ仰せ付けられ八王子宿へ出張された。
同人より話し合いをするというので、嘉藤次殿も同道するため出立した。」


上の記述では「仁義隊から脱走した300人」となっていますが、正しくはこの300人
そのものが仁義隊と名乗る一団でした。
また彼らの中から30人ほどが5月2日に所沢村に行き、撒兵隊 と名乗って
屯集しています。
彼らは農兵から武器などを調達したようですが、村々に屯集した目的はそれだけ
だったのでしょうか。
「里正日誌」は上の記述の最後をこう結んでいます。

「(仁義隊は)屯集中、強談 で金策を言ってきた」

そして、どの村の誰々に、いくらの金額を要求したのかが書かれているのですが、
これがスゴイ。
1ケ村の代表者へ50両~150両を要求。八王子宿などは200両を出せと言って
いるのです。13ケ村から計1175両という、とてつもない高額の献金要求です。
所沢に現れた撒兵隊も同様で、6ケ村に400両を出せと言っています。

いくらなんでもムチャクチャでしょう。
杢左衛門さんが「強談」と書いているように、強引に金銭を出させようとしたことは
明白です。
では、要求された村々では、この金額に応じたのでしょうか。
中野の宝仙寺に入った仁義隊は、粂川村の年寄・太左衛門さんを呼び出し、上記
とは別に100両を要求しました。
それに対する太左衛門さんの返答は、

「一、金12両2分也
この度、民衆のため私たちこれまで200余年の間、御神君(家康)のご恩を受け、
四海太平安楽を仕り、少しの間もご恩を忘れ難く、未だそのご恩を返していません。
月光に雲がかかるように悲痛はこれ以上なく耐え難いものです。裏切り者は日々
盛んになり、本当の家臣は山林に隠れ、実に太陽は照らさないものです。
無邪気な庶民を刀で脅し、昼夜神役を申し付けられ、農業の暇なく私は膝を涙で
湿らせています。元来、無知無教養の俗民が何の分別もなく歎いているところ、
御神君のご恩に報いようとする方々が出動されたことは、我々もご助力申し上げ
たいと存じますが、低い身分なので畏れ入ります。
ご恩に報いるため前書の金額をご献金申し上げます。ご受納していただければ
ありがたく幸せに存じます。なにとぞ四海太平安楽にしていただけますよう願い
奉ります。以上。
                    粂川村 年寄 太左衛門
慶応4年5月2日 
   仁義隊 御役所中様    」


ヒジョーに遠回りな言い方で、相手を立てていますが払う金額は12両2分。
さすがに全く払わないというワケにもいかないだろうし、このくらい出してやれば
さっさと行ってくれるかな、てくらいの金額でしょうか。
で、仁義隊のリアクションですが
「テメー、なめんなよッ!ガキの使いじゃねェんだ、ゴルァ!!」
と、刀を抜いてスゴんだかと思いきや・・・

「感状のこと
一、金12両2分也
この度、徳川家復興のため当地へ仁義隊が出動したところ、神君が280年の間
平和に治められたご恩に報いるため、軍用金を差送られたので受納した。
徳川家が御再興となったときは、厚く恩賞があるので、後日のため感状を書く。
  慶応4年5月2日        仁義隊  間宮謹八郎
                   粂川村  太左衛門     」


あっさりOKしています。
最初からダメもとで、吹っかけたのがアリアリですね。
1ケ村からこのくらいの金額が取れれば上出来と、最初から目論んでいたのかも
しれません。

さてその後、仁義隊がどうなったかは「里正日誌」には書かれていません。
ただ、5月16日に関東取締役から仁義隊の脱走者15人に対して
「旧悪大罪の者なので、立ち廻ったならば逮捕するように」
との命令が出ています。
日誌の最初の記述に大総督府から「田安殿」へ沙汰があったとありますね。
田安殿とは、徳川御三卿のうちの一つ田安家の当主・田安亀之助のことです。
徳川慶喜は謹慎に入ったため徳川宗家の座を降り、亀之助に譲っていました。
つまり、このとき、田安亀之助が徳川家の総本家だったのです。
ちなみに「勝安房」はモチロン、勝海舟。
仁義隊は徳川のために戦うという大義名分を旗頭にしていたものの、その徳川
からも追われていたということになります。

蛇足ながら・・・。
新選組隊士だった中島登が、会津戦争から箱館戦争終結時に至るまでの隊士
名簿を残しているのですが、その中に「右四人之者元仁義隊ニテ五月十一日
台場ニテ合兵ス」とあり、田中忠蔵、植本金三郎、立田鉄之蒸、藤本進二郎の
名前を記しています。
これは、八王子に屯集した仁義隊と同じものだったのでしょうか?

20140125.jpg

沖田さんと医者の娘との恋といえば、司馬遼太郎「新選組血風録」の中の
一編、「沖田総司の恋」ですね。
半井(なからい)玄節という医師の娘、お悠がその恋の相手です。
てことで、マンガにも同名で登場していただきました。

今後、次々に登場、「隊士たちの恋」編!
え、マジで?

精忠隊は精勇隊の誤りでしたので、直しておきました。スミマセン。(1/26)


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新政府軍、江戸に入る

慶応4年(1868)3月、新政府東征軍は東海道・東山道・北陸道の三方向
から江戸に進軍してきます。
彼らの目標は、江戸城と江戸の町を武力によって完全制圧することです。

では、一方の攻め込まれる側、江戸やその周囲では新政府軍をどのように
待ち構えていたのでしょうか?
旧幕府は新政府軍が江戸に入ってくるにあたり、民衆に対してお触れを出し、
その指示に従うように命じています。

「辰(慶応4年)3月 江戸町触れの写し
この度京都より新政府軍の御軍勢が差し向けられたことについては、実に
畏れ多いことである。将軍家は慎んでそのご沙汰を待っているところなので、
御軍勢に対してうっかりとした振る舞いを決してしないこと。
もし、そのようなふるまいがあったときは、京都に対して畏れ入ることは申す
迄もなく、さらに江戸の多くの人に戦争の苦しさを受けさせることになって
しまう。これは大きな不忠義である。
もし、このことを聞き入れず、お差し向けの御軍勢に手向かいした者は、私
(将軍慶喜)の心に背き、私の身体に刃物を当てたも同じことであるから、
このことはしっかりとわきまえ、心得違いのないようにすることをそれぞれへ
達し置くので、市中末々まで漏らさず触れ置くよう申すべきことである。
   3月
右の通り仰せられたことにつき、市中の者どもは決して動揺せず、諸事慎し
み、火の元は特に厳重に気を付けるようにすること。土地を借りている者、
人に仕えて働いている者に至るまで、よくよく申し聞かせるよう早々に触れ
るべきことである。
   辰3月   」


「里正日誌」にはこのように、江戸で出された触書の写しが残されています。
おそらく、蔵敷村にも同様のお触れが出たものと思います。
注目するのは「御軍勢に手向かうことは私(慶喜)に手向かうことと同じだよ」
と言い切っていることですね。
この触書を見て、庶民も末端の御家人たちも、将軍が全面的に恭順したこと
を知ったのでしょう。

この後、旧幕府側はなんとか江戸市中での戦闘を避けようとして、新政府軍側
と交渉に入ります。
「里正日誌」には3月9日から18日まで若年寄川勝備後守から「その間に決し
て動揺しないように」との仰せ渡しがあったことが記録されています。

「この度、御征討軍を御遣わしになったことにつき、今月15日に江戸城攻撃の
噂もあるので、これを控えていただけるよう嘆願しているところである。
大総督府へお伺いを済ませるまで総攻撃は見合わせると、西郷吉之
が答えたので、武家も市中庶民もみだらに動揺し、思わぬ不都合
なことを起こすのはもっての外である。諸事静かにご沙汰を待つように、この
ことをあらゆる場所へ漏らさず触れること。」


これは3月15日に備後守から勘定奉行に出された命令書です。
そのまま代官所→杢左衛門さんへと伝わったものでしょう。
18日には東山道総督の岩倉具定(具視の次男)が市ヶ谷の尾張藩邸に入る
ので、やはり騒いだりしないようにとのお触れが出たことが記載されています。
このように、旧幕府の中枢は完全に新政府に恭順しご沙汰を待っている状態
だということを、リアルタイムに近い形で江戸周辺の村々は知っていたという
ことになります。
となると、江川英武代官が新政府軍に呼ばれて京都まで行き、今後の身の振り
方を考え始めたのも、わからないではありません。

しかし、幕臣たちの中にはこの恭順に納得できない人が多数いました。
徳川家が領地を失えば、全員失職し、住む家も失ってしまうからです。
「こいつァ一丁、ヤマでも踏むしかねェッ」
彼らは互いに連絡・連携を取りながら新政府軍への抵抗グループを作っていき
ます。有名なのが彰義隊ですが、そういった部隊が多く結成されました。
新選組なんかはまさにその老舗ですね。彼らは新政府東山道軍と3月6日に
甲州柏尾で戦闘しています。
つまり、親玉の将軍は降参してるけれど、子分たちの中には「まだ戦いは終わっ
ちゃいねェぜ!」とファイティングポーズをとっている者たちがいた、というのが
当時の状況です。

で、こういった抵抗部隊は、まさか江戸市中に「われら青春 抗戦派!」などと
看板出して屯集するワケにもいきませんよね。
自然と郊外の江戸周辺に集まるようになります。
狭山丘陵周辺も、彼らの姿を見かけるようになってきました。

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土方さんの実家が扱う薬は何種類あって、有名なのが「石田散薬」という
打ち身などのケガに効く薬です。家のすぐ近くを流れる浅川に自生する
牛革草(ぎゅうかくそう)という野草が原料ですが、この製法については
土方家のご先祖様が浅川のカッパから教わったと云われています。
もう一つ知られているのが「虚労散」という薬。これは、歳さんの姉が嫁いだ
佐藤家に伝わるもので、結核や肋膜炎に効果があったといいます。なので、
沖田さんが服用していたのはこちら、虚労散の方でしょうね。
この虚労散は、多摩地方最大の名名主である押立村(府中市)の川崎平
右衛門から伝わったものだそうです。
ところが、その川崎家には「虚労丸」というやはり家伝の薬があるのですが、
これは日野の佐藤家から伝わったと云われているそうでして。
この二つの薬は散薬と丸薬の違いはあれど、ほぼ同じ薬らしく、どちらかから
どちらかに伝わったんでしょうけど、なんかゴチャゴチャになっちゃったみたい
ですね。
もしかしたら、こちらもルーツはカッパかも・・・?

武州世直し一揆

慶応2年6月13日、武蔵国秩父郡上名栗村の百姓たちが、同国高麗郡
飯能村の穀屋・酒屋などを打ちこわすという事件が起こりました。
打ちこわしはさらに拡大。わずか7日間のうちに武蔵国秩父・高麗・入間・
新座・比企・多摩・足立・大里・埼玉・男衾・榛沢・児玉・那賀・賀美・豊島
の15郡、上野国緑野・甘楽の2郡を席巻するという、大事件に発展します。
これが世に云う武州世直し一揆 です。

「東大和市史」によれば、東は中山道筋、南は多摩川流域、北は上・武国
堺沿いに及ぶ関東西北部一帯に展開し、打ちこわされた家屋は200ヵ村で
520軒、一揆勢として参加した民衆は十数万人で、各村から村単位の人足
動員という方法で組織され、雪だるま式に激増。一揆の指導者は各地に存在
し、打ちこわし対象者を選んで、計画的に指揮したということです。

蔵敷村名主・杢左衛門さんは、農兵大坂出兵騒ぎが落着し、ホッと一息ついた
日野宿からの帰り道に、この事件の一報を聞きました。

「6月15日、日野宿からの帰り道に築地の渡船場で、打ちこわしが起こったの
で昨夜渡船場へ警備を固めるように支配所より仰せつけられた、と船頭から聞
いた。
砂川村名主の源五右衛門の家へ様子を聞きに立ち寄ったところ、支配所の
手代・井上連吉様が八王子宿組合の農兵をお連れ出しになりお控えされている
と聞いた。昨日の14日夜九ツ時(12時)に八王子を出立し拝島村の渡船場の
警備を固めて、今朝未明に砂川村に罷り越してきたという。
井上様から、早々に帰宅し組合の農兵を呼び寄せ手配し、命令があり次第出動
するように仰せつけられ、昼九ツ時(正午)帰宅した。
すると、村役人一同心配して帰宅を待ちかねていたが、早々に組合村へ農兵を呼
び寄せ、鉄砲玉鋳立てや玉薬詰めなどを蔵敷村の農兵の啓蔵・佐吉郎その他を
呼び寄せて支度させた。」


なかなかにリアルな描写で、緊迫感が伝わります。
13日に農兵の上坂が決まり、それが15日にあっさりと中止となった理由はココに
ありました。
幕府のお膝元武蔵国での大一揆です。これは農兵を大坂に派遣なんてしてられ
ません。
また、杢左衛門さんたち村のリーダーも、一揆が来たら撃退しなければなりません。

「およそ夕五ツ時頃(午後8時)、一揆勢は大勢となった。今日の午後にまたまた
所沢に乱暴を働くに及び、なお多摩郡の辺りへ押し入るとのうわさも聞く。
ついては先刻申し渡した通り農兵を集めておき、命令があり次第、村役人が付き
添って出動できるようにすること。
右はまだ準備できていない一件につき、強く手配するべきこと。以上。
                    江川太郎左衛門手代 井上連吉」


情報が飛び、代官所からはいつでも出動できるようにとの指令があります。

「追って一揆勢の行く先々の様子がわかったならば、早々に申し伝えられるべき
ことである。
右は砂川村の御用先からのご命令であり、早々に組合村へ触れ出して出動の
用意をいたし、御用の高張り提灯を終夜照らしおいた。」


一揆勢が打ちこわす対象者には2つのパターンがありました。
一つは一揆勢にとって完全な敵対者であり、彼らは徹底的な打ちこわしの被害に
あいました。どんな人たちかというと、悪質な高利貸しや横浜貿易で莫大な利益
を上げている商人などです。特に貿易商人は物価高騰の元凶と目されていたので
、激しい攻撃目標となったようです。
もう一つは豪農たち。しかし、彼らが一揆勢の要求を容れて穀物などを放出した
場合はノー・プロブレム。一揆勢も打ちこわしはせずに済ませたようです。

で、一揆というのもルールがあるようでして、「我々は生活が苦しいからこういう
コトをやるのです。生活維持のための行動なのですよ」という主張に基づいた
打ちこわしをするんですな。
具体的には、ボッコボコに破壊はするけれど、決して略奪行為はしない。
人を殺したり、傷つけたりはしない。
武器は農具や生産用具だけで、刀などは使用しない。
・・・てなこと。

当時の物価上昇は天井知らずとなっていて、特に米の値段は銭100文で1升
買えたものが1合5勺しか買えない、という状況にまでなっていたようです。
「世直し」とは物価を引き下げることであり、打ちこわしは豪農たちにその蓄財を
放出させて、貧民を救済させる手段だったんですね。

なお、この「武州世直し一揆」は、その舞台となった場所では「ぶちこわし」とか
「ぼっこし」などと呼ばれてきたようです。

さぁ、この世直し一揆。どのような展開を見せたのでしょうか!?

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よく云われるのが、「土方と山南は仲が悪かったのか?」ってこと。
だんだんと土方流が強くなっていく新選組に居場所がなくなり、山南さんは
脱走した・・・と、だいたいそんなストーリーが語られます。
でも、本当にそうだったのでしょうか?
山南さんは小野派一刀流を修めてはいましたが、近藤さんに影響を受け
試衛館に身を寄せます。ここまでなら永倉・原田・藤堂と同じですが、彼は
師範代として多摩の村々に剣術を教えに行ってるんですね。
そこは佐藤彦五郎や小島鹿之助ら、近藤さんの「兄弟子」が道場を構える地域。
そこへ剣術を教えに行くのですから、すでに周囲から天然理心流の遣い手と、
認められていた証拠だと思うのです。
おそらくトシさんが稽古をつけてもらったこともあったでしょう。
そこには総司クンや源さんへのと同じ、同志の繋がりがあったハズです。


「波動砲、発射ッ!」
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