精勇隊にいた新選組隊士 菅野六郎


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こんなアジャパーなブログですが、ありがたいことにたくさんのコメントをいただいて
おります。「ありがとぅーーッ」谷村新司風に感謝のごあいさつです。

その中で前回、東屋梢風さんからとても興味深いコメントをいただきました。
フツーにご返答するだけではモッタイナイと思いましたので、今回は東屋梢風さんから
のコメントをご紹介しながら、本文をススメたいと思います。
ちょっとマニアックな番外編ですが、みんな最後までノリノリでついてきてね!

では、早速ですが、いただいたコメントをご覧ください。

「振武軍の「甲州で再挙」説、
『指田日記』18日にもそう言って箱根ヶ崎を去った旨があるそうですが、
これは新政府軍の追跡を攪乱するための嘘という説を見かけました。

飯能戦争の時、あの精勇隊は、さほど遠くない所沢でどうしていたのか。
実は、大村藩の記録に「稲田藩精忠隊」2人が所沢宿に配置されたとかあるそうです。
これが精勇隊のことだとすれば、飯能戦争では新政府軍に協力していた、しかし
掛川藩はこれを知らずに振武軍残党と疑って捕えた、ということかもしれません。

なお、精勇隊に菅野六郎という人物が所属していたそうですが、
『里正日誌』には記載されていますか?
新選組の初期にも同姓同名の隊士がおり、同一人物の可能性が高いようです。」 


先ず最初の「甲州で再挙」の話ですが。
渋沢成一郎率いる振武軍が、上野から敗走してきた彰義隊の一部と合流して飯能へ行き、
新政府軍と戦ったこと(飯能戦争)はご紹介しました。
ところが、やはり当ブログの読者でいらっしゃる甚左衛門さんから、「当初、振武軍は青梅
で戦闘するつもりであったが、名主らの説得で行く先を飯能に変更した」というお話を伺い
ました。青梅市資料館で開かれた展示会のパンフに記載されているそうです。
この話に補足するように、東屋梢風さんから「青梅を戦場に選んだのは、そこがダメになっ
ても甲州からの援軍があるので塩山で戦えるからだと振武軍が考えていた」、という説が
あることをご紹介していただきました。
今回のコメントは、それが振武軍の撹乱だったのでは?という話です。

これについて検証してみます。
「指田日記」は以前にもご紹介しましたが、武蔵村山市の中藤村(なかとう)の名主だった
指田家に残されている日記です。
慶応4年(1868)5月17日「雨。江戸合戦、浅草正義隊の人、箱根ヶ崎に脱走」
記述があります。
この正義隊が彰義隊のことです。上野ではなく浅草と書かれているのは、彰義隊の屯所が
最初は浅草本願寺に置かれていたことによるものでしょう。
そして、問題の18日。
「雨。箱根ヶ崎に入り脱走、甲府をさして行く由を申して去る」

指田日記では彰義隊と振武軍の区別はつけていません。大元は同じという考えがあった
のでしょうか。
そして向かう先は飯能でも青梅でもなく、甲府と書いています。「申して去る」と書いてあ
る所を見ると、渋沢らは箱根ヶ崎の村民に、自分たちの行く先をハッキリと言って立ち去っ
たということでしょう。

しかし、これはあまりに不用心過ぎますね。不自然です。
「21日 雨。官軍の勢、砂川(立川市)に来ると噂ありけれども来ず」
追手が迫ってきているのに、自分たちの進路をわざわざ言っていくなんて考えられません。
よっぽど信頼している人ならともかく、要求した三分の一ほどしか献金しない村々です。
これは、東屋梢風さんが仰るように「甲州で再挙」は振武軍の撹乱作戦と見ていいのでは
ないでしょうか。

そもそも、この時点で甲府に彰義隊の味方になってくれるような勢力があったとは考え難い
ですよね。新選組(甲陽鎮撫隊)も甲府を取られてボコボコにヤラレてるんですから。

さて、次。
所沢村にやってきた精勇隊は、阿波の稲田藩と関係が深かったようです。
新政府側の大村藩の記録に「稲田藩精忠隊」とあるそうで、これを考えると、「里正日誌」
本文では「精勇隊」と書かれ、解説分で「精忠隊」と書かれていたことがなんとなく納得
できる気がいたしました。
ここで、「指田日記」から精勇隊が捕縛された頃の記述を見てみましょう。

「18日 所沢に行く。先日より脱走兵、40日ばかり所沢に居り横行していたのを、
八王子を守備していた太田備中守(掛川藩)の手勢が来た。50人ばかりを逮捕して江戸
に引いていった。後でどうなったかは知らない」


稲田藩は新政府側ですから、当然精勇隊も新政府寄りの部隊であろうと思います。
ところが勝手な金策などをしたため、掛川藩に捕まったというストーリーを考えていたので
すが、指田さんは「脱走兵」と書いています。
てことは、旧幕側?
精勇隊は江戸にいた総隊長の柏尾嘉平次と、前線の鈴木織之助らとでは意見や方向性の
違いがあったかもしれないと書きましたが、果たして本当はどんな部隊だったのでしょう?

ラスト。
ファンの方お待ちかね、新選組の話題です。

菅野六郎 という隊士は初期の新選組に実在したようです。
文久3年(1863)6月頃に入隊するも、翌年6月の池田屋事件前には離隊していたよう
なので、ホントに初期の頃だけにいた隊士ですね。
その彼が江戸に来ていたのでしょうか、精勇隊にいるというんですね。
「里正日誌」には、掛川藩に捕えられた精勇隊士のリストが書かれています。
「慶応4辰年6月所沢村薬王寺屯集精勇隊名前」の中に「菅野六郎」の名前が記されていま
す。名前の上に〇印があり、これは江戸に送られた後に荷物を残していった者のことと
注意書きが あります。
隊士の中には風呂敷包みや長持ち、両掛け箪笥、陣笠、半弓、鎗、薬などを持っていた
者がいたようです。さらに所沢の商人から50両ほどの買い物をして、代金が未納だった
らしく、これらの品々のいくつかはそうやって集めたものかもしれません。

さらに「掛川御人数御調べ御手控え写し」と書かれた一覧には「生国紀州 柏尾馬之助門弟 
 菅野六一郎」
とあります。同一人物でしょう。
柏尾馬之助は柏尾嘉平次の倅であり、すでに死亡と書かれています。
馬之助は千葉定吉・重太郎から北辰一刀流剣術を学び、新徴組の剣術教授方、肝煎を務め
た人のようです。
ということで、菅野も北辰一刀流を使ったことは間違いないでしょう。
また、精勇隊の中には「千葉重次郎門弟」という人が何人かいます。これが重太郎のことだ
とすると、精勇隊には柏尾門弟と合わせて北辰一刀流を学んだ人が中心であったことが
想像できます。
また、取調べを受けた精勇隊の全員が刀と脇差を持ち、鎗24本を装備をしていたのに対
し、鉄砲は9挺、短筒は3挺、木炮が10挺しかなかったことも記されていて、彼らが剣術
者集団であったことも臭わせます。

江戸に送られた精勇隊はどうなったのでしょうか?
ワタクシ、前回見落としていたのですが、このような記述を見つけました。

「19日、精勇隊一同は江戸表西ノ丸下の糺問所へ差送りになり、赤心隊・報国隊にて
お受取りになった」


赤心隊、報国隊とも新政府側の部隊です。精勇隊の面々はこれらの部隊に入れられた
ということでしょうか。
菅野もその中の一人として、戊申戦争を戦ったのでしょうか?

東屋梢風さん、甚左衛門さん、興味深いコメントをありがとうございました。
ワタクシもより史料を読み直すことができ、勉強させていただきました。

ちょっと、今回はマニアックでしたか。
まぁ、歴史に興味薄い方は(そーゆー人はココに来ないと思うけど)マンガだけ見てくれ
てもOK牧場ですので。

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コメント一覧

#594 謎は所沢に?
 15日夜半、振武軍は上野に向かって箱根ヶ崎を出発します。
 16日、彰義隊の残兵と合流
 17日、箱根ヶ崎に宿営(青梅を目指す)浜中、柳内(いずれも名主)に青梅の地の利を聞き、軍用金などを要求
 18日、日向和田へ調査、青梅は不利と判断
 18日、本体は二本木から扇町屋を経て飯能入り
 これが経過です。このルートを見れば、本体は「申して去る」とおり、所沢とは関係なく飯能に入っていると思えます。しかし、所沢で問題がくすぶっている。ここに陽動作戦があったとすれば、それは何を目的としていたのでしょうか? 次々と疑問応の渦に包まれます。
#595 野火止用水さま
謎が謎を呼びますね。
史料ではなかなか判断がつきませんが、振武軍、精勇隊ともお互いの行動を
互いに気にしていた部分はあるのかもしれません。
特に、精勇隊に関しては、ワタクシは彼らが新政府側だったのか、旧幕側
だったのか、掴みかねております。

陽動作戦についてですが、ワタクシは渋沢が内部のスパイを疑ってそう言った
可能性もあるのではないかと思っています。
根拠としては、田無で敗走してきた彰義隊と合流したあと、「十七日同所出立
小川通り一隊相別れ箱根ヶ崎泊り」と隊を二つに分け行動していることです。
大人数だと目立つからというのもあるでしょうが、彰義隊にはかなりスパイが
紛れていたといいますし、渋沢は敗走者の中にそういった人物がいるかもしれ
ないと疑っていたのではないでしょうか。あくまでも可能性の話ですが・・・。
#596 マンガ
う~ん、ついていけるのはマンガだけになりそう...。冒頭の現代版もいいですね。Junpei
#597 Junpeiさま
今回は細かい話でしたので、興味のない方にはスミマセンでした。
そのかわり、マンガはいつもと違って、ちょっとカワイイかんじにして
みました。ワタクシの絵らしくない?

本人が描いてないのでは?代筆なのでは?

謎が謎を呼びます。
#598 甲州は火薬庫
18日に振武軍が「甲府を目指し、去る」と述べたことは、
たいへん重要な意味を持っていると思います。
甲府町年寄坂田家の「御用日記」には、
四月二十二日、「黒駒に江戸脱走の旗本浪人、木更津の賊の生き残り屯集」
とあり、これを恐れた大総督府(板垣)から山岡鉄太郎、石坂周蔵が派遣され、「鉄砲」を引きとり、浪人共を一応「鎮撫」した、との記載があります。
(黒駒は当時、中規模の商業地域でした。)

振武軍の事柄は五月なので、一月前には「黒駒の浪士」たちの蜂起(?)は
頓挫しているわけですが、むしろ「彰義隊」の終末期に、彼らの中に、
「最終的には甲州で…」という目論見があった可能性が浮上してくるように思います。
首脳部はともかく、振武軍下卒には、この時点でも「甲府へ」の思想があったことは偽りではなかったのではないでしょうか。
#599 甚左衛門さま
これはまた、貴重なお話をありがとうございます。
柏尾戦争以降の甲府の様子は細かく知らなかったもので、勉強になりました。
ありがとうございます。
板垣らが甲府を押さえた後も、甲府では抵抗戦があったのですね。

4/22というと、この年は閏4月があるので、上野戦争の約2カ月前ですね。
その時期に黒駒に集まった旗本浪人、さらには木更津の賊とは何者だったの
でしょうか?2カ月あれば、仰るように敗走後に彰義隊に参加することも
十分可能だったでしょう。
「甲府挙兵」の真実はどこにあったのか、わからなくなってきましたね。
#600 Re
すいません。言葉が足りませんでした。屯集は
(閏四月)の方です。(henshingomuyou !)
#601 謎ばかり
イッセーさんの自画像、レアで新鮮です(笑)
ポンちゃんはいつのまにか大きくなりましたねー!

当方の拙いコメントを取り上げていただき、どうもありがとうございます。
駿州・赤心隊と遠州・報国隊は、それぞれ地元の神職らが組織した草莽隊ですね。
新政府軍の指揮下、江戸へ進軍するも、その先の転戦はなく11月に解散したとか。
預けられた精勇隊の面々がどのように身を処したかわかりませんが、
中には奥州や蝦夷への転戦に志願、出征した者がいたかもしれません。

甲州の維新期について書かれた「峽中沿革史」に、具体的な日付は不明ながら、
前後関係から4月~閏4月のことと思われる記述があります。曰く――

甲斐田某、神海某という者が同志を募り、
上野の彰義隊や三兵隊(撒兵隊の意味か)と連絡を取り合い、挙兵しようとした。
その趣旨は、徳川家を再興し、輪王寺宮を関東の主とし、
仏教を迫害する者を論服、仏教を大いに広めることである。
挙兵の準備がほぼ出来上がる頃に露見し、同調者らとともに三宅島へ流された。
刑期は8年のところ、1年半で赦免されて帰国した。

これは、黒駒における蜂起計画と同じ出来事を指しているのかもしれません。
地元の仏教系団体の人物が関与していたんでしょうか。
「木更津の賊」とは、市川・船橋戦争の敗残兵(撒兵隊)かと思いました。
#602 東屋梢風さま
この度はコメを使わせていただくことを快諾していただき、誠にありがとう
ございました。

甲州でそのような動きがあったとは知りませんでした。勉強になります。
しかし、仏教を全面に押し出している部分が特徴的ですね。
輪王寺宮を担ぐことは奥羽越列藩同盟と同じですが、彼を皇族としてではなく、
天台宗座主として迎えようとしている所が興味深いです。
地元の仏教系と上野寛永寺を結んだ人物がいたのでしょうか。
ちょっと覚王院義観の関与を疑ってしまいました・・・考え過ぎ。

ポンタは生後1ヶ月半くらいに、死にかけていたのを保護したのがウソのように
デカくなってしまいました。テンコより3kg近く重いんですけど、先輩猫の
テンコが本気で怒るとビビってます。

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