猫でもわかる彰義隊 2

前回までのあらすじ。
  
  彰義隊は天野八郎と渋沢成一郎の二派に分かれた。
  天野八郎は遠藤太津郎に似ている。 以上。

さぁ、前回の復習も済んだところで、今回もいってみまショーン・コネリー。

渋沢らと袂を分かった天野率いる彰義隊は上野に入り、寛永寺の寒松院に本営を
置きます。この時隊士は1000人を超え、さらにまだ入隊者が増えているという
状況が続いていました。
江戸っ子たちは内心「薩摩や長州の田舎モンに征服されちまうのかよ、悲しいねぇ」
と思っていましたから、江戸を守ろうと集まる彰義隊はカッコ良く見えたようで、拍手
喝采を送ったといいます。
吉原でも薩長藩士は全く人気がなく、「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」がおネェちゃん
たちの合言葉でした。

彰義隊の目的は「輪王寺宮をお守りする」ということでした。
輪王寺宮は皇族ですから(しかも名義上天皇の子)、征討の勅諚でも出ないかぎり
宮をお守りしていれば朝敵にはならないのです。
これは後の話になりますが、佐幕側の東北・北陸雄藩が「奥羽越列藩同盟」を結成
したときに、輪王寺宮に即位していただき「東日本政権」を樹立させようという計画が
ありました。
天野がどこまで考えていたかわかりませんが、幕府を再興させるにしても、慶喜より
輪王寺宮の方がずっと大事であるという考えはあったでしょう。
宮は天皇にもなれるお方ですが、徳川将軍は慶喜でなくてもいいのです。

渋沢成一郎は慶喜の家臣だったので、主君の命がとにかく第一でした。
天野も慶喜が水戸へ行くときには千住大橋まで見送っていますので、忠義の心はあった
でしょうが、渋沢ほどの慶喜個人への忠誠心は無かったと思います。
それよりも幕府を再興させることが大事なのです。

しかし、彰義隊を取り巻く空気は次第にキビしくなって行きます。
新政府が田安亀之助(徳川家達・いえさと)に徳川家を相続させる許可を出すと、市中
警備も新政府が行うと通達してきました。勝海舟はこれを機会に、彰義隊に武装解除を
持ちかけますが、これにおとなしく応じる天野らではありません。
江戸市中では日ごとに新政府側と彰義隊士の衝突が多くなってきます。
ついに新政府は彰義隊を賊徒と定め、5月15日に攻撃すると決定したのです。

上野の山に入った彰義隊は2000人とも3000人とも云われています。
正確な名簿は残されておらず、また、神木隊(高田藩)とか万字隊(関宿藩)というような
諸藩からの参加部隊もあったので、実際の人数はわかりません。
しかし、15日の戦争が起きたとき、彰義隊側には1000人ほどの人数しかいませんで
した。
というのも、隊士らは各組み分けがされ、持ち場も決まっていましたが、比較的自由に
遊びに出たりしていたみたいなんですね。
彰義隊は新選組のような局中法度もなければ、血の粛清もありません。来る者は拒まず、
去る者は追わず。だからスパイも相当入り込んでいたし、「ちょっとサムライ気取ってみる
か」みたいなハンパ者も3000人の数の中にはいたようです。
なので、彰義隊を「烏合の衆」と決めつけるものもあります。

さて、前回のこのブログのマンガで「彰義隊に金がない」という意味のマンガを描きました。
けどこれはウソです。だから詐欺なんですよ、奥さん!
彰義隊は銃火器でバンバン撃ってくる新政府軍に対し、刀鎗で向かっていったイメージが
あります。当時の錦絵もそう描いてあります。だから武器を調達するお金がなかったのか
しら・・・なんて思ってしまうんですが、これは間違い。
お金はあったんです。
だって、正式に幕府(暫定統治機構)から市中見廻りを拝命していたのですから、お金は
出ていました。さらに、明治の江戸時代考証家の三田村鳶魚(えんぎょ)って人が書いて
るんですが、寛永寺は大名への金貸しをしていて慶応3年には500万両の蓄財があった
らしいです。
でも、彰義隊は全体でも小銃400~500挺、弾丸も平均で5~6発。大砲も11門しか
なかったと云われています。
要するに、金はあったんだけど、十分に準備しておかなかったというのが真相のようなん
ですね。

15日の午前7時、いよいよ開戦。
まぁ、戦いの推移は他でいろいろ本など出ていますので参照してください。
ココでは上野が戦場になってしまったもう一つの理由に触れてみたいと思います。

新政府側は輪王寺宮に何度も山を下りるように呼びかけました。
しかし、宮は一向に上野を出る気配を見せませんでした。
といっても、これは宮ご自身だけの考えではなく、周りもそうさせていたんですね。
輪王寺宮は寛永寺のトップではありますが、これはモチロン形式上のこと。
実際には執当というポジションの者が寺務一切を取り仕切っていました。
この時期、その執当にいたのが覚王院義観という坊さんです。この人がゴリゴリの主戦派
なんですね。ボーズなのに。

ま、理由はあるんですよ。
慶喜が寛永寺で謹慎していた時、つまりまだ新政府軍が江戸に総攻撃をしようとしていた
時。輪王寺宮である公現法親王と覚王院義観は、駿府まで来ていた大総督府に出向いて
戦争の回避と慶喜の助命を訴えたんです。
総督の有栖川宮熾仁親王とは同じ皇族ですし、有栖川宮家からは過去に輪王寺宮も出て
いる、話も通じやすいと思ったのでしょう。
ところがドッコイ。「あンたなー、そないなコト言うてもさっぱワヤですねん。早よ江戸へ
お帰りはって、幕府の主戦派を押さえたほうがよろしおまっせー。ホンマでっせー。」
と冷たくあしらわれちゃった。
これには宮さまも義観もアタマにきたワケです。
結局、戦争を回避させたのは山岡鉄舟とか勝海舟とか、元々は身分の軽い幕臣たちでしょ。
プライドを傷つけられた宮さまと義観は
「天野ッチ、軍資金はたんまりあるわさッ。思いっきりおやんなさいな!」
てコトで、これもまた上野が戦場になった理由でありましょう。

戦争は、当初彰義隊が押す場面があったものの、やはり新政府軍の人数と銃火器には
勝てず、午後4時には勝敗が決しました。新政府軍側死者43人に対し、彰義隊側死者
300人以上という大敗です。
輪王寺宮は北口から逃れ、後に榎本武揚らと合流し仙台に行きます。
彰義隊は結成から4ヶ月、わずか半日の戦いで壊滅してしまいました。実際にはその残党が
箱館戦争まで戦うんですが、彰義隊が歴史の主役となったのはこの1日だけです。

上野戦争と彰義隊とは、いったい何だったのでしょうか?

伊勢八という呉服太物を商う店の、加太民之助という商人が彰義隊に参加し、そのまま
帰らなかったそうです。彼は妻子にその理由として「江戸っ子として薩摩が威張っている
状況にガマンできねェんだ、こんちきしょう!」と言い残していったそうです。
彰義隊にはそういう人が、幕臣、町人問わずたくさん参加していたのでしょうね。
薩摩が鳥羽・伏見の戦いのきっかけを作るまで、さんざん江戸で乱暴に及んだことをみんな
忘れていなかったのですよ。
天野がその人たちを引き入れ、それは一見「烏合の衆」に見えたかもしれませんし、そう
いった側面は確かにあったでしょう。しかし、江戸っ子の心もまた上野にあったのだと
思います。

新政府軍が半日で戦争を終わらせたのは、戦いが長引けば周りで様子を見ている幕臣らが
加勢してくる恐れがあったからでした。
戦いの済んだ後で新政府軍は火を放ち、上野の山にあった多くの堂塔伽藍が焼失しました。
戦後、彰義隊の残党狩りは執拗に行われ、天野も隠れている所を見つけられ捕縛。獄中で
病気になりそのまま息を引き取ります。38歳でした。

彰義隊マンガ2

彰義隊の中にも頭並を務めた春日左衛門という「君容貌美麗にして尤も強気あり」
と云われたメンズもいたようですが、如何せん絵とか写真が残ってないのです。
まぁ、新選組でも沖田さんのように肖像画が残ってなくてもイメージでイケメン扱いされ
てる人もいるワケで・・・結局、彰義隊そのものがマイナー扱いだから隊士たちも語られ
ないんでしょうね。
東京の人だったら、語り残さなきゃいけないよね。彰義隊。

よしッ、東京オリンピックの公式マスコットは「天野八郎ッチ」だッ!フガー!


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#558 輪王寺宮
輪王寺宮、今回の彰義隊シリーズでの学びはこれですね。冒頭の「短いあらすじ」もいいですね。Junpei
#559 Junpeiさま
13代輪王寺宮公現法親王は、本名を能久(よしひさ)親王と言います。
奥羽越列藩同盟の計画した東日本政権では即位する予定で、東武皇帝という名称
も決まっていました。
明治維新後は還俗して北白川宮と称しました。日清戦争にも従軍し、明治28年に
赴任先の台湾でマラリアにかかって亡くなっています。その後、台湾神社に軍神と
して祀られました。
彼の実兄の小松宮彰仁親王は、戊申戦争では奥羽征討総督でした。つまり、兄弟で
敵味方に分かれて戦っていたんですね。
現代の皇族からは考えられない数奇な運命を生きた方です。
#560 肖像画
イッセーさん、こんばんわ!

今回も彰義隊について、勉強させていただきました!
4コマ漫画も笑えます。(ネット検索後、天野さんが似ていると判明)

天野八郎さんの肖像画が気になったので検索してみました!
なかなか「いい男」だと思います・・・藤田まことさんかザ・ぼんちの
おさむちゃんに似ているなぁと思いました。

肖像画といえば、上野戦争について調べている時に発見した「大村益次郎」さん
のほうが凄いです!宇宙人!?かと思いました.....Σヾ(;☆ω☆)ノ

イタリアのキヨッソーネさんが描いた肖像画らしいですが、デフォルメして
いるんでしょうね...多分。西郷隆盛さんのイメージを作った人なんでしょうか?

次回も楽しみにしております!それでは



#561 Nitto-GTさま
大村益次郎の肖像画はスゴイですね。ワタクシも最初に見たときはビックリ
しました。キヨソネは西郷さんの肖像画で有名ですが、どちらの絵も本人を
見たわけではなく、周りの人の証言で描いたみたいですね。
昔の大河ドラマの「花神」は、この大村さんが主役ですが、演じた中村梅之助
(伝七捕り物帳の人・中村梅雀の父)がおでこボーンのあのままの姿に似せた
メイクで登場して、これまた衝撃的でした。
画像検索(大村益次郎 中村梅之助)で出てきますので、ご覧になることを
オススメします!
#570 (=・ω・=) ワカッタニャ~
輪王寺宮公現法親王は、和平のため尽力したにもかかわらず
その願いを一蹴され、さぞかし無念だったろうと想像します。
宮様の権威を蔑ろにされて憤激したのは、ご本人より覚王院義観だったかも。
この人は新政府に捕われた後、獄中で自ら食を断って亡くなりましたね。

彰義隊は貧乏所帯ではなかったはずなのに、
振り込め詐欺…もとい、献金要求もしていた様子です。
日に日に大所帯へと膨れ上がり、支援部隊まで賄いきれなくなったのでしょうか。
長尾村に閏4月27日、「彰義隊の野々村大次郎」が訪れ6千両を要求しています。
(野々村は、より正確には猶興隊の幹部)
村ではとりあえず100両出すことにして、2日後に40両を届けました。
5月10日に残金催促の手紙が来て、応じようとした矢先に15日の開戦となり
あとの60両は渡さずに終わった様子です。(野々村は上野で戦死)

前回コメントの補足ですが、元新選組の岩崎一郎は、
上野から敗走後、まもなく恭順し沼津に移住しました。
彰義隊の小林清五郎は、渋沢成一郎とともに箱館まで戦い、やはり沼津へ移住。
そこで岩崎と争い殺害、しばらく謹慎したものの、弁明が認められ処罰なしとなりました。
(斬り合いの時、小林は独りでなく、実弟・柿崎悌六も一緒だったとか)
争闘の原因は不明ですが、上野もしくは沼津で何事かあった、と推測されています。
#571 ただただ感心
絵と言い、歴史記事はスゴイの一言 料理仲間もポスターをみてびっくりでした。
#572 東屋梢風さま
仰るように、義観の怒りは相当強かったろうと思います。
上野が戦場になったのは、義観の影響もかなりあったのではないかと
考えています。

彰義隊にはどれほどの支援部隊がつき、それらの賄い費用は誰が出して
いたのかが気になりますね。
野々村も6000両とはスゴイ金額を要求したものですが、そういった
行動は天野たちの耳に入っていたのでしょうか。

岩崎の話、ありがとうございます。
こういうマイナーな平隊士も、辿ってみると様々な人生・末路があり
興味深いものですね。
#573 東大和yさま
ありがとうございます。

参考にしている史料が一級品なだけで、ワタクシはそれを簡単に書いている
だけですので・・・。
マンガを楽しんでいただけると、当ブログ大幹部の猫ともども喜びます。

ぜひ、またお寄りください!
#989 何度もスイマセン
イケメンの振武軍メンバーの渋沢平九郎と天野八郎氏の容貌つながりで、本当はこちらに投稿しようとしたのですが、間違えてこの前の記事に投稿してしまいました。なれないアップル製品を使っているので、本当にスミマセヌ。
ああ、歴史もアップル製品もしっかり勉強せねば・・・・
#992 琴乃さま
わざわざ訂正のコメ、お疲れさまです。
お気になさらずに。

渋沢栄一、成一郎、平九郎らを記念した資料館が、出身地の深谷にある
らしいですね。
一度行ってみたいと思ってます。

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