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猫でもわかる彰義隊 1

彰義隊マンガ

奥さん、このようにお子さんを名乗る人物から「彰義隊にはいったから金を送れ」
という電話があっても、絶対にお金を振り込まないでください!
それは100%、詐欺です!
周りの人に一度相談するなどして、気を付けましょう。
KC庁子猫署からのお願いです。

「でも私彰義隊ってよく知らないし・・・騙されたら主人からラリアット喰らってしまい
ますの、どうしましょう・・・!」
「それは困りましたね。では、彰義隊について少しお話しましょうか。」

つーわけで、やっと本題に入りますのだ。
これからマジメな話になるので、その前にジャブを一発かましてみました。

幕末の狭山丘陵一帯にやってきた武装集団のうち、残る一つは「振武軍」です。
この振武軍をお話するには、どうしても彰義隊 のことを知っていただかないと
話が前に進みません。
彰義隊は慶応4年(1868)頃の旧幕府方武装集団の中では、一番大きく、また有名
な部隊です。この彰義隊と新政府軍が上野で戦争をしたのですが、日本史の教科書
ではこのことが、ほとんど触れられていません。
東京の明治維新は江戸城の無血開城で平和的に行われたと思いがちですが、真実
は決してそうではないのですよ、というお話です。
今回はちょっと多摩を離れて、この彰義隊にスポットを当ててみたいと思います。

まずは2人の人物をご紹介します。
1人目は天野八郎
彼は上野国(群馬県)の庄屋の次男として生まれました。
本名は大井田林太郎。父親が江戸で公事宿を経営していたので彼も江戸へ出て、
学問や撃剣を学びます。背が低くて小太り、歯並びも悪かったと云われイケメンには
ほど遠かったようですね。
唯一残っている写真を見ると、往年の名悪役俳優・遠藤太津郎さんみたいです。
しかし正義感が強く、意外に身も軽く、幅2間(3.6m)の堀なら簡単に飛び越えたそう
で、リーダーシップと身体能力は高かったんですね。
後に与力の広浜家の養子に入りますが、やがて離縁。姓を天野と改めますが、
その理由はわかっていません。
天保2年(1831)生まれなので、戊申戦争時は37歳です。

もう1人は渋沢成一郎
武蔵国榛沢郡(埼玉県深谷市)の血洗島という、なんやら横溝正史の小説に出てきそう
な名前の村の出身です。藍玉の生産と養蚕で財を成した農家の分家に生まれました。
天保9年(1838)生まれで、2歳下の従弟に明治の大実業家渋沢栄一がいます。
成一郎と栄一は江戸に出て、一橋家用人の平岡円四郎という人と知り合いになります。
平岡は主君・一橋慶喜のためにデキる家臣を探している最中でした。
成一郎と栄一は平岡に誘われ、一橋慶喜の家臣になります。そして慶喜が慶応2年
(1866)に徳川宗家を継いだことにより、幕臣になったのです。
栄一はフランスで行われた万国博に参加した慶喜の弟・徳川昭武の随行員として欧州
に派遣される、成一郎は陸軍奉行支配調役から奥右筆格に抜擢されるなど、大活躍。
平岡の目に狂いはなかったんですね。

さて。しかしながら時代の風は徳川方に大逆風。
慶喜は上野寛永寺に謹慎に入ります。
なぜ、謹慎場所が寛永寺だったのでしょう?
一つは徳川家の菩提寺だから。徳川の菩提寺は芝の増上寺もありますが、上野の
方が山もあり守りやすい、北への逃げ道が確保しやすいこと。
もう一つは寛永寺の貫主・輪王寺宮の存在です。
現在は天台宗の頂点は比叡山延暦寺ですが、江戸時代は徳川氏の力により上野寛永
寺がそのトップの地位にありました。
さらに輪王寺宮は、東照宮のある日光輪王寺の門跡でもあり、徳川氏の影響は
非常に大きいものでした。
代々の輪王寺宮には、一品(いっぽん)法親王という位の皇族が務めることになって
います。一品とは皇族の中でも最高位の位で、天皇の子(大抵は養子ですが)に与え
られることになっていました。
天皇の子ですから、いざという時には還俗して即位も可能です。
つまり、輪王寺宮とは「徳川氏の力により奉じられた東国の天皇」であったのです。

慶喜との関係で言えば、彼の母は有栖川宮家の出身ですが、10、11、12代の
輪王寺宮も有栖川宮家から出ていて、慶喜とは親戚関係なんですね。
この当時は代替わりして、13代の公現法親王という方(伏見宮家出身)が輪王寺宮を
継いでいましたが、慶喜が上野寛永寺に籠ったのには、「守ってもらえる人脈と場所」
という理由があったようです。
この辺りの話、すっげーメンド臭いんですが、このことを知っていないと「なぜ上野で
戦争があったのか」がわからないままになってしまいます。

慶喜が謹慎に入ると、「慶喜様をお守りするための警護隊を作ろう。そのための会合を
開くので集まってください」という回状が、一橋家家臣、撒兵方(幕府仏式鉄砲隊)らに
回ってきました。
言い出しっぺは一橋家家臣の本多敏三郎と、陸軍取調役並の伴門五郎でした。
第1回目の会合は雑司ヶ谷鬼子母神門前の茶店で行われましたが、新政府の目を気に
してか集まったのはたったの17人。
とりあえず、隊の名称を「尊王恭順有志会」と定め、これが彰義隊の第一歩となったの
です。

しかし、17人じゃどーしよーもねーだろ、OLの女子会じゃねーんだから(←ウソ)、って
ことになり、四谷の円応寺で再びミーティング。
すると、呼びかけが功を奏したのか2回目の会合が30人、3回目は67人と段々と人が
集まってきます。
その3回目の会合にやってきたのが、先に話した天野八郎と渋沢成一郎の2人。
彼らはその場で血誓書に署名血判を押し、正式に入隊します。そして、尊王恭順有志会
の名称も「彰義隊」と改められたのです。

彰義隊のリーダーには渋沢が推されました。農民の出身とはいえ、奥右筆格という重職
にも就き、頭もサエるというのがその理由でした。
ちなみに、栄一はこの時徳川昭武に付いてフランスにいました。もし、日本にいたならば
間違いなく彰義隊に参加していたでしょう。
驚くのは一橋家家臣でも幕臣でもない天野が、ナンバー2の位置に就いたことです。
おそらく、天野は以前から幕臣らと交流を持ち、「アイツ、見た目は遠藤太津郎みたい
だけど、頭もいいし剣も使うナイスガイだね」という高評価を受けていたものと思われます。

というように、彰義隊は慶喜の身辺警護を目的とした部隊であり、決して「薩長と一戦
やらかしてやろうゼ」という目的で作られたものではありませんでした。
特に頭取の渋沢は一橋家家臣でしたから、「当主慶喜様のお命だけは、何としても
守らなければならぬ」という気持ちが大きかったのです。
ところが次第に彰義隊の評判が広がり、入隊希望者がわんさかと集まってくるように
なりました。
幕府がなくなり「明日はどっちだ・・・」という状況に身を置いた幕臣らの受け皿と、
彰義隊が見られてきたようです。
いよいよ隊士が300人を超えると、勝海舟らは「ヤバイ、新政府に余計な建議をかけ
られる」と心配します。しかし、前将軍を守ると言っている者らを解散させるわけにも
いかない。ということで、彰義隊に江戸市中の見廻りという仕事を与えることにしました。

ところがこの頃になると、彰義隊の中で意見の対立が起こり、渋沢派と天野派という
二つの派閥ができてしまいます。
渋沢は先にも話したように、彰義隊の目的は慶喜の護衛であるというスタンスです。
新入隊士も幕臣に限る、としていました。
しかし、集まってくる者の中には「薩長のヤツらに江戸の町を大手を振って歩かれる
のはガマンできねぇ。一戦やらかして、あわよくば幕府の再興だ!」と考える者が
多く、その意を汲み取っていたのが天野だったんですね。
天野は隊士募集も「身分・前歴問わず」、薩長への反抗心があり戦う気持ちがあれば
誰でも引き受けました。
簡単に言ってしまうと、慎重論の渋沢派と主戦論の天野派です。

次第に二派の衝突は表面化することになります。
そしてついに「新政府に寝返らないこと」「降伏はしないこと」を約束して天野派と
渋沢派は分裂してしまいます。
この頃、4月11日、慶喜は水戸で謹慎するために江戸を出ます。
彰義隊の大多数を率いることになった天野は、1000人余りに増えた隊士とともに
上野の山に入ります。
輪王寺宮を奉じて、新政府を撃退し、幕府再興!
それが天野率いる彰義隊の目的となったのです。

一方の渋沢は100人の隊士を連れて江戸を出ました。
慶喜のいない江戸にいても仕方がないし、水戸は他藩ですから入れません。
彼らは青梅街道を西に進み、田無村(西東京市)に駐屯しました。
「ここで新たに編成し直し、新しい部隊を作る!」
振武軍 の誕生です。


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[ 2014/02/13 ] 幕末史 | TB(0) | CM(12)

。゚(゚ノ∀`゚)゚。アヒャヒャ

こんばんは!

いつもとは違う画風に、「別のブログにきてしまったのか」と思いました。
オレオレ詐欺のニュースを、先ほど見たばかりだったので、タイムリーな
ネタに爆笑してしまいましたヾ(≧з≦)ゞブッ
この場合、振り込む前にやる事がありそうですが・・・

彰義隊が慶喜の身辺警護が当初目的だったとは知りませんでした・・・

というか・・・ジャブでノックアウトでした・・・

次回も楽しみにしております!
[ 2014/02/14 01:30 ] [ 編集 ]

必死の覚悟

 彰義隊から分離するときの関係者の覚悟は相当のものがあり、高岡槍太郎の日記では「上野の周囲板塀を乗り越す時に各同盟に於いて見咎め、またささゆる事なきにしもあらず。因って弾薬を詰め置き・・・」とされています。
 こうして振武軍が結成されたようですが、次が楽しみです。
 それにしても今回の三コマは良いですね。 野火止用水
[ 2014/02/14 11:11 ] [ 編集 ]

Nitto-GTさま

たまにはこういうジャブもいいかと・・・。

彰義隊は新選組あtりと比べるとマイナーですね。
東京(江戸)を舞台に活動したのだから、少しは歴史の授業で取り上げても
いいだろうと思うのですが。

これからも時々ジャブを打っていくので、お楽しみに!
[ 2014/02/14 13:58 ] [ 編集 ]

野火止用水さま

渋沢と天野の対立は、けっこうスゴかったみたいですからね。
当初慎重派だった渋沢が率いていた彰義隊が、やがて主戦派の天野に人数的
にも傾いていくという所に、当時の江戸市中の空気感も出ているような気が
いたします。

オレオレ詐欺対策キャンペーンに、このマンガ使ってもらえませんかね?
[ 2014/02/14 14:18 ] [ 編集 ]

ユニークで面白いですね

記事の面白さに圧倒されました。
次回もその次回も楽しみにしていますので、ぜひまた気合の入った記事を
ご提供ください。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
[ 2014/02/16 15:36 ] [ 編集 ]

住兵衛さま

ありがとうございます。
ぜんぜん日本史に興味がなかった、というような方にもわかりやすく、が
このブログのモットーですのでクドイ所もあるかと思いますがご容赦ください。
記事、漫画とも楽しんでいただければ、嬉しいです。

よろしくお願いします!
[ 2014/02/16 19:48 ] [ 編集 ]

こんにちは、はじめまして。

彰義隊、上野戦争初めて知りました。
ちょっと面白かったので彰義隊で検索してみました。

中学、高校ではここまで詳しく授業することはなかったので
興味深くこの記事とインターネットを拝見しました。

とっても為になりました!
[ 2014/02/17 14:04 ] [ 編集 ]

孝ちゃんのパパさま

ありがとうございます。

明治政府としては、維新を「薩長によるキレイな革命」と歴史に刻んで
おきたかったんでしょうね。しかし、いいかげんもう本当の維新史を歴史の
授業で取り上げればいいのに、と思います。

次回パート2に続きますので、お楽しみに!
[ 2014/02/17 16:42 ] [ 編集 ]

わかったニャン

ご紹介のとおり、彰義隊の結成時は、頭取が渋沢成一郎、副頭取が天野八郎。
ほかに幹事3人がいました。この幹部5人のうち、4人までが一橋系です。
しかし、唯一例外の天野が、渋沢を脱退させ事実上のリーダーにおさまりました。
面構えもさることながら、性格もけっこうスゴイ人だったような気がします(笑)

恭順を不服とする旧幕派の、彰義隊はまさに「受け皿」ですね。
イッセーさんもよくご存じのとおり、新選組本隊を離れた隊士も何人か参加しました。
その代表格は原田左之助で、岸島芳太郎も一緒だった節が窺えます。
大谷勇雄も参戦の可能性があり、戦後の江戸潜伏中、新政府軍に討たれました。
岩崎一郎は、彰義隊での内輪もめが原因で、明治4年に殺されてしまったようですね。
[ 2014/02/23 22:27 ] [ 編集 ]

東屋梢風さま

こんにちは、東屋さん。
タイトルが可愛い過ぎ。

天野は若い頃攘夷論者で(この頃の人はみんな最初はそうですが)、外国船を
水雷艇で爆破しようという、とてつもない計画を立てた人のようですから
いろんな意味でスケールの大きい人だったんでしょうね。
こういう人って、けっこうリーダーとして人気があるのかもしれません。

岸島芳太郎は、原田が彰義隊で戦死したことを、原田の妻に教えた人ですね。
岩崎は手持ちの資料で、明治4年に沼津で死んだことは確認しましたが、彰義隊
の内輪もめとは知りませんでした。
彰義隊は結局、北海道でも割れたままでしたが、その遺恨が明治4年になっても
残っていたんですね。参考になりました。
ありがとうございます。
[ 2014/02/24 12:41 ] [ 編集 ]

すばらしい解説です

イッセー様 
あなた様はどうしてこれほどまでに歴史の知識をお持ちなのですか?見習わねば!
ところで、私もない知識ながら渋沢成一郎ゆかりの人物であり振武隊所属のイケメン、渋沢平九郎についてブログ記事を書いてみました。もし史実に間違いや突っ込みどころがあれば、ぜひともよろしくお願い申し上げます。

[ 2015/01/09 19:26 ] [ 編集 ]

琴乃さま

過去記事にもコメをいただき、ありがとうございます。

彰義隊や振武軍、上野戦争はほとんどの人が知らないことですね。
せめて東京に住んでいる人なら、大まかな部分は知っていてもいいのでは
と思っています。

後ほど琴乃さんのブログ記事を読ませていただきます!
[ 2015/01/09 21:21 ] [ 編集 ]

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