精勇隊、名主を捕える

仁義隊が八王子に現れたのと同じ頃、東大和市域と同じ組合をつくる所沢村に
精勇隊 と称する一隊がやってきました。
「里正日誌」には
「六月頃ニは凡七十人余ニ相成候ニ付、種々妨害相働騒動及ひ候」
と書かれています。
どう甘く読んでみても、ありがたい存在ではなかったようですね。
この精勇隊とは、どのような集団だったのでしょうか。

「慶応4年閏4月19日頃、城憲隊 と名乗る14~15人が所沢川原宿の
新光寺へ来て滞留した。段々とその人数が増えおよそ30人余りになり、所沢村の
薬王寺に引き移ると、賊徒を制圧する撫育隊 と改称した。
5月に入り50人余りになると、官軍阿波国稲田藩の付属である精勇隊 と改称
し、総隊長は江戸に住む柏尾嘉平次、所沢出張屯所隊長に小野民之丞と鈴木織之助、
調役に市村郡司、ほか諸役に10人余りの者がいた。
訴訟を受け付ける役所の体裁を取り繕い、民事・刑事その他のことを取り扱った。」


この書き出しで、すでにイカガワシさ全開でしょ。
名前をコロコロ変えてるし、最終的には新政府方付属軍を名乗ってます。
挙句の果てには裁判まで取り仕切ろうって、何様ですかッ、アンタたち?

ところでワタクシ、薩長側を「官軍」と呼ぶことにはヒジョーに抵抗があります。
決して徳川方を「賊軍」だと思ってはいませんし、事実そうだからです。
なので当ブログでは「新政府軍」と表記していますが、日誌などの史料で「官軍」と書いて
ある時はそのまま引用させていただきます。

「6月になり追々人数も増え70人余りになった。そんな折の6月6日、所沢村名主の助
右衛門を呼び出して召し捕ってしまった。屯所の二階へ番人4人を付けて鎮め置き、10日
未明に笠蓑を着せて、上安松村(所沢市)組頭の武右衛門方に連れて行った。そこから
駕籠で江戸の神田三嶋町加賀屋長三郎方に住んでいる、精勇隊隊長の稲田藩柏尾
嘉平次の元に差立てた。すでに西ノ丸下の糺問所まで送るべき様子のところ、柏尾が取り
計らって12日まで村預けとした。」


名主の助右衛門さんを拘束するという、ただならぬ事態が起きたようです。
「里正日誌」はこの辺りに推移を、日を追って書いています。全部書くと長くなるので要約
いたしますと、

6日 助右衛門の家にやって来て、刀・脇差・鎗3本を押収。さらに旧幕府脱走兵や
官軍が通行したときの人馬継立帳2冊も押収し、土蔵へ封印をする。

9日 村内にある木炮と合薬、鎗、鉄砲を残らず差し出すよう村役人に指示。村の主立った
者の土蔵まで探索し、木炮11挺、合薬700目、鎗22本、鉄砲7挺を差し出させた。

10日 上安松村組頭の武右衛門は、精勇隊屯所隊長の鈴木織之助と懇意の仲なので、
砂川村名主の村野家などが間に入り交渉をしたところ、金策を申し出てきた。

11日 500両を差し出すように言ってきたが、嘆願して200両にまで勘弁してもらえ
るよう訴えた。

12日 白米50俵、金30両まで下げてもらった。


結局は武器とお金が欲しかったのね、キミたち。って思われても仕方ないですね。
しかし、最初は大金を吹っ掛けておきながら、すぐに現実的な金額で妥協するあたり、
あまり強気にも出られない事情があるような気もいたします。
ところで、助右衛門さんはなんで拘束までされちゃったのでしょう?

「13日 三嶋町加賀谷長三郎方へ助右衛門ほか一同罷り出て、精勇隊総隊長・柏尾嘉平次
へ面会し、同人から尋ねられたことへ杢左衛門が申し立てた。
官軍が江戸攻めで通行するときと、旧幕府の脱走兵が通行するときの人馬継立人足の賃銭
を未だに受け取ってはいないが、村々においていささかも差し障りはありません。
所沢の村役人たちは御用の仕事が多く、割り渡し方が行き届かないのでそのことを
屯所へ書類にして差し出しました。屯所のお役人のお指図なのでやむを得ず、只々村々で
賃銭を受け取らないとしたことを、書類を書き換えるよう話をうけた。
9日に認め直し、差し出したことを申上げると柏尾氏のお疑いも晴れて、助右衛門の身柄は
速やかに表向き村預けとなった。」


継ぎ立て人足の賃金を、各村々に支払っていなかったため助右衛門さんは逮捕されたよう
です。しかし、杢左衛門さんたちは支障が起きてないのだから、助右衛門さんを許して
くれるように精勇隊に訴えました。
精勇隊は官軍を名乗っていましたから、所沢村に不正があるとみて助右衛門さんを拘束
したのでしょうか。彼らにそういう捜査権が与えられていたということなんでしょうかねぇ。
と思っていたら・・・

「16日 御取締りとして八王子宿陣の官軍、掛川候の家臣団の中から、隊長菅具市右衛門・
御目付梶野新左衛門・同伊藤与一郎・同浜野六郎左衛門・御賄い菅沼敬助らが兵隊およそ
100人余りを召し連れて朝四ツ頃(午前10時)所沢村に向けて出兵した。
精勇隊屯所の薬王寺へ話し合いに来たところ、精勇隊は降参して、一通りお取調べを受けた
上で大小の兵器を取り上げられて謹慎を申し付けられた。」


八王子から新政府の正規軍がやってくると、精勇隊はあっさりと降伏してしまいました。
ということは、やはり彼らは「官軍」を詐称して金集めをしていた集団だったようです。
いったいどんな人たちが精勇隊を作っていたのでしょうか?

19日に精勇隊の隊士らは江戸に送られました。
「里正日誌」には彼らの名前や生国などが書き出されています。
総隊長の柏尾嘉平次は稲田藩の剣術師範で年齢は60歳だったとあります。
隊士たちの生国は武蔵国が多いものの、上総、下総、上野、常陸など関東のほか、信濃、
加賀、播磨、越後、大和、紀伊など全国に渡っています。そして多くの隊士が柏尾の
剣術の門弟でした。柏尾は江戸で道場を開き、江戸詰めの藩士等がそこに集まるよう
になったではないでしょうか。
一方、屯所隊長だった鈴木織之助は元尾張藩の御鷹頭、小野民之丞は元別手組出役
(外国人警護)という人物だったようです。
「おや?」と思うのは、柏尾が鈴木らに「金策は決してしてはならないと厳重に申し
渡し」ていたと杢左衛門さんが書き残していることです。

柏尾は常に江戸にいたようです。所沢で実際に活動していた鈴木らと、隊内で方向性の
違いのようなものがあったのかもしれません。

結果だけ見れば、精勇隊は所沢で武器や金銭をかき集め、名主を拘束し、組合の村々
を巻き込んだ挙句、一発の弾丸も撃たないまま新政府に投降するという、お騒がせ部隊
だったようです。


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コメント一覧

#534 精勇隊に訴訟を扱う権限はあったのか
 あっけなく、掛川藩兵に降参するところを見ると、精勇隊に訴訟を扱う権限なぞ無かったように見受けます。しかし、所沢市史の「精勇隊の訴所に、生活にあえぐ村々より賃金割戻しの訴えが前提にあったらしいことは注意を要しよう。」(下、p14)との指摘から、もっともっと、当時の一般農民と精勇隊の関係が明らかになる資料が欲しいです。
 野火止用水
#535 精勇隊
普通ではなかなか知ることのできない当時の情報が出てきます。これからも楽しみ...です。Junpei
#536 野火止用水さま
精勇隊について一番気になるのは、彼らが新政府側、旧幕府側と、本当は
どちらの立場にいたのかということです。
新政府側でいるのなら、稲田藩の後押しを受けて、掛川藩の審問のあと謹慎する
必要もなかったのではないかと思います。
総隊長の柏尾と、前線隊長の鈴木らとの考えに食い違いがありそうなことなど
からも指揮系統に乱れがあったことを感じさせます。
所沢市史の情報も気になりますね。鈴木は尾州の御鷹頭だったので、狭山丘陵の
様子は詳しかった可能性があります。その辺りも考えるとさらに想像が広がり
ますね。
#537 Junpeiさま
この時期の武装諸隊は彰義隊や伝習隊など一部を除いて、泡沫部隊として
あまり注目されません。ワタクシもそうでした。
しかし調べてみると、精勇隊のように結末はショボくても、地域と大きく
関わったり、またその内部も複雑だったりということがわかりました。
日本史の本流から比べれば些末なことですが、逆にこういった細かい地史を
一つ一つツブしていくと、今まで見逃していた歴史も発見できるのではないか
と思ってきます。
#538 修験
所沢の名主助右衛門が捕まったことには、以前から疑問があったのですが、
今回の記事を読んで、はじめてその真相がわかりました。
江戸末期はこんな滅茶苦茶なことがまかり通っていたんですね。
想像のはるか上を行ってました。

金石文から見て、上安松の武右衛門さんは、愛宕修験の先達の一人だったようです。
顔が広かったのはそのためのようです。
この時代「修験」の活動もまた、歴史的に見逃せない一側面だとつくづく思います。
#539 甚左衛門さま
精勇隊についてはまだまだわからない事が多いので、何か他に史料が出てくれば
さらに詳細が判明してきますね。それを待ちたいと思います。

「修験」も狭山丘陵一帯ではよく出てきますね。
仰るとおり、修験が色々なシーンに果たした役割は軽くはなかったように思い
ます。ありがとうございました。
#540 郷土史の面白さ
おかげさまで、精勇隊についていろいろわかりました。ありがとうございます。
もしも精勇隊の名称が正しくは「精忠隊」だったとしても、
彰義隊の支援部隊である精忠隊(浜田藩士が中心)とはおそらく無関係であり、
偶然に隊名が一致しただけ、と思われます。

精勇隊は、種々の人々が離合集散するうち、なりゆきで組織されたように感じられます。
ひょっとすると柏尾嘉平次は、当初からリーダー格だったわけでなく
先に加わった門人達の推挙により総隊長を引き受けることになったのかもしれません。
そして、柏尾の属する稲田藩が新政府側なので、精勇隊も表向きは新政府側を標榜。
しかし実態は旗幟不鮮明の上、稲田本国と連絡を取っていたわけでもなかったので、
新政府軍に怪しまれ捕えられたのでしょう。
ご推測のとおり、屯所隊長らは柏尾とは別の画策をしていた可能性もありますね。

その後は厳罰に処されたわけでなく、謹慎はまもなく解かれたと推測します。
理由は、8月に武州葛飾郡藤塚村(春日部市)から柏尾へ宛てた書状の
「兼吉という若者が捕われたので宥免していただきたい」という趣旨です。
(この書状は慶応大学に所蔵されているそうです。)
もしも柏尾が罪人の処遇を受けていたとすれば、そういうお願いはされないでしょう。
#542 東屋梢風さま
ワタクシも同じように考えております。
実は精勇隊の隊長に柏尾直之輔(26歳)という名前があり、彼は稲田藩と
明記されています。総隊長の嘉平次は年齢から見て直之輔の父か小父ではないかと
推察できます。嘉平次は剣術師範ですが、稲田藩士だったかはわかりません。
フリーの立場であったとすれば、総隊長の座に祭り上げられたとする可能性も
高くなりますね。

また、処罰が軽かったとする傍証も確認できます。
長くなるのでブログ本文には取り上げませんでしたが、精勇隊が逮捕された
後で所沢、砂川、蔵敷村から精勇隊の隊士・加藤軍記、関藤兵衛、古川常五郎、
山内鹿之助の者たちは親切だったので許してくれるようにと、掛川藩へ書付が
出されています。
彼らは鈴木織之助らが金策を強談した際にも、反対をしたそうです。この4人
のうち関と古川は掛川藩の記録に柏尾門弟と記されていますから、柏尾の意を
汲んでいたものでしょう。
4人がどのように処分されたのかはわかりませんが、嘆願が認められていれば、
当然柏尾嘉平次の処分そのものも軽いと想像できますね。

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