仁義隊、八王子に屯集す!

慶喜将軍や幕閣たちが新政府軍に全面恭順することに納得がいかない旗本・
御家人たちは、各地でグループを作り、武力抵抗を試みます。

当時の江戸の人たちからすれば、薩摩や長州人など言葉も通じない「外国人」と
同じです。そんなヤツらに蹂躙されるくらいなら「死んだ方がまし」と一矢報いて
死に場所を探すサムライもいたでしょう。
それから、徳川本家が領地を没収されるということは、将軍から土地・屋敷を
与えられている幕臣は生活の基盤を失うことにもなり、「食うためにも何とか
しないと・・・!」との思いで仲間と集まる者たちもいたはずです。

幕府海軍や陸軍から戦力を率いて脱走した榎本武揚大鳥圭介らは、今後の
幕臣や旧幕府側につく諸藩をどうするかについて、もっと明確なビジョンを持って
動いていたのでしょうが、関東各地を中心に現れた旧幕府方武力集団はどこまで
の計画性を持って行動していたのでしょうか。

「里正日誌」には、この時期に東大和周辺に現れた3つの部隊について書かれて
います。それぞれ仁義隊・精勇隊・振武軍 と名乗る部隊です。
彼らはどう行動し、周辺の村々に影響を与えたのでしょうか。
先ずは仁義隊から見てみましょう。

「辰(慶応4年)閏4月 脱走300人余り八王子宿へ屯集し金策した一件
閏4月11日より八王子宿寺町松門寺・観音寺・本立寺へ仁義隊の内脱走
した凡そ300人余りが屯集し、旅宿から毎日炊き出しを出させた。旅宿はもちろん
近くの村の実力者らを呼び出し、隊長の間宮金八郎がそれぞれ隊にかかる金の
相談を申し付けてきた。
千人隊からは鉄砲20挺を借り受け、木曽村組合(町田市)の農兵から鉄砲
30挺、八王子・拝島両組合の農兵からは鉄砲はもちろん刀・脇差・鎗などを押借り
した。
19日の昼後に一同出立して府中宿に泊まり、中野村宝仙寺へ屯集するつもり
だったところ、この挙に乗じて八王子近辺の博徒が20人余り仁義隊に入隊して、
前夜の18日夜に凡そ50人余りが何処かへ脱走したという。
大総督府より田安殿へご沙汰があり、田安殿より勝安房殿へ仰せ渡され、
勝殿より鎮撫方の歩兵頭・原嘉藤次殿へ仰せ付けられ八王子宿へ出張された。
同人より話し合いをするというので、嘉藤次殿も同道するため出立した。」


上の記述では「仁義隊から脱走した300人」となっていますが、正しくはこの300人
そのものが仁義隊と名乗る一団でした。
また彼らの中から30人ほどが5月2日に所沢村に行き、撒兵隊 と名乗って
屯集しています。
彼らは農兵から武器などを調達したようですが、村々に屯集した目的はそれだけ
だったのでしょうか。
「里正日誌」は上の記述の最後をこう結んでいます。

「(仁義隊は)屯集中、強談 で金策を言ってきた」

そして、どの村の誰々に、いくらの金額を要求したのかが書かれているのですが、
これがスゴイ。
1ケ村の代表者へ50両~150両を要求。八王子宿などは200両を出せと言って
いるのです。13ケ村から計1175両という、とてつもない高額の献金要求です。
所沢に現れた撒兵隊も同様で、6ケ村に400両を出せと言っています。

いくらなんでもムチャクチャでしょう。
杢左衛門さんが「強談」と書いているように、強引に金銭を出させようとしたことは
明白です。
では、要求された村々では、この金額に応じたのでしょうか。
中野の宝仙寺に入った仁義隊は、粂川村の年寄・太左衛門さんを呼び出し、上記
とは別に100両を要求しました。
それに対する太左衛門さんの返答は、

「一、金12両2分也
この度、民衆のため私たちこれまで200余年の間、御神君(家康)のご恩を受け、
四海太平安楽を仕り、少しの間もご恩を忘れ難く、未だそのご恩を返していません。
月光に雲がかかるように悲痛はこれ以上なく耐え難いものです。裏切り者は日々
盛んになり、本当の家臣は山林に隠れ、実に太陽は照らさないものです。
無邪気な庶民を刀で脅し、昼夜神役を申し付けられ、農業の暇なく私は膝を涙で
湿らせています。元来、無知無教養の俗民が何の分別もなく歎いているところ、
御神君のご恩に報いようとする方々が出動されたことは、我々もご助力申し上げ
たいと存じますが、低い身分なので畏れ入ります。
ご恩に報いるため前書の金額をご献金申し上げます。ご受納していただければ
ありがたく幸せに存じます。なにとぞ四海太平安楽にしていただけますよう願い
奉ります。以上。
                    粂川村 年寄 太左衛門
慶応4年5月2日 
   仁義隊 御役所中様    」


ヒジョーに遠回りな言い方で、相手を立てていますが払う金額は12両2分。
さすがに全く払わないというワケにもいかないだろうし、このくらい出してやれば
さっさと行ってくれるかな、てくらいの金額でしょうか。
で、仁義隊のリアクションですが
「テメー、なめんなよッ!ガキの使いじゃねェんだ、ゴルァ!!」
と、刀を抜いてスゴんだかと思いきや・・・

「感状のこと
一、金12両2分也
この度、徳川家復興のため当地へ仁義隊が出動したところ、神君が280年の間
平和に治められたご恩に報いるため、軍用金を差送られたので受納した。
徳川家が御再興となったときは、厚く恩賞があるので、後日のため感状を書く。
  慶応4年5月2日        仁義隊  間宮謹八郎
                   粂川村  太左衛門     」


あっさりOKしています。
最初からダメもとで、吹っかけたのがアリアリですね。
1ケ村からこのくらいの金額が取れれば上出来と、最初から目論んでいたのかも
しれません。

さてその後、仁義隊がどうなったかは「里正日誌」には書かれていません。
ただ、5月16日に関東取締役から仁義隊の脱走者15人に対して
「旧悪大罪の者なので、立ち廻ったならば逮捕するように」
との命令が出ています。
日誌の最初の記述に大総督府から「田安殿」へ沙汰があったとありますね。
田安殿とは、徳川御三卿のうちの一つ田安家の当主・田安亀之助のことです。
徳川慶喜は謹慎に入ったため徳川宗家の座を降り、亀之助に譲っていました。
つまり、このとき、田安亀之助が徳川家の総本家だったのです。
ちなみに「勝安房」はモチロン、勝海舟。
仁義隊は徳川のために戦うという大義名分を旗頭にしていたものの、その徳川
からも追われていたということになります。

蛇足ながら・・・。
新選組隊士だった中島登が、会津戦争から箱館戦争終結時に至るまでの隊士
名簿を残しているのですが、その中に「右四人之者元仁義隊ニテ五月十一日
台場ニテ合兵ス」とあり、田中忠蔵、植本金三郎、立田鉄之蒸、藤本進二郎の
名前を記しています。
これは、八王子に屯集した仁義隊と同じものだったのでしょうか?

20140125.jpg

沖田さんと医者の娘との恋といえば、司馬遼太郎「新選組血風録」の中の
一編、「沖田総司の恋」ですね。
半井(なからい)玄節という医師の娘、お悠がその恋の相手です。
てことで、マンガにも同名で登場していただきました。

今後、次々に登場、「隊士たちの恋」編!
え、マジで?

精忠隊は精勇隊の誤りでしたので、直しておきました。スミマセン。(1/26)


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コメント一覧

#508 新選組血風録、懐かしいです。
こんばんは!

楽しく拝見させていただいております!
あまり小説などでは描かれていないような気がしますが、押し借りのような
事があったんですね!いつの時代にもあるようですが・・・勉強になります。

「新撰組血風録」私が最初に読んだ新撰組の小説です!短編集で映画やドラマに
もなってますね。内容はざっくりとしか覚えてませんが・・・(^_^;)

「隊士たちの恋」編、期待しております! 失礼しました。
#509
前の方のコメントの様に
新選組血風録、懐かしいです。「隊士たちの恋」編、期待しています。
                         手習いさん
#510 Nitto-GTさま
仁義隊は幕臣や博徒らで構成されていたと云いますが、関東取締役から出された
手配書によると、近江大津、備前、尾張、越後村上の人たち(身分は不明)も
いたようです。

「血風録」と「燃えよ剣」で、近藤・土方・沖田三人のキャラはほぼ固まって
しまった感がありますね(笑)。
ワタクシ、栗塚旭さんが土方役で主演したドラマの方も大好物でございます。
#511 手習いさんさま
「隊士たちの恋」編・・・勢いで書いてしまいました。
ワタクシがこーゆーの描くと炎上しそうで、プチ後悔です。
#512 3つの部隊
仁義隊・精忠隊・振武軍...、この時期にこのような部隊が登場していたという話を読んで、この地域の当時の動きが少し伝わってきます。Junpei
#514 Junpeiさま
振武軍は上野戦争の彰義隊と深い関係がある部隊なので、その辺りの説明も
しようかな、と思っています。現在、資料整理中です。
精忠隊は精勇隊の誤りでした。スミマセンv-393
#515 総司の青春
最後の将軍さまが、榎本武揚さんほどの勇気とヴィジョンをもってらしたら、徳川の世はあと30年、いえ50年ぐらいはもったかと信じている美雨です。

八王子は、奥州街道の重要な拠点というか要衝みたいなところだったのですね。

石田漢方の娘さん?にしてはかわい過ぎる~~^^!!
この虚労散、娘さんが調合したのでしょうか?
やはりカッパの秘伝??
さわやかな顔をして、総司の変わり身の早さ、最高です(爆笑)
もう、奥歯の横のスイッチで応援!!!☆☆☆
#516 美雨さま
王政復古の大号令が出たときに、これは薩長の謀である!と慶喜さんが命じて
出兵していれば、簡単に京都の薩長は制圧できたといいますね。
ようやく京都に着いたばかりの長州兵らは西も東もわからない状態。方や新選組、
見回り組らは狭い小路の隅々まで把握していたのですから、市街地戦では圧倒的
優位だったでしょう。榎本さんも「なんであのとき戦わなかったの!」と歯ぎしり
してくやしがったそうですが。

もっとも、先を見こすことだけは天下一品の慶喜さんですから、徳川体制が長く
続くとは思ってなかったのではないでしょうか。
しかし、新政府の中に自分や幕府の人材を送り込み、薩長に好き勝手をさせる
明治維新だけは防ぐことができたでしょうね。
#518 雨後の筍
橘樹郡長尾村にも5月1日と2日、仁義隊からの呼び出し状が届きました。
やむなく3日、中野村宝泉寺へ代表者が出向き、10両差し出しています。
仁義隊は1ヶ村から高額を取れないと見越して、広く要求を出したと思われます。

この時期、こうした旧幕抗戦派諸隊が多数発生していますが、大半は実態不明ですね。
仁義隊については、旧幕陸軍の脱走歩兵が中心となり、
彼らと以前から繋がりのあった博徒などが加わったものと推測していましたので、
「近江大津、備前、尾張、越後村上の人たち」とは何者か大変興味深いです。
また、中島登名簿の記載は関連不明ながら、同一部隊の可能性も考えられると思います。

「撤兵隊」は、まったくわかりません。
「撒兵隊(さっぺいたい)」を間違えてそう書いている例をよく見かけるものの、
正しく詳細に言及した資料文献はほとんどないかもしれませんね。

なお、この「田安殿への沙汰」とは、脱走歩兵取り締まりの命令と読み取れました。
なので、「田安殿」はおそらく徳川慶頼を指すと思います。(亀之助は慶頼の三男)
慶頼は、何もかも放り出しひたすら謹慎する慶喜に代わって徳川家をまとめ、
静寛院宮や大久保一翁、勝安房らと協力し新政府軍との折衝に当たっていました。
永倉新八の手記にも、甲州敗退の時「田安中納言殿から撤退命令が来た」とかあります。

「沖田総司の恋」、近藤・土方の善意が祟って(笑)失恋してしまい、
音羽の滝で泣いている総司、というオチが印象に残ってます。
#519 東屋梢風さま
先ず「田安殿」ですが、仰るとおりかと。
亀之助が閏4月に宗家を譲られているので、そうかなと思ったのですが、である
なら田安殿とな言いませんね。今、彰義隊に関する本を読んでいますが、確かに
慶頼が新政府との交渉に当たったことが書いてあります。
失礼いたしました。この場をお借りして訂正いたします。

それと撤兵隊も、仰るように撒兵隊の間違いです。こちらも訂正します。
しかし、所謂小栗忠順の献策で作られた、幕府フランス式鉄砲部隊の散兵隊とは
違うようで、仁義隊から別れた部隊のようです。日誌に「表向は散兵隊ト号し」と
あるので、ホンモノを詐称していたのかもしれません。
彼らは金を集めたあと、5月4日に所沢を出たようですが、その後のことは日誌
に出ていません。中野宝仙寺で仁義隊と合流したのでしょうか?

間違いがたくさんでスミマセンでした。
今後ともご指導宜しくお願いしますv-421
#526 仁義隊
博徒のことが好きで色々調べていたのに、仁義隊の存在すら知りませんでした。全く不覚です。同時に勉強になりました。ありがとうございます。

「仁義隊」に加入していたかはわかりませんが、「振武軍」に一時期身を置いた博徒としては島田孝造があげられると思います。彼は「島田虎之助の二代目」と自称して日野の佐藤彦五郎に喧嘩を売ったことが有名ですが、その実は二本木一家に縁のある博徒でした。調布の御用留の中に彼が確かに振武軍に属していたことが記録されています。

いづれにしてもこの時期の義勇軍に関しては本当に興味が尽きません。
#528 甚左衛門さま
ワタクシは反対に、今までそれほど博徒には注目していなかったのですが、
幕末期にこれほど博徒があちこちに出没することを知り、次第に興味が
沸いているところです。
そういえば、浪士隊の中にも祐天仙之助のような博徒が参加していますね。
大政奉還以前から、博徒がアウトローの世界だけではなく、社会周辺に
出てきたことと、それを頼みにしたりする周囲との関わりを調べていくと
面白そうです。

義勇軍はどれほどあったのでしょう?追いきれません。

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