新政府軍、江戸に入る

慶応4年(1868)3月、新政府東征軍は東海道・東山道・北陸道の三方向
から江戸に進軍してきます。
彼らの目標は、江戸城と江戸の町を武力によって完全制圧することです。

では、一方の攻め込まれる側、江戸やその周囲では新政府軍をどのように
待ち構えていたのでしょうか?
旧幕府は新政府軍が江戸に入ってくるにあたり、民衆に対してお触れを出し、
その指示に従うように命じています。

「辰(慶応4年)3月 江戸町触れの写し
この度京都より新政府軍の御軍勢が差し向けられたことについては、実に
畏れ多いことである。将軍家は慎んでそのご沙汰を待っているところなので、
御軍勢に対してうっかりとした振る舞いを決してしないこと。
もし、そのようなふるまいがあったときは、京都に対して畏れ入ることは申す
迄もなく、さらに江戸の多くの人に戦争の苦しさを受けさせることになって
しまう。これは大きな不忠義である。
もし、このことを聞き入れず、お差し向けの御軍勢に手向かいした者は、私
(将軍慶喜)の心に背き、私の身体に刃物を当てたも同じことであるから、
このことはしっかりとわきまえ、心得違いのないようにすることをそれぞれへ
達し置くので、市中末々まで漏らさず触れ置くよう申すべきことである。
   3月
右の通り仰せられたことにつき、市中の者どもは決して動揺せず、諸事慎し
み、火の元は特に厳重に気を付けるようにすること。土地を借りている者、
人に仕えて働いている者に至るまで、よくよく申し聞かせるよう早々に触れ
るべきことである。
   辰3月   」


「里正日誌」にはこのように、江戸で出された触書の写しが残されています。
おそらく、蔵敷村にも同様のお触れが出たものと思います。
注目するのは「御軍勢に手向かうことは私(慶喜)に手向かうことと同じだよ」
と言い切っていることですね。
この触書を見て、庶民も末端の御家人たちも、将軍が全面的に恭順したこと
を知ったのでしょう。

この後、旧幕府側はなんとか江戸市中での戦闘を避けようとして、新政府軍側
と交渉に入ります。
「里正日誌」には3月9日から18日まで若年寄川勝備後守から「その間に決し
て動揺しないように」との仰せ渡しがあったことが記録されています。

「この度、御征討軍を御遣わしになったことにつき、今月15日に江戸城攻撃の
噂もあるので、これを控えていただけるよう嘆願しているところである。
大総督府へお伺いを済ませるまで総攻撃は見合わせると、西郷吉之
が答えたので、武家も市中庶民もみだらに動揺し、思わぬ不都合
なことを起こすのはもっての外である。諸事静かにご沙汰を待つように、この
ことをあらゆる場所へ漏らさず触れること。」


これは3月15日に備後守から勘定奉行に出された命令書です。
そのまま代官所→杢左衛門さんへと伝わったものでしょう。
18日には東山道総督の岩倉具定(具視の次男)が市ヶ谷の尾張藩邸に入る
ので、やはり騒いだりしないようにとのお触れが出たことが記載されています。
このように、旧幕府の中枢は完全に新政府に恭順しご沙汰を待っている状態
だということを、リアルタイムに近い形で江戸周辺の村々は知っていたという
ことになります。
となると、江川英武代官が新政府軍に呼ばれて京都まで行き、今後の身の振り
方を考え始めたのも、わからないではありません。

しかし、幕臣たちの中にはこの恭順に納得できない人が多数いました。
徳川家が領地を失えば、全員失職し、住む家も失ってしまうからです。
「こいつァ一丁、ヤマでも踏むしかねェッ」
彼らは互いに連絡・連携を取りながら新政府軍への抵抗グループを作っていき
ます。有名なのが彰義隊ですが、そういった部隊が多く結成されました。
新選組なんかはまさにその老舗ですね。彼らは新政府東山道軍と3月6日に
甲州柏尾で戦闘しています。
つまり、親玉の将軍は降参してるけれど、子分たちの中には「まだ戦いは終わっ
ちゃいねェぜ!」とファイティングポーズをとっている者たちがいた、というのが
当時の状況です。

で、こういった抵抗部隊は、まさか江戸市中に「われら青春 抗戦派!」などと
看板出して屯集するワケにもいきませんよね。
自然と郊外の江戸周辺に集まるようになります。
狭山丘陵周辺も、彼らの姿を見かけるようになってきました。

20140118.jpg

土方さんの実家が扱う薬は何種類あって、有名なのが「石田散薬」という
打ち身などのケガに効く薬です。家のすぐ近くを流れる浅川に自生する
牛革草(ぎゅうかくそう)という野草が原料ですが、この製法については
土方家のご先祖様が浅川のカッパから教わったと云われています。
もう一つ知られているのが「虚労散」という薬。これは、歳さんの姉が嫁いだ
佐藤家に伝わるもので、結核や肋膜炎に効果があったといいます。なので、
沖田さんが服用していたのはこちら、虚労散の方でしょうね。
この虚労散は、多摩地方最大の名名主である押立村(府中市)の川崎平
右衛門から伝わったものだそうです。
ところが、その川崎家には「虚労丸」というやはり家伝の薬があるのですが、
これは日野の佐藤家から伝わったと云われているそうでして。
この二つの薬は散薬と丸薬の違いはあれど、ほぼ同じ薬らしく、どちらかから
どちらかに伝わったんでしょうけど、なんかゴチャゴチャになっちゃったみたい
ですね。
もしかしたら、こちらもルーツはカッパかも・・・?
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#494 はじめまして
はじめまして!Nitto-GTと申します。

私は以前「司馬遼太郎」先生「子母沢寛」先生などの小説を読んでいたので、
イッセーさんの「幕末史」、興味を持って楽しく拝見いたしております。

新撰組漫画も面白いです!!

司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」が大好きだったので、コチラの「幕末史」が五稜郭
まで続くことを望んでいます。

それでは、また伺わせて頂きます。 失礼しました。
#495 かっぱっパーーー^^
う~、新政府軍。とうとうお江戸まできちゃいやしたか><
吉之助どん、お手柔らかに・・・!

>つまり、親玉の将軍は降参してるけれど、子分たちの中には「まだ戦いは終わっ
ちゃいねェぜ!」とファイティングポーズをとっている者たちがいた、というのが
当時の状況です。

わ~、すごい正鵠を得た表現。いいえて妙です。^^

しかし、すごい秘薬の数々。当時は名薬として名を馳せたのでしょうね。
山伏とか、天狗ならわかるけど、かっぱから教わったって、なんか怪しすぎ・・・^^;
でも水草とか水辺にはえてる薬草とかのイメージわきます。
調合でもまったく違う効果が出たのでしょうね、
ろうがいに利くお薬って、当時あったのでしょうか。

この薬局のかっぱおじさん、うう、なんか怖すぎ。今夜かっぱっぱ^~な夢をみそうです。
#496 おはようございます
石田散薬を浅川のカッパに教えてもらったというのは初めて知りました。
うちのすぐそばを浅川が流れていますので、なんとなく親近感。
熱燗で流し込むというのも変わっていますよね。
#497 管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
#498 Nitto-GTさま
はじめまして!コメントありがとうございます。

たいていの新選組ファンは「燃えよ剣」が原点ですよね。
ワタクシも大好きな小説です。
「幕末」がいつからいつまでかというのは、諸説あるかと思いますが、
箱館戦争終了時まではワタクシも書こうと思っています。
マンガの方はどういう展開になるかわかりませんが・・・お楽しみに!

また遊びに来てくださいね。
#499 美雨さま
「石田散薬」や「虚労散」の原料になる牛革草には、鎮痛作用がある
らしいです。
カッパ伝来って、怪しいですよね(笑)
土方家は戦国時代までは後北条家の家臣だったので、カッパの話は
何等かの武勇伝絡みの話があるのかもしれません。

#500 たっつんさま
「石田散薬」は酒と一緒に服用するってことで、「酔うことで痛さを忘れ
るんじゃないの?」などとも言われたそうですが、牛革草には鎮痛作用が
あるそうなので、多少効果はあったのでしょうね。

浅川でカッパを見かけたら、ご一報をお願いします(笑)
#502 いよいよ青梅街道の出番ですね
 甲州街道を表グループが動けば、裏街道とされた青梅街道には、また別の動きがあったはず。次はどんな舞台を紹介して下さるのやら、楽しみをいっぱいにしています。
 野火止用水
#503 管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
#504 野火止用水さま
日本最大の革命期とも云えるこの時期に、一般の民衆は何を考え、どう
動いていたのかは地方史を見ていかないとわからないですね。
なるべく面白そうなエピソードを拾って、ご紹介できればと思っています。
#506 東大和にも
青梅街道の方面は、いよいよ渋沢成一郎率いる振武軍のお出ましですね。

イッセーさんもよくご存じのとおり、
明治16年作成の「石田散薬 村順帳」が土方家に残っていますね。
記載された販売網は、多摩全域のほか埼玉県、神奈川県、山梨県にも及ぶとか。
卸売り先は、商売も営んでいるような富農宅が多いと聞きました。
蔵敷村、芋窪村、高木村、廻田、粂川辻などにも取り扱いのお宅があったようですね。

ちなみに、河童が薬の製法を伝えたという伝承は、全国各地にあります。ご参考まで↓
「石田散薬と河童伝説」 http://saigetudo.blog.fc2.com/blog-entry-30.html
#507 東屋梢風さま
土方歳三資料館に、石田散薬の取引先をマークした地図が張り出されていますね。
あれ、すごく注目してるんですよ。
東屋さんも御存じかと思いますが、東大和市の村山貯水池は大正時代にできました
が、かつては湖底に村があり、そちらの方が村々の中心地だったんです。
ですから、所沢方面に通るルートがあったハズで、石田散薬の販売先がわかれば
多摩方面から所沢へ至る交易ルートが確認できると思っています。

日本各地の河童と薬伝承、面白いですね。
たぶん、どこかに伝承のルーツがあって、全国に広がったんでしょうね。

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