勝楽寺村の屯集騒動~江戸の空白期~

大政奉還から約半年の間、江戸は政治の空白期にありました。
幕府という大きな箱はなくなってしまいましたが、江戸の町やその周辺では
新政府の実効支配はされておらず、相変わらず幕府時代の奉行所や代官所
による支配が続いていたからです。
こうした社会が不安定な時期には、治安が悪化します。2年前に「武州世直し
一揆」が発生した多摩地域では、その後も動揺が激しかったようです。
おそらく、天領、私領、寺社領などが入り組んでいる土地柄だからでしょう。

そして、慶応4年(1868)4月、事件が起こります

「辰(慶応4年)4月1日未明に中藤村(なかとう・武蔵村山市)の名主・佐兵衛
より書状が至急をもって届いた。
もはやご承知かと思いますが、昨夜より勝楽寺村の城山という所に悪人どもが
集まり、最初は14~15人だったのがだんだんと集まってきておよそ100人
ほどになりました。今後どのような大事に至るかわかりかねますので、取り敢え
ずお知らせ申し上げます。早々、以上。
  4月1日      中藤村  佐兵衛  」


勝楽寺村というのは、埼玉県入間郡にあった村です。現在、山口貯水池(狭山湖)
となっている部分に村のほぼ全域がありました。村には村名の元となった勝楽寺
というお寺がありましたが、貯水池ができるときに移転し、現在は所沢市内に
仏蔵院と名前を変えて存在しています。
杢左衛門さんの蔵敷村や中藤村からは、ほんの目と鼻の距離です。
杢左衛門さんらの脳裏には、きっとあの「世直し一揆」が過ぎったに違いありません。
しかも、前回書きました通り、代官は京都に上っている最中です。
村では出川哲郎が「やべーよッ、やべーよッ」と大騒ぎ。

「里正日誌」には、この騒動の一部始終が細かく記録されています。それだけ、周辺
の村民にとっては関心の高い事件だったことが伺えます。
少々長いですが、ご紹介。

「右の注進があったので、当組合の村々へ農兵を出動させるよう大急ぎで回状を差し
出した。小川村(小平市)・田無村(西東京市)へも急ぎの手紙を出した。
駆けつけた農兵に玉カン・玉薬などをそれぞれ配り、午後2時頃に農兵15~
16人を召し連れて
中藤村の佐兵衛方に繰り出した。
佐兵衛は勝楽寺村へ向けて出かけたのことだった。
もっとも今朝、組頭の半左衛門に申し付け、斥候として勝楽寺村へ差し向け、昼前に
帰宅し聞いたところでは、宇根古屋城山に登り様子を見たところ、三ケ嶋(所沢市)・
宮寺(入間市)辺りの博徒どもが立ち交じり、凡そ100人余りも屯集していた。
山口谷村々(所沢市)から炊き出し・酒盃を持って来させ、朝食の最中で握り飯の
支度をしていたところを見届けたと言うので、より一層非常態勢を取った。
そして、中藤村より山伝いに勝楽寺村へ繰り出す途中に、砂川村(立川市)の源五
右衛門に行きあった。彼は屯集場所近くまで行ったが、もう散会した様子だったので
帰ってきたと言った。
しかし、鎮静化したとも思えない。すると、勝楽寺村の和三郎の家に繰り込んだようだ
とのことを聞いた。
砂川村・中藤村は引き上げたが、所沢組合は近くの川部・氷川に詰めているので、
農兵や人足は和三郎方に屯集している堀口村(所沢市)に出張った。
所沢村名主の助右衛門・上新井村(所沢市)名主の市右衛門、その他村々の役人が
人足を引き連れ出動し、市右衛門の号令で博徒どもに農兵が発砲したところ、
その銃声に恐怖を抱き、博徒たちは散乱した。」


ということで、大きな被害が出る前に騒動は治まったようです。一揆にまで発展せずに
良かったです。出川の哲ちゃんもホッと一息。
ここでも農兵隊の小銃が効果的だったようですね。
実は後の聞き取りで、博徒たちも6~7人が「鉄炮」を持っていたようなのですが、農兵
の威嚇射撃で降参しているところを見ると、火縄銃程度のモノだったのではないでしょう
か。

ところで、そもそもこの騒動の原因は何だったのでしょう?
日誌にはその動機と、彼ら騒動を起こした者たちへの処分の様子が書かれています。

「2日晴れ。
屯集した者たちの要求は、最近質屋で休業している所が多く融通に支障がある。円滑に
していただけないだろうか。その他に動機はないと申し出、不埒な申し分も農兵にはなく、
打ちこわしも初めてだと言った。
しかし、そのままにはしておけないので、取締り御出役へ報告するかを話し合ったところ、
一先ず猶予して処分を話し合おうと市右衛門が申し出たので、しばらく待って処分を申し
聞かすかどうかを保留し助右衛門宅に泊まった。」
「4日晴れ。
村々の役人7~8人が並んで面談した。今回城山に集まった者たちは罪を後悔し、何とぞ
お目こぼしをしてくれと嘆願を申し出て、きっと改心して帰農したいのでお咎めを与えず
内済してくれるように申し出た。
村役人たち共々も理解を示し、絶対に不都合なことはいたさぬよう言い渡し、今後は慎ん
で暮らすように申し渡した。万が一、悪いことをしたときには問答無用で召し捕えることを
助右衛門・市右衛門が同席で申渡した。」


質屋が休業しているので、融通に差支えがあるので、その訴えのための屯集であった
ようです。そして、村役人たちも彼らに理解を示し、取締り出役に突き出したりせずに、
村役人同志の話し合いの中で解決したようです。
被害もせいぜい人足を出させたり、炊き出しを要求したりと、その程度で済んだからで
しょう。

しかし、被害が少なかったからといって、処分を村々の名主たちで決めてしまったという
のには、ちょっと驚きです。

翌月の閏4月には、狐塚と呼ばれていた場所で強盗事件がありました。現在、多摩
都市モノレールの桜街道駅がある付近です。
このとき強盗は10両の金を取ったのですが、後に村人たちに捕まります。そして、村民
らの合議によって打ち首に処せられました。
ここでも、村民らが自分たちの判断で処分を下しています。
この事件の詳細はワタクシのブロ友の「野火止用水さん」が書かれていますので、そちら
「狭山丘陵の麓で」クリック!)をご参照ください。

江川代官当人が京都に行っていたということもあったでしょう。
しかし、江戸の町・その近郊が政治上の空白期だったことで、周辺の村々では自立に
向けての歩みを一歩づつ始めていたのかもしれません。

20140110.jpg

伊東甲子太郎一派が新選組を分離したのは、慶応3年(1867)3月のことです。
彼らは孝明天皇の陵墓を守る「御陵衛士」(ごりょうえじ)を拝命し、東山高台寺
月真院を本拠としたので「高台寺党」と呼ばれました。
伊東先生は新選組から分かれるとき、永倉さんか斎藤さんのどちらか1人をいた
だきたいと近藤局長に言ったそうです。
新選組が誇る剣術の達人のうち、どちらか1人引き込みたいという思いがあったの
でしょう。(沖田さんは来るハズないしね。)1人加われば、新選組と戦うことになった
としても互角に戦うことができる、と。
しかし、近藤局長はこれをチャンスと見て斎藤さんを送り出しました。スパイとして
使うには、無口な斎藤さんの方が適任と考えたのです。



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コメント一覧

#484 空白期
多摩の政治の空白期、里正日誌でそんなことも浮かび出てくるんだ。歴史の空白がジグソーパズルのように少しづつ埋まってくるようですね。Junpei
#485 Junpeiさま
激動と呼ばれる時代ほど中央に目が向きがちですが、こうして地方に目を向けて
みるとさらに歴史の全体像が浮かんできます。
しかし、そのためには野火止用水さんのように、いくつかの史料を突き合わせて
比較することが大事なので、ワタクシなどまだまだですね。
#486
小さな村の中でしょうから、興味本位や噂できっと集まったのでしょうね。
農兵の銃声で散乱したのですから、一揆の計画もなかったのかもしれません。
こういう地域的な歴史は面白いですね。
多摩地区近辺に住んでいらっしゃる方々は興味をもたれるのではないでしょうか。

斉藤一さん、やっぱり無口な方だったんですね。
剣術も立つしスパイとしては適任だったといことですか。
でもしっかり会津のお嫁さんもらっているし、男性としても魅力ある人だったのでしょう。
#487 美雨さま
それが、宮寺あたりから勝楽寺へとなると、けっこうな距離があります。武州
世直し一揆のときもアッという間に暴動が拡大したので、付近の村々ではかなり
緊張したことと思います。

斎藤さんはやがて御陵衛士を脱して新選組に復帰しますが、御陵衛士の方では
彼がスパイだったとは最後まで気付かなかったようです。かなりの演技上手
でもあったみたいですね。
#490 博徒
 この時代、様々な世界で博徒の動きがあるようですが、今回は、三ヶ島、宮寺と狭山丘陵北麓の博徒が集まっています。狭山丘陵南麓から少し距離を置いた小平、小金井にも博徒集団があって、小平の場合は農兵と共に武州一揆を迎え撃つ立場に立っています。
 明治を迎える直前、博徒集団の動向をきちんと把握することが、村の歴史を明らかにする上でとても大事と認識させられました。  野火止用水
 
#491 野火止用水さま
博徒の様子って、本当に気になりますね。仰るように地域によって暴徒側に
味方したり、鎮圧側についたりしてそれぞれが重要な働きをしているように
見受けられます。
幕末期の博徒というと、映画やドラマの「座頭市」や「木枯し紋次郎」の
イメージでアウトローと考えがちですが、村や村民とは密接な関係を持って
いたと考えるべきでしょうね。いろいろと興味が尽きません。
#492
所沢西部の林村を中心に、狭山丘陵あたりまで、当時「林村利兵衛・利八」という親子博徒が幅を利かせていました。宮寺・勝楽寺も彼らの領分なのでおそらく結集したのは、
彼らの党ではないかと思われます。
同時代の付近の博徒の頭には、芋窪の大五郎(東大和)、中藤定右衛門(武蔵村山)
などがおり、博徒達は全体で微妙なバランスをとっていたようです。
慶応四年四月には、同じく甲州黒駒村に博徒が集結しておりますので、その余波ではないかと個人的には考えとります。
#493 甚左衛門さま
興味深いお話を聞かせていただき、ありがとうございます。
まったく布部㎜今日なのですが、幕末期のこういった博徒たちの動向はとても
気になります。甲州の黒駒での動きが勝楽寺まで影響するとなると、当時の
博徒業界のネットワークはかなり広範囲に渡っていたのですね。
彼らが周辺の村々とどのような関係を結んでいたのか、ますます知りたくなり
ました。
#501 博徒の幕末維新
博徒らの言い訳「質屋が営業してくれないと俺らもやってけねえのよ」は面白いですね。
独自の世界に生きているように見えても、やはり一般人と同じように
社会の動静に左右されざるをえないのだと、よくわかります。

戊辰戦争期、各地の博徒らが、旧幕側からも新政府側からも召集されて
後方支援を務めたり最前線で戦ったりしてますね。
「アウトローだから局外中立」と言い逃れられるような状況ではなかったのでしょう。
彼らもまた動乱の中、生き残りを賭けて必死だったのだろうと想像します。

余談ですが、江川英龍さんが農兵を構想した理由として、
黒船来航以降、博徒の凶悪化・広域化による治安悪化、
彼らが外国勢力と結びつくおそれ、などもあると聞きました。
英龍さん、博徒対策のため新型連発銃(ドンドル筒)を開発、
嘉永2年9月22日には御殿場で武州石原村無宿人幸次郎の一味を鎮圧しています。

「高台寺党」という名称は、同時代の記録には見られないそうですね。
スパイの適性というと、観察眼・記憶力・忍耐力・適応力・忠誠心てところでしょうか。
斎藤に御陵衛士への潜入を命じたのは近藤か土方か知りませんが、
そうした面で永倉より適性がある、とみなされたような気がしました。
#505 東屋梢風さま
博徒らが、この時期には我々が思い描く以上に村々と密接な関わりがあった
のは事実でしょうね。仰るように、博徒らも新政府側についたり旧幕府側に
といたり、村に味方したり暴徒に加わったりと様々ですので、細かく見て
いかないとその正体がつかめないと思います。

永倉さんはスパイには向いてないでしょうね。
ただ、万が一間違えば命がないスパイという仕事を、見事にこなした斎藤
さんには関心します。御陵衛士を出てくるときも、わざと金を盗んできたと
云うでしょう。それで「史談会」では阿部十郎が最後までスパイだったと
気付いてないようなコメントを残していますしね。
そういう冷静な対応力みたいなものを、斎藤さんがどこで身につけたのか
非常に興味があります。
#513 すみませんでした。
このブログのまとめ方の鮮やかさにに刺激を受け、不用意にコメントしてしまいましが、あらためて勉強し直したところ、勝楽寺・宮寺は林村利兵衛・利八の領分ではなく、
入間の二本木安太郎の領分でした。(安太郎の弟瀧蔵は武州一揆の頭取りの一人として捕まってもいます。)墓石は入間二本木の長福寺にあり、宮寺・勝楽寺が多数を占める子分の名と出身地が刻まれています。
更に余談ですが、芋窪大五郎と中藤定右衛門は「指田日記」に現れ、また国文学研究資料館にある「囚人の事」という古文書により詳細に姿をあらわします。定右衛門の墓は武蔵村山真福寺にあります。大五郎は湖底なのか見つかりません。 
長文失礼しました。
#517 甚左衛門さま
わざわざのお気遣いありがとうございます。
いずれにしても、当時の博徒が周辺の村々にとって大きな存在であったことは
間違いないですね。
「指田日記」は読んでみたいと思っています。

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