慶応3年(1867)の暮れから翌年の正月にかけては、日本史上最も激動の
年末年始だったかもしれません。
10月に徳川慶喜が
大政奉還を決めると、12月には
王政復古が宣言され、徳川
方天領の没収や官位の剥奪が決まります。そして江戸で薩摩藩と庄内藩を中心
とする幕府方が武力衝突、これが正月3日の
鳥羽・伏見の戦いの
きっかけとなりました。
この戦争については、たくさんの本が出ていますから特にココでは書きませんが、
京都周辺で15000人の兵力を有していた幕軍が5000人の兵力しかなかった
新政府軍に敗れてしまったことは、両軍のその後に大きな影響を与えたことで
しょう。
日本史では、この時のことは京・大坂にだけクローズアップしていますので、他の
地域がどうだったのかは、ほとんどの方がわからないままです。
でも、全国を揺るがす内戦の勃発ですから、その地方・地域で様々な影響や対応
がなされていたハズです。
さぁ、東大和市域ではどうだったのでしょうか?
「里正日誌」では慶応4年(1868)正月5日に、「野火止用水の大浚い」について
の回状が廻ってきたことが書かれています。野火止用水っていうのは、玉川上水
から分水され埼玉県の川越方面に向かって引かれた用水路です。
東大和市域は玉川上水は通ってないんですが、野火止用水は通っています。
この用水の大掃除を近隣の村々で一斉にやりますよ、という回状です。
5日といえば京都では、淀千両松に布陣した幕府軍が新政府軍に敗北を喫していま
した。幕軍は体制を立て直すために老中・稲葉正邦の居城である
淀城に入ろうと
しましたが、なんと!淀城は城門を固く閉ざし、幕兵を中に入れません。
寝返りです。
藩主の稲葉正邦はこの時江戸にいて、寝返りは留守居役ら重臣たちの独断だった
ようですが、それにしても幕府老中の居城から裏切りが出たというのは、戦っている
幕兵らに大きなショックを与えたことでしょう。
そんな日に大掃除の連絡が廻ってくるくらいですから、狭山丘陵一帯ではなんか
のんびりとした雰囲気ですね。民間レベルの情報伝達ではまだ緊迫感が伝わって
いない様子です。
しかし、これがお役所からの回状だと、書状の中身も違ってきます。
「 正月5日御府内出口の関門取り建てについての回状
江戸近郊取締りのため、当分の間江戸への出入り口となる所へ関門を建てて、そこ
を通る武士はその主人か上司より、どこへ家来を差し遣わせるのかを断り書きさせる。
百姓町人は在所の役人の添え書きを持参していなければ、出入りの一切を差し止める。
断り書き、添え書きは関門にて改め、怪しい様子がないようであれば同所において切手
を渡す。関門を越して切手を所持していない旅行者は、御府内はもちろん街道沿いや
所々でも決して宿泊させないこと。
さらに右の改めを受けずに無理に通行しようとした者、または旅行切手を所持してい
ない旅行者は問答無用で召し捕え、手向かいに及んできたときは斬り捨てること。
もっとも当節、出府途中で関門を通行するのに理由を言わない者どもは、関門で十分
に吟味し、怪しいところがなければ通すこと。
右の趣旨は天領、私領、寺社領とも漏らさず触れを出すこと。
右の通りお触れを出された。
右の通り御書付を出したことにつき、その意を得て御書付の趣旨を小前末々の百姓
まで漏らさぬよう申し伝えるべし。この回状の村名の下に名主の請印を押して、以下
略す。
辰(慶応4年)正月5日 江川太郎左衛門役所 」用水の大浚いから一転、なにやら緊迫した内容になっています。
文中に「鳥羽・伏見の戦い」は触れられていませんが、日にちから言ってその影響を
受けて出されたことは間違いないでしょう。
前年12月からの薩摩藩と幕府方の小競り合いは、江戸市中だけではなくその周辺
地域の治安も悪化させていました。
「里正日誌」の解説文によれば、この頃「博徒・浪人あるいは貧農層が起こす事件が
日増しに多くなった」とあります。
「鳥羽・伏見の戦い」はある程度の局地戦であり、まだその戦いが全国に及ぶことは
ありませんでした。
これは、大坂城にいた幕軍総大将の慶喜が密かに大坂を脱出して江戸に帰っちゃっ
たことにあります。このことで慶喜は「敵前逃亡」だの「腰抜け」だの後世云われてし
まうワケですが、一時的にでも戦いを終息させるには効果があったと言えるでしょう。
もっともその陰で死んでいった幕府方兵士はたくさんいたんですけどね。
戦争はまだ多摩地域・狭山丘陵には近づいてはいないようですが、治安の悪化という
形で徐々にその影を落としてきたようです。
このタイミングで関門を建てる命令を役所が出してきたことに、関西での状況の悪化
を憂慮する旧幕府の動揺が見えますね。

鳥羽・伏見の戦いでは、新選組も多くの隊士を失います。
今回の記事でご紹介した正月5日の淀千両松の戦いで亡くなったのが、六番
隊組長の古参隊士・井上源三郎です。
ドラマや漫画などでは「源さん」と親しまれているキャラクターですが、ホントに
そう呼ばれていたかはわかりませんよ。
源さんは日野宿の八王子千人同心の三男として生まれました。八王子千人同心
というのは、甲州道中の江戸入口の守りとして家康が武田家の遺臣を引き取り
役目につかせた人たちです。源さんの先祖は元は今川家の家臣でしたが、桶狭
間の戦いののちに武田家の家臣になったと云います。
源さんは勇さんよりも5歳年上ですから、天然理心流でのキャリアは上です。
おそらく新選組幹部(試衛館一派)の中では「兄さん」的な存在だったことでしょう。
新選組結成以前から、勇さんや歳さんを支え続けてきた源さんの死は、大きな
損失となったはずです。
また、この戦争では監察として活躍していた山崎丞、「壬生義士伝」の吉村貫一郎
らの有名隊士が亡くなっています。
さて、今年一年、当ブログ「幕末多摩・ひがしやまと」にお付き合いいただき
本当に
どうもありがとうございました。まだ、来年も続けていく予定ですので、どうぞお付き合いください。
・・・ただねぇ。
もう内容が慶応4年(つまり明治元年)まで来ちゃってるんで、幕末ってテーマだと
あとちょっとしかないんですよね。
さて、その先どーしよーかなぁ・・・と。
新選組マンガだけでも続ける?
んー・・・まぁ、紅白の「あまちゃん特集」を見ながら、当ブログの大幹部・テンちゃん
、ポンちゃんと相談して決めたいと思いまス。
皆さま、よいお年を!
スポンサーサイト
もちろん、来年も期待していますからね!
今年一年、コメントをいただき、ありがとうございました。
Junpeiさん、よい年をお迎えください!
今年一年お世話になりました。
来年もよろしくお願い申し上げます。
イッセーさんとご家族様のご健康をお祈り申し上げます。
良いお年をお迎えください。
こちらこそ、いつも来ていただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
寒い日が続きますが、たっつんさんも風邪などひかれませぬよう
良い新年をお迎えください。
明けまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
まだまだ、連載を続けてください(^-^)
明けましておめでとうございます。
こちらこそ、お願いいたします。
なんとか、ネバって書いて(描いて)いきます(笑)
慶応4年の年明け、佐藤彦五郎の日記は記事が疎らです。
府内出口関門についての回状は、6日に届きました。
11日、「脱走浪人」が再び府内に入ろうとするやもしれず警戒するよう指示あり、
まだ薩摩系浪士らの動静に神経を尖らせていたようです。
京都の情勢について、いつ知ったものか明記がありませんが、
10日には小銃を新調する算段をしていた節が窺えます。
新選組が引揚げてきて品川にいることは、16日に知らされました。
今年も様々の興味深い話題をご紹介くださいますよう、お願い申し上げます。
これまで割愛された要素の中にも、話題にできるものがあるのではないでしょうか。
また、戊辰己巳の動乱を乗り越え明治を生きた人々のことも、アリだと思います。
真に幕末が終わったのは、西南戦争終結の時とも、不平等条約解消
(具体的には治外法権撤廃と関税自主権回復か)の時とも、言われることですし。
源さん、出汁と元汁は数日寝かせないと満足な味にならないでしょう(笑)
テンちゃんポンちゃん、Eテレ0655「ねこのうた」にご出演いかがでしょう?
こちらこそ、よろしくお願いいたします。
ちょうど鳥羽・伏見の戦いの後の江戸周辺は政治的に空白期だったので、多摩
地域の村民たちがどのように考え、行動していたのか興味がある所ですね。
ブログの今後についてご意見いただき、誠に恐縮です。
他の方からもアドバイスをいただきまして、前向きに考えていきたいと思って
おります・・・・しかしッ!
ブログ大幹部のテンコ(♀6歳)とポンタ(♂1歳)は、正月明けの隙に乗じて、
今朝食糧庫(エサの入ったクリアケース)を引き倒して中身を荒らした一件で、
強制謹慎中であります!
おやつの「猫用削り節」が全滅であります!
コメントの投稿