侍にはなりませんのだ

江戸ではついに幕府方と薩摩が、武力衝突を起こしてしまいました。
まぁ、とにかく「なんとか戦争にもちこみたい」薩摩藩=西郷どんは、
あらゆる手段で幕府を挑発します。なにせ、江戸城にまで放火をする
くらいですから。世界貿易センタービルに自爆テロを仕掛けたアル
カイダとやってることはほぼ一緒。
そーゆー薩長がブラックな所も、再来年の大河ドラマはちゃんと書け
よ、NHK!

結局、その挑発に乗っちゃったんですね。
庄内藩ら幕府方が、三田の薩摩藩邸を襲って焼き討ちしちゃいました。
これが慶応3年(1867)12月25日のことです。
「雨は夜更け過ぎに~、戦さへと変わるだろ~、サイレンナイ~、
ホーリーナイ~
とんだクリスマスになっちゃいました。

で、こうした流れから、江戸周辺の治安は一気に悪化していきます。
便乗して略奪・乱暴をする悪党の類などもいたでしょうからねぇ。
支配を任されている代官所にとっては、かなり頭の痛い問題であり、
また早急に対策を立てなければならなくなりました、

「この頃江戸近郊では、浮浪の者や悪党が立ち廻るので、この防衛の
ために関八州御取締御出役の渋谷鷲郎様がご廻村した折に、入間郡
南永井村(所沢市)の新次郎と申す者が村の重立った人物で、所沢寄場
の中で都合50人余りを新規に侍分として取り立て、所沢村内へ屯所
を作り、御取締り遊ばされる旨を仰せ渡された。」


代官所では、治安維持のため農兵ばかりでなく、寄場組合の中から「使え
そうな」人材をスカウトして「侍」の身分にし、屯所を建てて取締りに
あたらせようとしたんですね。
農兵は、身分は百姓のままですが、こちらは身分を武士にするって言う
んです。

実はこのブログではスルーしてしまったんですが、幕末期には「兵賦」
(へいふ)という制度がありました。
これは、旗本や御家人の私領地からその石高に応じて一定の領民を差し出す
というものです。選ばれた者はそのまま幕府の歩兵組に入れられ、幕府正規
軍の末端に組み込まれました。
長州征伐のときには、これが天領にまで拡大されたので、蔵敷村組合でも3人
(江川代官所全体で24人)を差し出していました。
兵賦によって選ばれた農民は、身分が最下層ながら武士として認められ脇差を
差すことが許されました。また、働きによっては正式な幕臣としての出世も
可能であったと云います。

ということで、今回の代官所からのお達しは、農兵と兵賦の中間のようなモノ
だということがわかります。
武士の身分に取り立てるというところは兵賦と同じですが、仕事の中身が地域
の防衛であるという点は農兵と同じですね。
武士になれるって言うんですから、さぞ希望者がいたものと思いますが・・・

「しかしながら私たちの村では、兼ねてより申上げておりますように小さな
組合で、農兵も取立てております。この上新たに新役として差し出す人材は
おりません。
つきましては、どんなこともお許し願いたい心境ではございますが、兼て
それぞれ他の組合では出来ている様子なので、この上どんなことを申しつけ
られるかも計り難く、前もってこの事を訴え申し上げ奉ります。以上。
   慶応3卯年12月27日
      武州多摩郡蔵敷組合 役人惣代
                 野口村名主 勘左衛門
                 後ヶ谷村同 彦四郎
                 粂川村同  徳左衛門
   江川太郎左衛門様 御役所                  」  


ということで、蔵敷村組合ではこの新規に武士として取り立てられる農民の
推薦を辞退しているのです。
この辞退策の中心となっている人物が、前回ご紹介した「農兵を新銭座の
警備に行かせることに反対」した一件に関わった3人だというのも、ちょっと
面白いですね。

細かいことはわかりませんが、しかし「里正日誌」にこの書状の写しが残って
いるということは、ほぼ蔵敷組合のまとまった意見だったのでしょう。
代官所の面目は丸つぶれ。
村々にしてみれば、危険な場所に行きたくはないという思いや、所沢などより
まず自分の住む村を守りたいという思い。さらには、先行きどうなるかわから
ない「旧幕府」にこのまま身を預けてもいいのか?という思い・・・など、
様々な考えが頭を廻らせていたように思います。

20131221.jpg

このマンガの主役である近藤局長のことを、今さら言うのもアレなんですが。
局長は上石原村(調布市)の富農、宮川久次郎の三男として生まれました。
当時の名前を宮川勝五郎といいます。なので、上のマンガの2コマめで「勝
ちゃん」と呼ばれてるワケですね。
兄弟3人で天然理心流三代目宗家・近藤周助の門下に入りますが、勝五郎
の腕前がズバ抜けて良かったようで、子供のいなかった周助の養子に入り
名前を島崎勝太と改めます。
島崎というのは周助の元の姓です。周助自身も、天然理心流二代目・近藤
三助の実子ではなく、門下生から三代目を継いだ人でした。
安政4年(1857)23歳の頃から名前を「勇」と改め、安政6年あたりから
近藤の姓を名乗るようになります。そして、文久元年(1861)天然理心流
四代目を襲名するのです。

周助と勇の試衛館道場は市ヶ谷にありましたが、弟子の多くは多摩川沿いの
村々の名主や組頭といった豪農層が中心でした。従って、収入はかなり安定
していたものと思われます。
ちなみに勇が各村々を廻り稽古をつけると、一人2朱(12000円くらい)
の教授料だったそうです。
その安定した生活を捨ててまでして、なぜ勇さんは道場を休業し危険な京都
まで行き、幕府方の先兵になろうとしたのでしょうか?
ここに「新選組」最大の謎と魅力が詰まっているとワタクシは思います。
「オレはホンモノの侍になるんだ!」だけじゃ、説明つかないでしょ?

みなさん、どう思われまする?



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コメント一覧

#458 おはようございます
近藤さんとしては徳川の恩に報いるためという気持ちが強かったのでしょうか。
ただ、仲間がいたからできたことなんだと思います。
#459 たっつんさま
コメントありがとうございます。

近藤さんが新選組を結成したのは、彼や幹部となる土方さん、井上源さん、
沖田さんらが「多摩の富裕層」出身であったことが非常に大きかったと、
ワタクシは考えております。
いずれ、このブログでも書いていきたいと思っています。

これからもよろしくお願いします。
#460 安定した生活を捨ててまで
やはり、人間としての志し、生きがい、やりがいの世界ではないかな。Junpei
#461 Junpeiさま
それは確かにあると思います。
しかし、志や生きがいのためだけならば、例えば芹沢鴨らを粛清してまで
自らがリーダーになる必要があったでしょうか?
近藤さんたちには、絶対に京都で活躍して、幕府内で発言力を強めなければ
ならないという使命感があったのだと、ワタクシは思っています。

ま、そのお話はいずれ、また。
#462 兵賦はくせ者
 兵賦には給与が支払われていますが、その負担は村がしていました。村の負担は一人一ヶ月2両2分と記録されています。これでは、村人にしてみれば、バカバカしい限りですよね。イッセーさんが云われるように、村では、村長を含め、すっかり冷め切っていたんですね。
  野火止用水
#463 野火止用水さま
村全体からすれば、タダ働きですね。
小説やドラマでは、農民や町人が「侍にあこがれる」という描写をよく見かけ
ますが、こういう史料を読むと(幕末という時代もあるのでしょうが)、農民は
必ずしも武士にあこがれていたわけではない、という様子がわかりますね。
#468 兵賦その後
「兵賦」は、慶応3年9月末の兵制改革によって廃止されたそうです。
曰く、歩兵を旗本から差し出させる「人納」をやめ、幕府の直接雇用とする。
その費用は「金納」として、向こう10年間、旗本の知行高を半分召し上げる。

この半知上納令のため、旗本達の間に動揺が広がりました。
奉公意欲は著しく減退、中には捨て鉢になったり反発心を抱いたり…
これで、戊辰戦争が勃発した時、まともに戦う気になれたでしょうか?

また、歩兵隊約5000人のうち、再雇用されたのは700人、残り4300人は失業。
(差し出した旗本も、彼らを召し抱えておく経済的余裕はすでに無し。)
行き場を失い、市中を徘徊、押し借りや乱暴を働き、屯集して騒ぐ者も。
10月には、約250人が慶喜に直訴すべく京都を目指して品川を出発したものの
多摩川を渡ったところで農兵500人に包囲され、しかたがなく江戸へ戻ったとか。
この急な兵制改革が、江戸の治安悪化に拍車をかけた面もあるようです。
失業者の中には、薩摩の関東攪乱に加担した者もいたかもしれません。

試衛館一党や天然理心流の日野門人達が浪士組に加盟した件、
江川役所と佐藤彦五郎が主導した、という説もありますね。
政治の中心が京都へ移り、江戸にだけ注目していては時流に取り残されるという危機感も
豪農層の中にはあったことでしょう。
いずれまたのお話を楽しみにしています。良いお年をお迎えください。
#469 東屋梢風さま
今年一年、コメントをいただき、その中でいろいろと教えていただき
ありがとうございました。
今回も兵賦についてのご説明、感謝いたします。
相当、幕府の軍制が混乱していたことがわかりますね。

新選組の結成については、ワタクシも多摩の村役人たちがその指導的な
立場にあったのだろうと思っています。
いずれ、そういったことも書けたらいいのですが・・・。

東屋梢風さんもよい年をお迎えください。
#474
「南永井の新次郎」は博徒親分です。新平、新太という弟たちと共に、三兄弟で南入間周辺に幅を利かせていたそうです。姓は村上といいまして、新次郎は剣術、新平は相撲の名人だったと伝わっています。
今に伝わる御子孫の方のお話では、現在のお宅のある畑中に道場を持ち、そこへ千葉周作が剣術修行の途中立ち寄って指南したことがあったとのことです。

#476 甚左衛門さま
新次郎は博徒親分でしたか。情報ありがとうございます。
この時代の博徒は村のために働いている者もいたりして、なかなか興味が
ある存在ですね。道場を持ち、千葉周作が指南に来たとなると、よほど
財力や人望もあったのでしょうか。

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