江戸市中、衝突!

もうすぐクリスマスですな。早いものです。
思えば今年の正月はいきなり風邪をひいてのスタートでした。
しかも、温泉に遊びに行っての発熱ですよ。
風呂入れねーし。何しに行ったんだかわかんねーし。
そーゆータイミング悪い人生の1ページから、早よ一年。
アッという間ですね。

しかし新年を迎えるまで、まだ年内2つの忘年会をこなしていかねばなり
ません。でないと、年越せねーだ。
ヤルッツェ、ブラッキン!

さて前回の続き。
野口村の勘左衛門さんと後ヶ谷村の彦四郎さんは、江川代官所からの「農兵
を屋敷の警備によこせ」
という命令に「勘弁してください」という内容の書状を
出したため、宿預けになってしまいました。
慶応3年(1867)12月23日(あるいは24日)のことです。
勘左衛門さんらはよほどビビッたのでしょう。
「里正日誌」によると

「お役所は殊の外ご立腹して、両人は宿預けになってしまった。このことで、
農兵を差し出して取り計らってくれるよう、勘左衛門は飛脚を送って申し越して
きた。
そこで相談の上、農兵を3人連れて粂川村(東村山市)名主の徳左衛門が26
日に出立し、27日に2人の赦免願いを差し出した。」


とあります。
徳左衛門さんは、村の農兵たちが江戸屋敷の警備につくことを恐れていると
しながらも、

「他の組合への影響もありますでしょうからお咎めを受けたことは、一同恐縮
しております。仰せ渡されたことは、早速村元へ飛脚を送り村役人たちから
村民へ申し諭します。厳命されたことは承知しましたので、今日中に農兵たちを
連れて粂川村名主の徳左衛門が江戸に着きました。取り敢えずこの事を申し
上げます。
危険な緊急の時にお呼び立てなさり、農兵やその他の者たちも難渋してはおり
ますが、何をしてでもできるだけ申し諭して、早々に人数を召し連れることに
異論はありませんので、お許しの願書を差し上げることは今さらながら恐縮
奉ります。」


とまぁ、このように、平謝りに謝ります。おそらく、蔵敷組合で協議して出した
対応策でしょう。お役所の怒りはスッゲーぞ・・・と想像していたものと思われ
ます。
ところが、代官所の反応は、

「色々とご理解の上、宿預けをお許しになった。さらに農兵も用はないと仰せ
渡された。」


あっさりと許しちゃったんですね。
すぐに怒りが治まったの?
でもあれだけ出せと言っていた農兵までいらないとは、どういうコト?
実は勘左衛門さんらが江戸に入った夜に、事件は起きていたのです。

「12月26日、悪徒立ち廻りのことについてお役所より回状
この頃、悪徒どもが市中で乱暴を働き、下野国(栃木県)その他において
徒党を組んで、危険なことをずるく立ち回っている。この程、それぞれ召し
捕ろうとしたところ彼らの同志が、松平修理太夫の屋敷内(薩摩藩邸)に
潜伏していた。
去る23日夜、市中取締りとして出張していた酒井左衛門尉の屯所へ乱入し、
発砲に及んだ行為は捨てておけない。同人より召し捕えた犯人の引き渡しの
話し合いをもったが、理不尽にも発砲してきたため仕方なく戦闘になってし
まった。
ついてはなお、脱走した者もいるようなので、これらの者を見聞きしたならば
速やかに召し捕え、手に余るようであれば討ち捨てた上で早々に訴え出る
ようにすること。万が一、見聞きしたのにそのままにした者があれば厳重に
罰するものである。
このことは、天領私領寺社領とも漏らさず触れるべきこと。」


戦争を起こして徳川方を武力で滅亡させたい西郷どんは、とにかくあらゆる手
を使って徳川方を挑発していました。
慶喜や勝海舟らは「絶対に挑発に乗るなよ!」と厳命していたのですが、ついに
薩摩藩と江戸市中取締りの庄内藩が衝突
してしまいました。
そして薩摩藩士や討幕浪士らは四方に広がり、関東一円に動乱が広がって
いったのです。

代官所としては、もう屋敷の警備なんて悠長なコトを言ってられなくなりました。
上の回状には続けて、こう記されています。

「追って新銭座屋敷へ農兵を差し出すよう達しおいたことは、もはやそれには
及ばないことである。」


勘左衛門さんや彦四郎さんも、釈放を喜んでばかりもいられなくなったようです。
戊申戦争へのカウントダウンが始まりました。

20131215.jpg

さて、上の記事の続きですが・・・。
「里正日誌」には後日談が書かれています。

「(農兵を新銭座屋敷警備に出すことで)臨時の経費が14両あまりかかった。
この引き替えとして、他の組合では取り敢えず農兵を差し出した期間に手当
や賞金が与えられた。
ところが、当組合では村役人の勘左衛門がこれに取り計らないとしたことに
より恩賞に与れず、村は大いに激動した。」


あぁ・・・
勘左衛門さん、「やってくれたよ」アリアリですね。
村に帰り辛れェ~~・・・(泣)
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コメント一覧

#451 戊申戦争
間もなく明治元年に突入ですね。新選組は鳥羽・伏見の戦いの頃は150名に近い所帯だったようですが。里正日誌とともに、新選組の行方も気になります。Junpei
#452 この時代になるとメチャメチャ
 狭山丘陵の南麓の名主は、村を守るとの前提で農兵が作られたとの思いが強いのでしょう。ところが、この時代になると、国防、代官所維持、村の安定・・・皆一緒くたになって目を白黒させている様がよくわかります。この混乱はまだまだ続くようですね。続きを楽しみにしています。野火止用水
#454 Junpeiさま
ワタクシは、新選組は鳥羽・伏見の戦いまでとそれ以降では、全く性格の
違った集団になってしまったと推察しています。
当ブログでは本筋から離れてしまいますのでなかなか書けませんが、時々
史跡などをご紹介しながらちょっとづつ書いてみたいと思います。

マンガに関してはフィクションなので、信じちゃダメですよ!
先日もある方から「近藤勇ってホントに猫好きだったの?」と聞かれ狼狽
しました。マンガはマンガですから!
#455 野火止用水さま
そもそも江川英龍が農兵策を建言したときは「国防・海岸線の警備」のため
でした。しかし、二代後になってようやく農兵が実現したときは「治安維持」
が目的になってしまいました。
本来の英龍案からすれば、国防こそ第一目的なのでしょうが、狭山丘陵の
村々から見たら治安維持のために農兵をしているのであって、認識の違いは
あったのだと思います。
要は、幕府が英龍さんの生きているうちに、彼の建言をもっと取り上げていれ
ば混乱も少なかったのでしょうね。
#456 なには兎も角
イッセーさま、続きをありがとうございました。
なには兎も角
野口村の勘左衛門さんと後ヶ谷村の彦四郎さん、命が無事でよかった~
気になって夜も眠れませんでしたよ。(涙)

でも、このビミョ~なシチュエーション、どっち転んでもイタタタでしたね。
西郷どんに感謝すべきか、恨むべきか。
時代って残酷です。
せっかくみなのために命張って訴え出たのに、帰ったら報奨金が出なくてズタボロとは、
勘左衛門さん、あの世で成仏されているでしょうか。ナムナムです。(苦笑)

お楽しみ漫画、今日も面白かったです(お茶噴き出しました☆☆☆
うちの旦那もリュウマと呼んでたそうなので、ちと笑えないんですが(といいつつ爆笑
ドラゴンホース最高!
#457 美雨さま
「だって坂本リュウイチだろ?石井タツヤだろ?リョウなんて読ませるヤツの
方がおかしいゼ!」(by 左之助)・・・だそーです。

ところで、新島八重さんが叙勲する頃まで生存していた新選組隊士ですが、平
隊士あたりだと行方不明が多くて正直わかりません。
幹部クラスだと斎藤(藤田)さんが大正4年まで生存。永倉さんも同4年まで。
島田さんが明治33年まで。途中で脱退しましたが、伊東甲子太郎の弟で九番隊
組長だった三木三郎は大正8年まで生きています。
伍長だった近藤芳助という隊士は大正11年まで生存しましたが、川村三郎と
名前を変えています。斎藤さんも永倉さんもそうであったように、名前を変えて
いかねば生きていけない時代だったのでしょう。そうやって密かに生き延びた
隊士が他にもいるのだとワタクシは思っています。
ちなみに、「最後の新選組隊士」と云われているのは池田七三郎という人で、
昭和13年まで生存し、作家・子母澤寛の取材を受けています。この人、斎藤
さんと共に会津に残って一緒に戦った人です。
#464 衝突の一因
たったひとつの肝臓まもり 生まれ変わって断酒の誓い
皆の誘いを振り切り帰る キャシャーンがやらねば誰がやる(笑)

薩摩系浪士による関東攪乱の第一歩、出流山事件のことは
イッセーさんもきっとよくご存じと思います。
11月末、討幕挙兵を宣言して集まった浪士ら(150人とも300人とも)は、
12月11~13日、関東取締出役・渋谷鷲郎が率いる討伐隊に攻撃され
壊滅させられています。(討伐には農兵も投入された模様。)

ところが、同月20日夜、渋谷をはじめ馬場俊蔵・安原〓作ほか(〓は「寿」+「心」)
討伐に加わった取締出役の屋敷(江戸府内)が、残党らによって襲撃されました。
渋谷宅では、本人は留守のため難を逃れましたが、家来1人が殺害されています。
安原宅では、やはり本人不在だったものの、妻・娘・甥から下女までが命を落としたとか。

こういう事件まで起きた以上、慶喜や勝安房からいくら「挑発に乗るな」と言われても
黙っちゃいられない!と憤激する側の気持ちも理解できますね。
また、八州廻りと連携して地域の治安維持にあたってきた多摩の人々にも、
少なからぬ動揺を与えたのではないかと推察します。
#465 東屋梢風さま
ワタクシ、不勉強で出流山事件のことはよく知らなかったので、少し調べてみました。
挙兵した浪士などの中には、国定忠治の息子もいたそうですね。
しかし、彼らの武装は刀槍が中心で、小銃装備の幕府方討伐隊に歯が立たなかったとか。
この辺り、薩摩のズルさが見える気がいたします。
焚き付けるだけ焚き付けておいて、捨石に使うようなやり方。良く言えば「それも戦略」
なのでしょうが、西郷のような謀略家がいたことが幕末を大きく左右したと言えるで
しょうね。

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