近藤勇終焉の地・ブラリ幕末板橋宿

前回からの続きでござる。

永倉さんと新選組隊士たちのお参りを済ませたワタクシは、ようやく墓所の
外に出られました。
司会者のマイクの隣には和太鼓が置いてあります。ご焼香が済んだあとに
何か慰霊イベントが行われるのでしょう。
しかし、歩道に出てみれば、一般の参列者の多いことに改めて気づかされま
した。この方たちがご焼香を済まされるにはまだまだ時間がかかります。
それをずっと待つのもなぁ・・・。

ワタクシ「その場でじっと待つ・並ぶ」ということが何よりも苦手。
落ち着きのなさは、全米ドラフト2位クラスですから。
気がついたら道路を渡り、旧中山道に向かって歩き出していました。

そうです。
境外墓地から北へ50mも歩けば中山道。そして埼京線の踏切を渡れば、そこ
は江戸時代に中山道の江戸から最初の宿場「板橋宿」があった所。
まぁ、せっかく来たんだし、宿場町をブラブラ歩くのもいいではありませんか。
てことで、板橋宿を旧中山道に沿って歩いてみることにします。

現在は商店街となっておりますが、当時の面影を残す史跡も少なからず
あるワケで。まぁ、それら一つ一つ追っていくと長くなりますので、幕末に
関係のある史跡を中心に、いくつか見学していきましょう。

先ずは、近藤さんが処刑されたと云われる場所。
地元の伝承では宿場はずれの一里塚ということです。
その場所がコチラ。

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板橋駅北の踏切の東側。ここが「一里塚跡」です。
この場所で近藤さんは最期のときを迎えました。
現在はご覧のように建物が建て込んでいて、当時の面影は全くありません。
一説には馬捨て場だったとも云います。

板橋宿はさらにその中を、江戸から近い順に平尾宿・中宿・上宿と分かれていました。
一里塚は平尾宿の外れにあり、当時は寂しい場所だったのでしょうね。

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この「地蔵尊」は高さが2mはある大きな石像ですが、一里塚にあった
ものだそうです。
現在は中山道からちょっと奥に入った東光寺というお寺の境内にあります。

旧中山道を北西に進み、国道17号を横切ると「板橋宿」商店街の看板が出て
きました。

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ここから先が平尾宿の中心ですね。
板橋宿全体の町並みの長さは約1,7km、道幅は4間(7,2m)でした。
多少拡張されてるかもしれませんが、ほぼそのままですね。
江戸後期の頃で2500人の人が暮らしていたそうです。

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ここが「脇本陣跡」。当時平尾の名主を務めていた豊田家の屋敷跡
です。
慶応4年(1868)4月4日に板橋に連行された近藤さんは、同月23日までの
約20日間をここで監禁されて過ごしました。
板橋の本陣には、新政府軍の東山道総督府が置かれていて、その間近藤さんの
処遇をどうするかが話し合われていたのです。
当時、豊田家には7歳になる女の子がいて、近藤さんはこの女の子をとても可愛い
がっていたそうです。自宅に残してきた一人娘の姿を重ねていたのかもしれません。
現在はマンションになっているようですね。

さらに道を進むと、中宿へ入ります。現在は「仲宿」です。
三宿の中で一番活気がありそうな商店街です。
大きなスーパーが見えてきました。

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ここが「板橋宿本陣跡」です。中宿の名主だった飯田家の分家が
経営していたそうです。
この本陣に置かれた東山道総督府では、連日近藤さんの 処遇を巡って、「身柄を
京都に送って裁くべし」とする薩摩側と、「即刻処刑にすべし」 とする土佐側の激論
が交わされたといいます。
当時は坂本龍馬を殺ったのは新選組だと信じられていましたので、土佐は一歩も
引かない構えでした。
一方の薩摩は会津と手を組んでいた時もあり、比較的冷静。特に近藤さんを逮捕
した有馬藤太という隊長は、同情的だったと云います。

で、このスーパーの角を曲がってちょっと行きますと、文珠院というお寺があります。
ここにはある意味、とても宿場らしいモノ・・・とも云える史跡が残されております。

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それが、こちら。「遊女の墓」です。
宿場というのは、少なからず苦界に身を落としていった女性が多く集められた
場所でもあります。江戸時代は街道整備がとても進んだ時代でしたが、それは
同時に宿場女郎や飯盛り女を多く生んだことにもつながります。
いわば、このお墓は日本史の「裏遺産」というべきものでしょうかね。
でも、こういった史跡もしっかりと残していくことが、必要なんだと思います。

ちなみに、近藤さんが預けられた脇本陣の豊田家の伝承によれば、元隊士など
が面会に来ると「女郎屋に行って遊んでこい」と小遣いをやったり、なんと自分も
遊びに出たりしていたんだとか・・・!
「ホントかなぁ・・・そんなにフリーなの?」とも思うんですがね。
ま、いいや!

本陣からさらに中山道を進みますと、石神井川にでます。

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川に掛けられた橋が「板橋」です。地名の語源にもなっていると云われ、
「義経記」(南北朝~室町期に成立)にはすでにこの場所が板橋と呼ばれて
いた、と「江戸名所図会」は書いています。
江戸時代の橋は長さ9間(16,2m)、幅3間(5,4m)。
現在の橋は昭和47年(1972)に掛けられました。ここから先が上宿です。
現在は「本町」。


この辺りで一番有名なモノといえば・・・

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コチラでしょう。「縁切榎」です。
この榎の下を嫁入りの列が通ると縁が切れると云われ、14代将軍家茂に嫁いだ
和宮さんが中山道を通ってきた際は、この木の幹を菰で覆ったと云います。
しかし、説明板によれば、約1kmほどの迂回路をつくって榎を避けて本陣に入った
ことが名主の飯田家の古文書に出ているそうです。菰の話は、その時に出された
触書に「不浄のものは菰で隠すように」という命令があり、それが広まったためと
ありました。どっちがホント?
ま、いいや!
ところで、なぜこの榎が「縁切榎」と呼ばれるか?

「むかーし、むかし。この前に旗本のお屋敷があってな。その垣根に榎とケヤキの古
木が生えておったんじゃそうな。ケヤキは別名を槻(ツキ)と言うてな。「エノキがツキ」
「エンがツキ」で「縁尽き」とこじつけられたんじゃそうな・・・」


「まんが日本昔ばなし」の常田富士夫さんの声で読んでいただけると、雰囲気が出る
と思います。え?市原悦子さん?もちろん、OKです。
で、今では縁切りの解釈も変わってきているようでして。
「DV夫と別れられますように」とか「ブラック企業を辞められますように」、
「病魔が離れていきますように」といった願掛けでお参りする人が絶えないようですよ。
そういう縁を切りたい方はぜひ、どうぞ。

街道沿いに交番がありまして、その後ろに櫓のような建物がドーーンと建っています。
「これは何ぞや」と、交番にいたお巡りさんに聞いてみると、
「あ、最近作った倉庫です。歴史的なものの復元?全然違います」
だそうでございます。なーんだ・・・。
でもね、その扉にこんなプレートが貼ってありましたんですよ。

DSCF6321a.jpg
クリックすると大きくなります)

この絵は「江戸名所図会」に出ている板橋宿の様子です。
かなり賑やかだったことがわかりますね。
絵の左上に、侍が出入りしている立派な門の屋敷があるのがおわかりでしょうか?
この家が上宿の名主の家です。

このまま旧中山道を北上しますと環七通りに出て、都営三田線の板橋本町駅に
出られます。
でもワタクシ、もう一度永倉さんや近藤さんのお墓が見たいと思ったものですから、
境外墓地まで旧中山道を引き返して行きました。

仲宿まで来まして、編照寺というお寺(かつて馬の継ぎ立て場があり、馬市も立った
場所。馬頭観音もあります)の隣りに、なんとも昭和レトロな佇まいの喫茶店を発見。

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こちらで本日最初の休憩。お昼も過ぎていたので、ピザトーストセットを注文します。
で、気がついたんですが、店内は懐かしい雰囲気をつくりつつも、内装は新しそう
な感じです。
リニューアルしたばかりか、あるいは新しい店だけど店主の趣味で昭和風にしたの
か・・・?

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板橋喫茶店より

そのとーりです。スミマセン。
白いカップは、セットについてきた抹茶ゼリー。ゼリー大好き。

さて、境外墓地に戻ってみると、祭壇やら記帳受付のテントやらはすっかり片付け
られ、何人かの方がお墓の前で手を合わせていたり、写真を撮っていたりと、先
ほどの様子がウソのようです。時間は14時を回っています。
ワタクシももう一度お参りをして、さらに写真を何枚かパチパチ。
ちょっと確認したいことがあったので、そばでお連れの方に説明していらした「よく
知っていそうな」男性に声を掛けさせていただきました。

するとこの方、「西洋流火術鉄砲隊保存会」という高島流銃術保存会の会員の方で
いらっしゃいました。
こちらもこんなブログを書いてます、とご挨拶させていただき、しばしゲベール銃や
江川太郎左衛門を話題に談笑。
日野の新選組祭りでは、実演なども披露されるそうなので、今度見に行ってみま
しょう。

そんなこんなで2回に渡ってお届けした「永倉新八百回忌と幕末板橋宿レポート」。
また長いブログになってしまいました。
画像が多いからか、それともやはり余計な駄文が多いのか?
ま、いいや!

では、近藤先生。シメの一言を。

DSCF6350a.jpg

20131201.jpg

帰り際、夕暮れせまる中山道を十数名の羽織を着た集団が京都方面に歩いて
ゆくのを目撃しました。アレはもしや、未だ時空を彷徨う新選組隊士たちの
魂だったのではないでしょうか・・・・。

DSCF6342a.jpg

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コメント一覧

#436 板橋宿
ブラリどころか、大変に緻密な板橋宿取材。続編も期待したいですネ。Junpei
#437 Junpeiさま
今回は幕末に関係のある史跡だけをご紹介しましたが、板橋には
まだまだ興味深い場所が多くあります。
加賀前田家下屋敷があった場所も近いので、所縁の史跡もあり
ますよ。

#438 「板橋宿」
中山道の江戸から最初の宿場「板橋宿」、風情がありますね。^^
下町らしさがたまりません。
以前、葛飾に住んでいたことがあり、なんか町の表情がとっても似ていて懐かしいです。
しかし、このやさしげな町が、近藤隊長の終焉の地だなんて・・・(涙)
脇本陣跡で処遇が話し合われたのですね、なんだか恨めしいです。近藤さんが可愛がっていた娘も、悲しがったことでしょうね。日本史の「裏遺産」、遊女の墓も感慨深いです。
下町の喫茶店で食べるピザトーストやナポリタンって美味しいんですよね。^^
とと、抹茶ゼリー!?(←最初、わかめスープと思ったヒト)

そして、お楽しみの4コマ漫画。
もう、最後までお茶目な局長。ホントは自分が行きたかったのね。(爆)
みーちゃん、よくぞいけにゃいパパを諭しました。^^
うしろでみはってる薩摩兵のトンガリクリスマス帽子がいいですね。(笑)
詳しくレポートしてくださって、イッセーさんありがとうございました。
#439 美雨さま
近藤さんは脇本陣にて監禁され、新政府側は本陣(スーパーライフ)で
話し合いをしていました。
このとき、近藤さんの身柄が京に送られていたら、もう少し違った結果に
なっていたかもしれません。

薩摩兵のトンガリ帽子、気になりますよね。
ワタクシ、あまり薩摩に詳しくないのですが、あのデザインは誰が考えた
のでしょうか?あまり戦闘に効果的とも思えないのですけどね。
クリスマス・・・確かに!
#446 しんどうろう
何年か前に行ったきりなので、懐かしく拝見しました。

以前聞いた話では、平尾一里塚は道の北側、馬捨て場は向かいの南側にあったとか。
ただ、一里塚は道の両側に一対あるのが本来の形ですから、
整備された当初は馬捨て場も一里塚だったのかもしれませんね。

板橋宿にあった妓楼・新藤楼の表門が、板橋区立郷土資料館に保存されているそうです。
同館には宿場や街道はもちろん、高島秋帆など砲術関連の資料も多い様子。

また前記事コメントの続きですが、横浜の菜っ葉隊について
少なくとも幕末当時、地元で「農兵」という呼称は使われなかったようです。

仰せのとおり、農兵制服の調達方法が具体的にわかれば面白いですね。
ちなみに11/10記事へのコメントで、佐藤彦五郎の遣いに出た清太が
柴井町へ羽織・稽古着を取りにいき、道中の日野農兵に届けたことをお伝えしました。
ご存じのとおり、柴井町は江川役所出入りの郷宿・和泉屋があったところです。
ひょっとすると農兵制服の指定業者もあったのかも?なんて想像してしまいました。
#447 東屋梢風さま
今回の記事には取り上げませんでしたが、板橋のお寺には立派な庚申塔も
あったりして(←庚申塔ファン)歴史散策にはいい所ですね。
妓楼の表門、見られるのでしょうか?ならば、ぜひ見たいです。

当時はそうそう洋服など縫える人もいなかったでしょうから、指定業者が
いたというのはアリなのではないでしょうか?

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