永倉新八百回忌

去る11月17日、新選組幹部・永倉新八の百回忌法要が東京
都内で行われると聞き、ワタクシ行ってまいりました。
なんたって、こんなブログを、マンガを描いているワケですから、お墓参りくらいは
しないとマズイでしょう。
永倉さんは許してくれても、杏ちゃんが許してくれません。
てことで、今回は「番外編」でいきますよ。

永倉さんは新選組を脱退後、松前藩に帰参が許され、医師・杉村松柏の養子に入り
「杉村義衛」と名前を改めます。晩年は北海道で暮らし、そこで亡くなりました。
ですから杉村義衛として、北海道の杉村家の墓所に眠っているのですが、東京にも
「永倉新八」としてのお墓があります。
今回の法要は、その東京の墓所で行われました。

永倉さんは大正4年(1915)に77歳で亡くなっています。しかし、命日はどの本
にも1月5日となっていまして・・・なぜ11月に法要をするのか、よくわからないん
ですけどね。
ま、いいや!

DSCF6244a.jpg

ハイ!来ました。
こちらJR埼京線の板橋駅東口でございます。この辺りは3つの区の境になって
おりまして、駅は豊島区と板橋区にまたがり、駅前は北区というややこしさ。
ま、いいや!
実はココ、東京では日野市と並んで新選組の聖地となっておりまして、それはナゼ
かといえば・・・

DSCF6245a.jpg

ドーーーーン!、ほら、見えますでしょ。
「近藤勇墓所」って立て看板。
駅の真ん前に、近藤局長のお墓があるんです。
ちなみに、すでにココは北区。

まぁ、便宜上「板橋」って言っちゃいますけどね。
ここ板橋は、新政府軍に捕えられた近藤局長が処刑をされた場所。近藤さんの
終焉の地なんですね。
近藤さんのお墓と呼ばれるものは供養塔も含めて全国に何か所かありますが、
この板橋の墓所はその最も古いものです。
さらに、永倉さんのお墓もこの墓所の中にありますし、また、新選組隊士たちの
慰霊碑もありますから、この場所はほぼすべての隊士たちをお参りできる場所
なのです。
百回忌の法要はこの場所で行われました。

正確には「寿徳寺境外墓地」といいます。
ワタクシが着いたのは、法要の始まる11時の30分ほど前でしたが、すでにたく
さんの方がいらしていました。土方副長の法要と比べると、男性率が若干高いよう
です。杏ちゃんの姿はナシ。
ま、いいや!
ワタクシも記帳を済ませまして歩道に並んでおりますと、ダンダラ羽織を着た今回の
主催者らしき方から「もうすぐ始まりますので(墓域の)中に入ってお待ちください」と
声をかけられました。
そうだ、今のうちに写真を撮っとこう!と思い、カメラを取り出しお墓の前に・・・。
思えばこれが失敗でした。

DSCF6252a.jpg

墓所の中奥左側に「新選組永倉新八墓」と彫られた大きな
墓石があります。これが永倉さんのお墓です。
先ほども書いたように、永倉さんの遺骨は北海道の杉村家のお墓に眠っているの
ですが、遺族の手によってここに分骨されているそうです。
墓前には祭壇が設けられています。

DSCF6259a.jpg

遺影は晩年の永倉さん。顎鬚を伸ばし、杖だか木刀だかを携えています。元々は
剣術仲間や弟子の方たちと撮られた有名な写真で、それをトリミングしたもので
しょう。
位牌が2つ見えますが、右側が「釈義潤霊」と書かれた永倉さんのもの。左側は
「新選組隊士一切精霊」と書かれてありまして、今日の法要は新選組隊士たち
全員の法要を兼ねるものだということがわかりました。

DSCF6260a.jpg

おっと、何やら旗を持った人が登場。旗には「全国新選組サミット」の文字が。
どうも百回忌に合わせて、全国津々浦々の新選組研究会・ファンクラブみたいな
団体がやって来ているようですよッ。

DSCF6261a.jpg

ズラッと並ばれた、各団体の方々。日野や流山方面の方々もいれば、遠くは宮古
や岡山からいらっしゃった方もいるようです。
「おぉ~、パネェな、マジで・・・!」
ムリヤリな若者ことばを胸の中で呟き、驚きをMAXで表現しようとするワタクシ。

・・・「アッ、しまった!!」
とココで気がつきました!
ワタクシ、奥に進んで写真を撮っていたもので、後から人が墓所に入ってきて戻れ
なくなってしまいました。周りを見れば、なんと「ご子孫・関係者様方御席」の真後ろ
に立っているではありませんか!
ワタクシの真ん前、近藤局長のご子孫の宮川様に、佐藤彦五郎資料館の館長様
ではないですかッ!

うっぎゃ~~~ッ、なんて気まずさだッ、全然空気読めねぇヤツみたいじゃんかッ、
こんなハンパな一介の新選組好きが最前列に来ちゃって!ゴメン、ゴメンよぉ~~、
参列者の皆さん、ベストポジションに立ってしまいスミマセン!!!
あぁ、もう後ろに下がりたい・・・。
「ドラえも~~ん、助けてよぉぉッ!」未来の世界の猫型ロボットにもすがる思い。
「ダイジョブだヨ、ノビ太クン」
・・・いや、ジャン・レノの方じゃなくて!!

DSCF6262a.jpg

ワタクシの気持ちとは全くカンケイなく、法要が執り行われます。
司会者の方はどういった職業の方だったのでしょうか?とても丁寧な言葉づかい、
かつ軽妙な語り口。式典が和やかに進みます。
ご子孫を代表して、長倉様がご挨拶されました。
「アレ?永倉じゃないの?」
そうなんです。永倉さんは若気の至りで松前藩を脱藩したのですが、父や家族に
迷惑をかけてはいけないと、本姓の長倉から永倉へと変えていたのです。

菩提を弔っていらっしゃる寿徳寺から大師様がやってきて、読経。さらに故人の
功績を称えます。
写真でおわかりになりますかね?中央の緑の法衣を着た方が大師様だと思うの
ですが、お若いとてもきれいな女性なのですよ。
「美しすぎる大師様」です。
「新八っつぁん、羨ましいゼ」by 左之助。
ま、いいや!

御親族、関係者、各団体に続いて、一般(ファン)の焼香となり、ワタクシも永倉
さんと隊士方ご一同のご冥福を祈らせていただきました。
「日本発展の礎となっていただき感謝いたします。」
そして、ひと言お詫びを。
「こんなブログに、こんなマンガで登場させてスミマセン・・・」

さて、お参りを済ませたところで、もう少しこの墓所について見ていきましょうか。

立て看板にもありましたように、元々ここは近藤勇さんのお墓があった場所です。
なぜ、近藤さんのお墓があるかといえば、この場所で近藤さんが斬首されたから
だと云われています。
しかし、地元の伝承では、近藤さんが処刑されたのはここではなく、少し離れた
一里塚に作られた処刑場だったそうです。
近藤さんは慶応4年(1868)4月3日に流山で投降し、翌日の4日に板橋に連れ
て来られました。そして板橋宿の脇本陣に監禁され、処刑前日の4月24日に
石山家という家に移されます。
現在のこの墓所は、その石山家の庭だった場所なのです。

4月25日に斬首された近藤さんの首は、一里塚に一夜晒された後、京都に送られ
ます。で、胴体は刑場に埋められたんですが、その夜に掘り出し石山家の庭に
葬られたと云います。
新選組関係者らが遺体を盗みに来るのではないかと、相当新政府側の警備も厳重
だったようで、3日目に板橋の名主らの手で葬儀が行われ、翌明治2年(1865)
2月に何も刻まれていない石を立てました。

DSCF6347a.jpg

この石が、そのようです。
墓所の一番奥にあります。

石山家は寿徳寺の寺総代であり、後にこの土地を寿徳寺に寄付しました。
ですから現在「寿徳寺境外墓地」となっています。

明治7年(1874)、ようやく戊辰戦争で旧幕方についた戦死者の慰霊が許される
ようになります。
新選組隊士で生き残っていた永倉さんは、同じく生存隊士の斎藤一さんや、元幕府
奥医師で当時陸軍軍医総監となっていた松本順(江戸時代は良順)に声を掛け、
明治9年(1876)この地に「新選組慰霊碑」を建立しました。

DSCF6346a.jpg

高さ約3.5m、幅約45cm、奥行き約44cmの大きな石碑です。
正面には近藤さんと土方さん二人の名前が刻まれています。
そして横に回ると、側面にズラリと亡くなった新選組隊士たちの名前が刻まれて
います。摩耗しちゃって読めない部分もありますが、全部で110人の名前が
あるそうですよ。
中には粛清されたり袂を分かった芹沢鴨や伊東甲子太郎の名前もあるそうです。
有名なハナシですが、近藤さんの諱(いみな)は「昌宜(まさよし)」が正しいので
す。でもこの石碑には「宜昌」と逆になっています。
永倉さんがそんな大事なコトを発注ミスするわけないので、墓石屋さんのミスかと
思われるのですが、現在でもその謎はわかっていません。

DSCF6353a.jpg

慰霊碑の向かって右側にある小さなお墓が「近藤勇の墓」です。
昭和4年(1929)に墓所を改修するときに立てられたものかと思うのですが、
墓石の裏に刻まれた文字が消されていてわかりません。
正面に刻まれた戒名は「勇生院頭光放運居士」です。

DSCF6256a.jpg

DSCF6257a.jpg

その他にあるのは、こんな近藤さんの石像や石盤です。
石像は1mくらいと小ぶりですが、甲州柏尾史跡クリック)の兵馬俑チックな
像よりはビジュアル勝ちしています。でも、刀の柄部分が折れてしまって中から
鉄芯が見えてしまっています。誰か直してあげて!

それから、こんなのもありますよ。

DSCF6351a.jpg

右から近藤勇、土方歳三、永倉新八、3人の肖像画です。
近藤さんと土方さんは写真から起こしたものでしょうけど、永倉さんのこの顔って
他で見たことないんですよね~。誰か元ネタご存じですか?
ま、いいか!

板橋肖像画より

・・・ってコトで、当ブログのマンガはこの顔で許してくだされ!

21131124.jpg

近藤さんの首は京都に送られた後、三条河原に晒され、当時の瓦版に
刷られましたが、その後の消息は不明です。
胴体の方は、本文で寿徳寺境外墓地に埋葬されたと書きました。
ところが、近藤さんの出身地三鷹市の龍源寺にある近藤さんのお墓にも、
胴体が埋葬されていると云われています。
近藤さんの甥で、養子に入り天然理心流五代目を継いだ近藤勇五郎が、
板橋の墓を掘り起こして遺体を運び出し、龍源寺に埋めたというんですね。
これが本当なら、板橋の墓には何も埋まってないことになりますが、昭和
4年の改修では首のない人骨が確かに出てきたそうで・・・。
この辺り、ナゾであります。
近藤さんのお墓としては他に、岡崎の法蔵寺、会津の天寧寺があります。
ココには先ほど書きました「近藤さんの首」が埋められているといいますが
・・・果たしてその真偽のほどは?


ランキングバナーをプラグインに移動させました
よろしければ、クリックお願いいたしまする。
スポンサーサイト

トラックバック一覧

コメント一覧

#420 永倉新八百回忌
番外編。いつもながらの丁寧な取材とお墓の前の計画された(?)ハプニング、最高ですね。Junpei
#421 Junpeiさま
いやいや、計画じゃないですってば。
#422 人気者の骨
イッセーさま、永倉新八の百回忌法要、行かれたのですね!さすが、ファンの鏡。
番外編レポート、くまなく読ませていただき、感無量です。
しかし、このアングル、立派なお写真、まるでご親族のような・・・このまんま、雑誌にできそうですね!現地レポートに歴史的背景、しかもプロ級のマンガまでついて、本当に尊敬してしまいます。このブログに描かれる隊士さんたちも、新選組冥利につきることでしょう。^^

永倉新八さんは本当は北海道の杉村家の墓所に眠ってらしたのですね。ということは、東京のほうは分骨ですね。隊長の近藤さんともなると、一体いくつ 骨を分けられたのか、もう仏舎利なみの人気骨ですね(苦笑)。
私も、会津が好きで何度か旅行し、丁寧寺の近藤隊長の墓も参拝しましたが、立派なもので、新選組名付け親である藩主の容保公もどれほど彼らを大切に扱っていたかが偲ばれるものでした。思えば、新選組は、古い会津の記録にある、由緒ある名前でしたね。
しかし、丁寧寺以外にも、板橋、三鷹、岡崎(法蔵寺?)と4か所もあって・・・骨もできれば一か所に帰りたいところでしょうね。本当に、仏舎利なみの人気ものも、辛いのか、嬉しいのか・・・お墓に聞いてみたいところですね。
4コマ目の最後の、お墓から聞こえるヒソヒソ声、すごく笑えました。本当にお話ししていそう。(爆)
#424 美雨さま
ムダに長いブログを完読していただき、感謝いたします。
ホント、余計な駄文が多いんですが・・・。

会津と岡崎のお墓については、近藤さんの首が埋められているという伝承が
あるものの、その信憑性は???のようです。
胴体の方にしても板橋と三鷹と、どちらにホンモノが埋められているのだか
・・・?
でも、お墓とは遺体があるなしではなく、供養塔としての歴史的な意味が大事
らしいので、どのお墓にも手を合わせてお参りしたいと思います。
#426
ああ!
私が原画を担当した石板の画像が載ってる♪
これ、印刷して、私のアトリエで
紹介させていただいてもよろしいでしょうか?
#427 みちこさま
この近藤さんの石板は、みちこさんが原画を描かれていたのですか。
そのようなことでしたら、ぜひお使いください。手前のイスとかが写り
こんじゃっててスミマセン。
当ブログの宣伝もしていただけると嬉しいです!(←ちゃっかり)
#429 多摩では博徒の争い
 板橋の法要はさすがですね。とまどった顔したイッセーさんの焼香姿が新撰組の面々と重なって浮かびます。
 近藤さんが板橋に移された頃、多摩では博徒の動きが活発で、4月23日には砂川村で対立が起こり、「双方の悪徒集まり、討ち果たすべき風説有り」と穏やかならぬ空気が漂っていました。怪我人が出て騒がしい日が続いたようです。25日は終日雨でした。近藤さんを弔ったのでしょうか。野火止用水
#430
ぃやあ、イッセーさん、めっちゃ興味深いレポ感謝です。
永倉さんの御顔は、ぐっさんで固定しちゃってます(^^ゞ
名前の文字を替えていらしたんですね、覚悟に泣けますね。
なのに、長生き・・・(笑)
#431 野火止用水さま
幕府もなくなり、次の治世者はどのように国を治めるのか、村々では気がかり
だったことでしょう。アウトローが表に出てくる絶好機でもあったワケですね。
砂川村の出来事は(ちょっと時代が前になりますが)「天保水滸伝」みたいで
興味あります。

近藤さんの処刑を目撃した勇五郎の証言には、雨の記述はありません。
介錯の刀が一瞬光ったなど、むしろ晴れていたかのような印象があります。
板橋と砂川では大きく天候が違っていたのでしょうか?
実は勇五郎の証言には曖昧な所があって、その辺りも気になる所です。
#432 kitacoさま
1970年版のテレビドラマ「燃えよ剣」では、ウルトラマンのハヤタ隊員
こと黒部進氏が永倉さんを演じてました。
ちなみにワタクシは、たぶん40歳くらいだと思うんですが、その頃の永倉
さんご本人の写真があって、ソレを絵の参考にしました。ちょっと仲代達也
ちっくでイイ男です。
#440 横浜の場合
何度か墓参しましたが、今回法要には伺わなかったので興味深く拝読しました。
近藤勇の墓は、他に円通寺(荒川区)の供養碑に刻銘あり、
高国寺(米沢市)に首級埋葬説の墓あり、京都東山に首級埋葬説のみ残存、ですね。
永倉新八の北海道の墓、小樽市中央墓地と札幌市里塚霊園の2ヶ所には行きました。

前記事コメントの続きですが、
「横浜開港人形」旧モデル画像はこちら→ http://osaragi.exblog.jp/12693906/

横浜では、神奈川奉行により、安政6年4月から役所附下番、
文久3年3月から定番役下番(番所附下番とも菜っ葉隊とも称する)が徴募され、
市中や諸関門など各所の警備にあたりました。
徴募に応じたのは、奉行預所の主として農家の厄介だった模様です。
農民が武士の役目を代行したという意味で、まさに「農兵」と言えるでしょう。

彼らには制服が支給され、奉行所支出には多額の「陣服代」が見られます。
イッセーさんもご存じと思いますが、定番役下番の場合は
萌葱地に「武」の字を染め抜いた三つ紋の羽織を着用していたそうで、
青菜に似た色から「菜っ葉隊」と通称されました。人形もこのイメージでしょう。

先行「農兵」の装束は、江川農兵隊にも何らかの影響を与えたかも?
あるいは、代官所がデザインを指定し、各組合村が費用を出して誂える、
現代の学校指定制服みたいな方式がとられた?なんて想像しました。
#441 東屋梢風さま
いつも詳しい情報をありがとうございます。

「菜っ葉隊」について、農兵と同様の組織だったことは今回初めて知りました。
横浜では「農兵」より「菜っ葉隊」の方が馴染みある呼び名なのでしょうか。
横浜開港人形の旧モデルを見ると、羽織以外は蔵敷組合の農兵服と似ている
ようです。

蔵敷村界隈に、西洋軍服に詳しい人がいたとも思えませんので、仰るように
統一デザインがあったと考える方がいいかもしれませんね。
どこで服を誂えたのか、またその費用にいくらかかったのかわかると面白い
ですね。
#1516 No title
3年余りも経ちましたがブログ見つけましたので足跡だけ残させて頂きます。当日皆様にご挨拶させて頂いた子孫(4代目)です。
正月から仏亊もと考えてサミットに便乗すれば、少しでも多くの方に焼香して頂けるかと思ったのです。350名の方に御挨拶がし切れずに申し訳ありませんでした。17年5月には日野パレに御邪魔させて頂きます。見掛けたら声をお掛けくださいネ。凶暴性はありませんので大丈夫ですヨ。(笑)
#1517 岡山新選組の新八参上さま
3年も前の記事にコメントをいただき、誠にありがとうございます。
ご子孫の方に見ていただけたとは!
この上もなく嬉しいと同時に、穴があったら入りたい心境でもあります。失礼なブログですみません。

今年の日野新選組まつりも、見物に伺おうと思っております。お見かけいたしましたら、ご挨拶させていただきます。こちらも凶暴性・違法性はありませんのでよろしくお願いいたします。

コメントの投稿

名前

タイトル

メールアドレス

URL

本文

パスワード

非公開コメント管理者にだけ表示を許可する