農兵、相州台場へ出張する!

江川太郎左衛門さんてのは、名代官なんですよ。
これはどの歴史本みても書いてあるし、疑いの余地はないのです。
その功績を見れば、幕末のスーパーヒーロー間違いナシなのです。
・・・ただね・・・。
それはあくまで江川家の36代当主・英龍さんのこと。

安政2年(1855)早々、過労が祟って(たぶんね)英龍さんは55歳の
働き盛りで亡くなります。
で、三男の英敏さんが江川家当主と代官職を引き継ぐのですが(長男
と次男は早世)、この人も文久2年(1862)に23歳の若さで他界して
しまいます。
そして、その後を継いだのは、秀敏さんの弟で英龍さんの五男の英武
さん。家督を継いで代官になったのはわずか10歳のとき。

つまりこの時期に、この多摩の代官を務めていたのは、まだローティーン
の少年だったのです。
フツー、こんなコトはあり得ないんです。代官は任命職ですから。
でも江川家っていうのは鎌倉以来の名家なので、世襲代官という特別職
だったんですね。だからこんなこまわり君みたいな、パタリロみたいな、
少年代官が出てきちゃう。

当ブログにお集まりの皆さん、中二男子に地方行政のトップが務まると
思いますか?平和な時代ならともかく、国内は内戦や一揆やらで混迷
している最中です。
当然、実務はオトナの手付・手代が仕切る実情になっていたでしょう。
清廉潔白を謳っていた英龍さんの時代は遥か昔。代官所も平気で
賄賂を要求するようにクリック)なってきています。

同じ江川太郎左衛門代官所ではありますが、文久以前とそれ以降では
代官所の内情が大きく変わっていたということに注意しない
と、この時期の多摩地域の様子は正しく理解できないと思います。

その江川代官所に、慶応三年(1867)3月、ある命令書が出されました。

「 慶応3年3月お代官江川太郎左衛門殿へ相州観音崎御備え場の警備
 を仰せつけられた書付けの写し
  
申し渡し
この度、堀田相模守・松平丹波守の御預所となっている御備え場の警備役が
外されることとなった。この御預所、石高33000石余りを江川代官所に仰せ
付ける。兼ねてより取り立てておいた農兵を御備え場へ向かわせ
て警備させる
ように取り計らうこと。
このことは松〇周防守が仰せ渡されたことなので、その意を得られるべきこと。
帳簿は追って渡されるべきこと。
   慶応3年  3月14日   」


松〇となっているのは、おそらく虫食いかなにかで原文が読めないのだと思い
ますが、「松平」でしょう。松平周防守康英さんが、このときの老中です。
その御老中からの命令なんですね。
神奈川県横須賀の観音崎。灯台で有名な所ですが、当時は台場がありまして、
そこに多摩地域の農兵を連れていって、警備させろっていうんですよ。
村民にとっては迷惑な話ですがこの時点では、代官所にその命令が出ただけ
です。
「いや、それは村方の治安維持という、農兵設置の理由からはずれます」
代官はそのように建言することもできたハズです。

ところが!
5月下旬になって、代官所からこのような回状が廻ってきました。

「卯(慶応3年)5月26日お役所より回状
各宿村々組合農兵たちのうち、一組合に4~5人づつ、相州のお台場へ警備と
しておよそ一ヶ月ほどの間出張に行くことを仰せつけられた。
人選をして名前を書き、来月の4,5日頃までに間違いなく送ってよこすこと。
もっとも、それに見合うお手当をくだされる予定なので、着物その他身の周りの
ものは普段使っているもので差支えない。
この回状を早々に順送りし、最後の村より返却すること。
  卯5月26日 江川太郎左衛門役所  」


あららら・・・江川代官は、あっさりと引き受けちゃったようですね。
代官所は村々の防波堤にはなってくれなかったようです。
結局、江川代官の管轄領である武州・相州の14組合村から、54人の農兵が
選抜されて観音崎台場の警備に出て行きました。

「慶応3卯年6月お役所からのご沙汰により、当組合農兵3人が6月12日出立
して、府中宿で田無組合の農兵5人と待ち合わせた。鉄砲長持ち一棹が田無
組合より差し出された。
一同、宿村を継いで行き、同夜に武州木曽村(町田市)に泊まる。13日相州
藤沢宿泊まり。14日相州鴨居村観音崎御台場へ到着。」


この記事からルートを推察すると、青梅街道から府中街道に入り、鎌倉街道を
南下していったようですね。藤沢からは鎌倉を経由していったのかと思いますが、
もうちょっと詳しく書いていてくれればよかったのに、と思います。
以前、江川代官領が細川家の預所クリック)になったとき、村民が人足として
横須賀まで行かされました。そのときの日誌には詳しい行程ルートが書かれて
いませんでしたが、きっとこの観音崎ルートと同じ道を行ったのでしょうね。
やはり3日間はかかったハズです。
町田や神奈川の史料に「農兵が泊まっていったよ~」なんて記事があると、面白
いんですが、どなたかご存じないでしょうか?

ところで、この台場警備に蔵敷村組合から派遣された3人は、いずれも東大和
市域の農兵でした。
後ヶ谷村の名主・勘左衛門、蔵敷村の百姓倅・佐吉郎、高木村の組頭倅・伝蔵と
なっています。
この2人目の佐吉郎さんは、正月に火事を出したクリック)直右衛門さんの
息子です。火事で大事な小銃を焼失してしまいましたよね。田無組合から鉄砲
1挺を譲り受けたのは、このためかもしれません。

さて、観音崎に集合した14の農兵組合の中には日野宿の農兵隊も含まれて
いましたが、「里正日誌」に書かれている名簿の中に佐藤源之助という名前を
見ることができます。
この人は、日野宿名主・佐藤彦五郎と妻のぶの長男。つまり新選組副長・
土方歳三
の甥です。源之助クンこの時18歳でした。

20131103.jpg

このマンガ描いてて思ったんですが、農兵たちはどんな格好で観音崎まで
行き、警備に就いていたのでしょう。
代官所からの回状には「普段使っているもので差支えない」とありますが、
まさか野良着で行ったりはしないでしょう。
「どこかに絵なり写真なりないかな?」と思って、yahooで「江川農兵」の
画像検索をかけてみました。
・・・ところが、これが全然ないの。
だって、トップで当ブログの四コママンガが出てきちゃうくらいだもの。
静岡県三島市に「農兵まつり」ってのがあるらしくて、農兵像もあるようなん
ですけど、これは「踊る人」の像のようで、当時の農兵ではないみたい。
そこで、このブログでもご紹介した東大和市郷土博物館クリック)に
展示された農兵隊服が思い出されます。
上着、チョッキ、ゲートルなどが残されていましたが、これらを着こんだ
洋装スタイルに、お決まりの韮山笠。
蔵敷村組合では、せっかくだからこのスタイルで出動したものと思いたい
ですね。
ということで、源之助くんにもその恰好をさせてしまいました。

日野宿農兵隊は、武州世直し一揆鎮圧のときは「筒袖にだんぶくろ(股引)」
という出で立ちで出動しました。
なので、実際にはその時と同じスタイルで観音崎まで行ったのかもしれま
せん。


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#386 相州観音崎
観音崎手前の浦賀まで毎月往復しています。当時は3日がかり、今は立川、八王子、16号から横浜横須賀道路経由で2時間半ですね。
#387 御用長持ちと人足
 鉄砲は長持ちに入っていて、それを「御用長持」とし、担ぎ手は二人の人足で、途中の各宿を継ぎ立てたようです。派遣された農兵が名主・組頭級ですから、自分で鉄砲を担がないのはわかるとして、
 経費はさぞ大変だったでしょうね?
 江川家や幕府はどのようにしたのでしょうか? 
 結局は村持ちではなかったのでしょうか?
 村の警護から国防へと、相当の意識変革があったと思います。これが、後の自由民権に繋がるのでしょうか? やたらに疑問が沸きますね。 野火止用水
#388 サインの差し入れ!(汗
三連休、イッセーさまにはどのようにお過ごしですか。
うちは、今日ちょっとしたアニバーサリーで、しゃぶしゃぶを食べに行くところです。(●^o^●)

神奈川県横須賀の観音崎、何度か通ったことありますが、そんないわくつきのところだったのですね。(*_*)
しかし土方さんは人気ですね。ランキング=顔順でしょうか。
斉藤さんは、なかなか上位にいけなそうですね(苦笑)

昨晩は日本シリーズの最終戦で、落ち着いて八重の桜みれませんでした(笑)
楽天ポイントたまりそうで一寸うれしいですネ(#^.^#)
ご褒美、美雨は土方さんのサインの差し入れでも十分いいかも!

みーちゃんハムハムかわいすぎます!応援☆彡(^_-)-☆です 

風邪がはやり始めているようです。イッセーさまには体調気を付けてお過ごしくださいね。
#389 Junpeiさま
当時は平たんな道ばかりではなかったでしょうから、なおさら大変な行程
だったでしょうね。
もし、本当に蔵敷村の農兵隊服のような洋装で歩いていたら、絶対に目立って、
途中の村々でなにか記録が残っているんじゃないかと思うのですが・・・。
#390 野火止用水さま
なるほど、長持ちというのはそういうコトだったのですね。
すると、蔵敷村だけでも10人程の人件費がかかったのでしょうか。
この時代のことですから、経費は村負担の可能性が高いと思われますが、
国防意識が農民にどれほどあったのかは気になるところです。
確かに、農兵隊が組織された地域は、明治期の自由民権運動が盛んだった
所が多いだけに興味深いですね。
#391 美雨さま
しゃぶしゃぶ、いいですね!
ちなみにワタクシは「ゴマだれ」派です。

リアルに土方さんは男女ともに人気がありますが、斎藤さんのファンは
圧倒的に女性が多いんじゃないでしょうか。大正時代まで生きていたワリに
ナゾの部分が多いのが返って魅力的なんですかね。強いし。

朝晩は多摩地方でも冷えるようになりました。
お気づかいありがとうございます。美雨さんもどうぞご自愛くださいませ。
#419 大坂よりは近いけど
相州の沿岸警衛というと、会津藩や彦根藩との関連も思い出されますね。

代官所としては、農兵の大坂派遣を中止させた経緯があるからこそ、
続けて観音崎警備も「お断りします」とは言いづらかったのでは、と感じました。

先々代・江川英龍の構想では、農兵を「海防」に充てる予定だったのですよね。
その後、外交や内政の状況が変わるにつれ農兵の実質的な役割も変わったのでしょうが、
この観音崎警備は「海防」、つまり原点回帰ではないでしょうか。
当初の目的を果たすよう要請された、という意味でもお断りしづらかったのかも。
しかし農兵の役割を「地元治安維持」と捉える農民とは当然意識の乖離があるわけで、
英龍さんは生前このような問題や解決策を想定していたのかどうか、気になります。

小野路村・小島鹿之助の日記には、6/8に浦賀警衛の日野宿農兵が通過したとあります。
その一言だけで、装束や装備そのほかの記述はありません。
また、蔵敷村や田無村の諸氏について何も書かれていないのも、残念に思いました。
おそらく日野農兵は、旧知の鹿之助さん宅へ挨拶に立ち寄ったのでしょう。
佐藤彦五郎の日記にはもう少しいろいろあるので、次回お知らせします。

こちらこそ、いつも興味深い出来事や史料などをご紹介いただいて
ありがたく存じています。
#423 東屋梢風さま
さすが東屋梢風さん、スルドイご指摘です。

代官所としては大坂派遣を断った手前、今回は引き受けざるを得なかったという
事は確かにあるでしょうね。幕閣と交渉したのは手代・手附でしょうから、強く
主張できない部分は当然あったでしょう。

英龍さんは志半ばで亡くなっていて、しかも農兵が正式に採用されたのはその
死後ですから、彼が農兵を具体的にどう捉えていて、どう農民に説明しようと
していたのか、ワタクシも知りたいです。

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