ワタクシね、脱出できたみたいですよ。
何がって?
「あまロス」ですよ、「あまちゃんロス症候群」。
というのもね、先日仕事をしていましたら、「ハッ」と気がついたんです。
ワタクシ、ハナ歌で「雨のち晴れルヤ」を無意識に口ずさんでいるではないですか!
「ごちそうさん」の主題歌ですよッ!
先週まで「でも、はぁとはサバイバァー♪」だったのに、ですよ。
気がついたら「ゆず」になってました。
これって、「あまロス」脱出と見ていいですよね。ね、先生ッ。
慶応2年(1866)8月、「まじロス」な話が全国を駆け抜けました。
14代将軍徳川家茂が、遠征先の大坂で亡くなったのです。21歳の若さでした。
実際に亡くなったのは7月12日なんですが、「里正日誌」には8月27日に江川
代官所から回状が廻ってきたことが記されています。
しかし、同書状に
「一橋中納言様(慶喜)がご相続遊ばされ、去る20日より上様と称し奉られ
ました。」とも書いてあるので、杢左衛門さんたちは「こりゃ、もうちょっと前にお隠れ遊ばされ
たな・・・」と勘づいたハズです。
徳川家では、徳川宗家を相続すると「上様」と称され、その後に征夷大将軍に任官
されると「公方様」と呼ばれる習わしでした。
13代将軍家定が亡くなったときも、その死はひと月の間隠されました。
家茂さんは亡くなったのが大坂ですし、多摩の村々に情報がこの程度遅れて入る
のは当時の常識の範囲かもしれませんね。
将軍が亡くなったのは「武州世直し一揆」のおよそ1ヶ月後ですが、幕府としては
第二次長州征伐の真っ最中です。
この戦い、表面だけを見れば「政府軍VS一地方軍」の図式ですから、圧倒的に
政府軍=幕府軍が有利のように見えますが、内情はまったく逆。
幕府が軍事的に一番頼りにしていた薩摩が、すでに長州と水面下で同盟を結んで
いたために(薩長同盟)、戦ってくれねーわ、密かに最新式の武器を長州に横流し
するわのチョー裏切り行為。
長州は高杉晋作の元、奇兵隊などのように兵制改革も進んでいましたし、各地で
連勝。幕軍は士気も上がらず、結局長州領内に足を踏み入れることすらできない
アリス様、もといありさまです。
そんな中での将軍の死でしょ。幕府側は「まじロス」どころのショックじゃないです。
ただ、これをチャンスと見たのが慶喜さん。
「戦争を中断して将軍の喪に服したいんで・・・」と、朝廷に停戦の仲介をお願いします。
勝てない戦争は真っ先にヤメるに限るゼってトコロでしょうか。
で、幕府代表の勝海舟と長州代表の広沢真臣らが9月2日に会談を持ち、一応の停
戦となったワケです。
ところが、ですよ。
9月29日に江川代官所の手附、石川政之進からこのような回状が多摩の村々に
廻ってきました。
「御進発につき、再度献金または御用金について、別紙のとおり稲葉美濃守殿から
仰せ渡された。
当8月中において、御勘定所の小栗下総守が仰せ渡されたことは、宿村組合の村々
は去る丑年(慶応元年)は多分に精を出し、献金も致し、暇なく働いた。
また、特に今年は蚕、米作とも通常の収穫通りに行かず、広く一同骨折りしている
ところではあるが、長州への討入りの形勢が実に容易ではないと恐れ入り聞く。
且つ、武蔵国や相模国の宿村は戦地とは遠く隔たっている。
そのため、人を差し出すことは免除され、一同無難に家業の農業ができ、まことに
有難いことである。
身元の者(しっかりと収入のある有力者)たちはしっかりと聞き分け、軍費として献金、
あるいは御用金などを願いたい。有志の者はなるだけ精を出すべきで、金高・名前を
一人づつ金高順に半紙堅帳に認め、銘々調印して、その宿村ごとに村々に通達して
調べ上げ、我々が廻った村先へ差し出すべきこと。(以下略)」長州征伐で苦戦しているために、献金せよとのお達しです。
先ほど書いたように、9月の始めには長州との間で一応停戦が成立しています。
一応というのは、長州が停戦後も幕府方の小倉藩への攻撃はやめないでいまして、
これは条約違反なんですが、幕府としてもこの時点でこれを止めることも小倉に助勢
することもできないでいたのです。結果、小倉の一部は長州の手に落ちてしまうの
ですね。
と、まぁ、この時点で幕府から長州征伐のための献金要請が出るというのは、時期的
に考えてもおかしい気がするのですが・・・。
でも、この要請に対し、多摩の各村々ではその献金に応じています。
東大和市域では、後ヶ谷村が8両、宅部村が4両、高木村が11両、奈良橋村が11
両、蔵敷村が11両、支払っています。蔵敷村組合全体では141両が献金されて
いるようです。
同じ回状が廻ったのは、相州藤沢宿、磯部村勝坂分、武州木曽村、八王子宿、
津久井県中野村、日連村、武州小仏宿、五日市村、氷川村、檜原村、青梅村、
拝島村、日野宿、田無村の各宿村です。
各地区、どれだけの献金があったのかは調べていないのでわかりませんが、蔵敷村
組合程度の献金をしたとすれば、トータルで2000両は集まったでしょう。
これらのお金、どのように使われたのでしょうか・・・?

ワタクシのバヤイ、次のドラマの主役がファンである杏ちゃんだった、ていうのも
「あまロス」から早く抜けられた要因かもしれません。
まぁ、まだ勉さんと水口さんのコトを思わない日がないではないのですが・・・。
「だって早く押さないと、古代くんが死んじゃうッ!」

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風雲急を告げる多摩の幕末、明治も迫ってきます。八重の桜は未だ続いていますから...。
なんだかんだと献金責めで、最後の報告がチットモない。少し経つと幾ばくかの報奨金が還元されて、メデタシ・メデタシ。こんな不都合はないですよね。よくも村人は我慢したと思います。
どこかで、「献金止め」なんて運動を起こしたところはないのでしょうか。地方文書が発掘されると良いのですが・・・。
野火止用水
次回はいよいよ慶応3年です。
もうすぐ明治です。
当ブログの最終回も近いのでしょうか!?
献金とはよく言ったもので、強制と変わらないですからね。
当時の村民はよく耐えたと思います。
もし「献金止め」運動の資料が発見されたら、面白いですね。
佐藤彦五郎の日記には、8月23日に将軍薨去の報、
9月15日に献金の件を話し合う集まり、19日に石川政之進より献金の申し渡し、
20日に献金額を220両と取り決め報告書を差出し、などと書かれています。
正式な申し渡しの前に話し合いが持たれたのは、先に内示があったからでしょうか。
橘樹郡の長尾村(代官今川要作の管轄地)では、8月9日に将軍薨去を聞いています。
(しかもなぜか「一橋様」こと慶喜も死んだ、というデマのおまけ付き)
杢左衛門さんも、代官所の書状より早く、噂は耳にしていたでしょうね。
なお、長尾村に献金命令が下された記録は見当たりませんが、
大樹様の「新葬御用」で隣村と合わせ5人で合計15両を献納したこと、
代官より米の買い付けを命じられ費用500両を預かったこと、の記録があります。
目的は長州征討の兵糧米確保かと思いましたが、あるいは窮民救済用かも知れません。
いずれにしても、代官所が直接買い付けをせず上層農民に委任したのは、
そのほうが有利(餅は餅屋)だから?と想像しました。
農民の側として、相次ぐ負担は迷惑でしょうが、
支配者に恩を売っておけば後々何かの折に役立つ、という腹でしょうか。
長尾村の米の買い付けの話は面白いですね。
南秋津村では献金を納めることができずにいると、代官所から督促状が
届いています。これはハッキリと長州戦争のためと言っていますが、
なぜそんなにお金が必要だったのか興味あります。
しかし、長尾村のケースはわざわざ代金を渡して「米を買え」とのこと
ですから窮民対策のための線が強いように思います。
仰るように、支配者に恩を売っておくという考えはあったでしょうね。
ただこの頃になると、幕府の屋台骨が崩れつつあるのは村役人クラスなら
分かっていたでしょうから、どの程度お上の都合を聞くのかは、話し合い
の場でももめたことでしょうね~。
この後、だんだんと幕府へ見切りをつける様子も出てくるので、その辺り
の変化も面白いです。
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