幕末和製西洋式小銃を追う!

慶応2年(1856)7月、「里正日誌」には次のような記載があります。
「武州世直し一揆」騒動の翌月です。

「  小筒(小銃)取り入れの儀につき願い奉り候書付け
私の韮山屋敷御用達場の警固をするために、農兵たちへ舶来ミニー銃
150挺お渡しいただけますよう申し上げましたが、その命令は済んだものの、
お渡しに はなられませんでした。
追って、代替案とのことで和製ミニー銃15挺をお渡しになるとのことです
が、品質が劣るのでなるべく舶来の銃をいただきたい。
最近の時勢はいつ、どこから、いかなることが沸き起こると申すべきか計り難く、
有効な武器がなくては勝算はありません。
(以下略)
     寅(慶応2年)7月      江川太郎左衛門 印
 御勘定所                              」


てことで、今回は幕末の「小銃」事情についてお話してみたいと思います。

ご紹介した資料によると、当時の日本には輸入品と国産の両方のミニー銃が
あったことがわかります。で、どうも性能的には輸入品の方が勝っていたよう
ですね。
このブログでもご案内しましたが、先日まで東大和市郷土博物館
幕末から明治にかけて市内に残る歴史資料の企画展が行われていました。
この展示資料の中に、上の書状に出てくる和製ミニー銃と思われる小銃
があったのです。

ミニー銃というのは、いわゆるミニエー銃のことです。
1840年代におフランス人のミニエーさんが、それまでのゲベール銃に替
わる銃として発明した新式銃です。
ゲベール銃は鉄の筒の中を球形の弾丸がピューッと飛んでゆくだけなので、
射程距離も短いんですが、ミニエー銃は銃腔に螺旋状の線条(ライフル)を刻んだ
ので、弾丸にスピンがかかり格段に射程距離や命中率が向上しました。
実はそれ以前に、ゲベール銃にライフルを刻むことも行われてはいました。これを
ヤーゲル銃と言います。でも、弾丸はゲベール銃と同じものを使い、装填に
手間を取ったので、狙撃用としてしか使われませんでした。
ミニエー銃は弾丸にも工夫がされ(後ほどご紹介)、装填も短時間でできるように
なったので、世界中に普及していったんですね。

日本にはゲベール銃が伝わり、遅れてミニエー銃が入ってきた印象がありますが、
実は安政元年(1854)ペリーが再来日したときに、オミヤゲとしてライフル銃を
持ってきています。
でも、その頃の西洋事情はアロー号事件が起きる直前だし、南北戦争もこれから
だったりしたので、新式銃は日本まで輸入されず旧式のゲベールが大量に入って
きたのでしょうね。
でも、幕府は早くからこの新式銃に着目し「コレ、俺たちでも作ろうゼ」ってことで
江川太郎左衛門(英敏)に命じて研究させていたようです。和製ミニー銃の製作
着手です。

一方、農兵たちはといえば、訓練として支給されていたのはブログでもご紹介した
ようにゲベール銃です。これは輸入品と国産の両方があったものと思われます。
「武州世直し一揆」で農兵が使用したのもゲベール銃でしょう。

しかし、現在、東大和市に残されている小銃はミニエー銃であり、しかも国内で
作られたものなののようなのです。
2001年に東京大学の保谷(熊澤)徹先生が「幕府の米国式施条銃生産について」
という研究報告を行っています。
それによると、「国産ライフルと思われる洋式小銃が、現在も多摩地域に数挺残され
ている。」
とし、西東京市(田無)に1挺、東大和市に1挺、武蔵村山市に3挺とその
数を上げています。
通常地板や銃身に製作地や商標が刻印されるらしいのですが、これらの銃には
それが見当たらず、米国製とは考えられないというのが先生の見解です。

先生が調査をされた時、東大和市内の銃は「里正日誌」の著者・内野杢左衛門さん
のご子孫の家に残っているもの、1挺だけでした。
ところが、最近になって、幕末当時に蔵敷村組頭をしていたS家からも新たに小銃が
見つかり、今回の企画展では2挺の小銃が展示されていたのです。

S家から見つかった小銃は、内野家の小銃とほぼ同形なので、国産ミニエー銃である
ことがわかります。しかし、こちらの銃にはなんと銃剣がそのまま着いた状態で保存
されてありました。

スプリングフィールド銃 クリックで大きくして見てね(by 原田左之助)

内野家の銃も、田無、武蔵村山市に残る銃も銃剣はなくなっていますので、左之助
さんの言うように、貴重なものだと思います。
ワタクシのへたなスケッチで申し訳ないのですが、サーベルの根元が筒状になって
いて銃口の先にポコッとはめ込むようになっています。
銃の形は前装式(前込め式)の「三つバンド」と呼ばれる3つのバンドで銃身を固定
させるタイプです。銃剣を入れない長さは1420ミリ。重さは約3,8キロとのことで、
当時の日本人にはそーとー大きかったでしょうねぇ。
ちなみに、ウチのテンちゃん(猫)の体重も3.8キロです。

さて、先ほどからこの銃をミニエー銃と呼んでいますが、正式にはスプリング
フィールド銃
と呼ぶ銃のようです。
簡単に言いますと、当時ミニエー銃には英国製のエンフィールド銃と米国製の
スプリングフィールド銃の2種類がありました。
どちらも基本的な構造は一緒なのですが、スプリングフィールド銃はライフルが3本
しか切っておりませんでした。コストのためでしょうかね?
それなもんだから、命中精度などはエンフィールド銃に劣っていたといいます。
でもペリーが持ち込んだのが自国製のスプリングフィールド銃だったんで、幕府も
こちらの製造を始めちゃったんでしょうね。

ついでなので、さらにマニアックなこと言いますと、この和製銃はスプリング
フィールドM1855
という形式です。
このタイプの大きな特徴が、撃鉄部分に10円玉くらいの窪みがあることです。
コレが何のためにあるかと言いますと、この窪みの中にテープ雷管という発火薬
を巻紙に着けたタイプの雷管を入れて、使用するためなんですね。
子供の頃、紙火薬で遊ぶオモチャのピストルがあったでしょ。アレと同じだと
思えばいいです。
多摩地域に残る幕末小銃には、全てこの10円玉大のくぼみがありますので、
当時、幕府が作成していた西洋式小銃は米国製のスプリングフィールドM1855だ
ということがわかるのです。

では、その仕組みをご紹介。

撃鉄 テープ雷管

沖田さんの言うように、元々は雷管を守るフタが着いていたようですが、たぶん
チャチな仕組みだったんでしょうね。どの銃も紛失しています。アメリカ製のオリ
ジナル銃の写真を見ると、このフタにイーグルが刻印されてあってカッコイイですよ。

冒頭に書いたように、ミニエー銃には専用の弾丸が使われました。
これをプリチェット弾と言います。ドングリみたいな形なので「椎の実弾」とも
言います。

プリチェット弾

副長、解説ありがとうございます!
ワタクシ、何も言うことございませんだみつお。ナハ、ナハ、ナハ。
・・・アレ?でも近藤局長が気になるコトを言ってますね。
プリチェット弾は溝が刻んであることがミソで、それが膨らむことで力を発揮するハズ
ですが・・・。

ここで重大発表。聞いて、聞いて!
この和製スプリングフィールド銃の最大の特徴・・・それは・・・
銃腔にライフルが刻んでない!
て、ゆーコトなんです!!
じゃ、ライフル銃じゃないじゃん!ジャン・アレジ!嫁さんゴクミ!
・・・おっと、興奮のあまり失礼をば・・・。

当時のメイド・イン・ジャパンの限界だったんでしょうか。ライフルを刻む技術力が
当時の日本にはなかったようなんです。
正確に言うと、ヤーゲル銃は国産化に成功していましたから、線条を入れることは
できたようです。でもヤーゲル銃は狙撃用なので連射はしません。
スプリングフィールド銃は一般歩兵用の銃なので、連射に耐えなければ実戦では
使えません。この連射実験に国産銃は耐えられなかったようなんです。

というワケで、外見はスプリングフィールド銃・・・なれど中身はゲベール銃という
シロモノが今回ご紹介した和製西洋式銃の正体です。
銃と共に弾丸も多く保存されているのですが、近藤局長の言われるように、なんか
ヘンなプリチェット弾も交じっているんですよね。
これらの弾丸は、この和製銃のために作られた弾なのでしょうか?

江川さんが農兵のために舶来のミニー銃を回してくれと言っているのも理解でき
ます。国産では性能は旧式と同じなんですから。
で、そんな銃がなぜ多摩に残っているのでしょう?

当時、鉄砲製作にかかる勘定御用を務めていた日下部成章という人の「留記」に
よると、文久元年(1861)から翌年にかけて、湯島の製作所で「アメリカより献上
されたものに倣った銃」を215挺作り、うち120挺にライフルの施条加工がなさ
れたといいます。
先ほど言いました耐用試験に合格しなかった銃は、これらの120挺と思われます。

元治元年(1864)に銃砲製作所は湯島から関口(文京区)に変更になりますが、
その時、幕府は鉄砲製作をそれまでの職人による手作業ではなく、アメリカから
製作機械を輸入して機械製作に切り替える計画を立てるのです。
ところが、幕府とアメリカ側とで手違いがあり、そのマシーンが輸入されません
でした。
以降、明治期に入るまで、国内で新式銃の製作は行われなくなり(試作を除く)、
輸入銃に頼るしかなかった、とのことです。(保谷先生の研究文による)

となると、多摩地域に残されているこれらのスプリングフィールド銃は、湯島で
製作されたライフルを入れる以前の95挺の中の何挺かでしょうか?
当然、幕府陸軍に支給するワケにはいきませんやね。
たぶん、一揆後の治安維持として「ないよりはマシ」程度のことで、村々に払下げ
られたのではないかと思われるのですが、いかがでしょう。
保谷先生によれば、同型の銃が国内で生産されたという報告はこれまでに
ないそうで、その性能はともかくとして、歴史的に貴重な資料であることに間違い
はないようです。


さて、蛇足ながら。
M1855最大の特徴は先ほども言いましたが、テープ式雷管です。アメリカのメイ
ナード博士って方が発明して、「湿気にも強いんだゼ」ってのが売りだったらしい
んですが、言うほどのことはなくて雨に弱かったらしいんですね。
「ダメだ、こりゃ」「次行ってみよう、次ッ」
てことで、後継機種のM1861ではこのテープ雷管は採用されていません。
よく、日本に入ってきた銃は南北戦争終結で銃が余っていたからだ、と言いますが、
M1855に関して言えば、南北戦争当時にはすでにクラシック扱い。
M1855が活躍したのは1858年のフォー・レイクの戦いというインディアン
掃討作戦のときだったようです。

この後に起こる戊辰戦争では、新政府軍も旧幕府軍もエンフィールド銃やスプリング
フィールド銃で戦います。しかし、会津の白虎隊はヤーゲル銃を装備していたと
いいますから、旧式銃で戦う兵士も多かったのでしょう。
前装式のミニエー銃を改造して後装式(後込め式)にした銃をスナイドル銃
言います。こっちの方が便利。
でも、当時はまだ銃尾のガス漏れがあったりして、信頼性が低かったそうです。
箱館戦争の時でさえ、後装式銃を持っていたのは両軍でも一部の将兵であったと
云います。

20131005.jpg

大河ドラマ「八重の桜」で、会津若松城に立て籠もった八重(綾瀬はるか)が
バンバン撃っていたのはスペンサー銃という、当時最新式の後込め式
7連発の騎兵用に開発された銃です。
三つバンドのゲベール銃やミニエー銃より全長が短いので(997ミリ)、それら
の銃より軽かったろうと思いきや、約5キロあったそうです。
やはりメカニズムが複雑になったからでしょうか?



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コメント一覧

#351 すみません
ヒーヒー笑って粗相しそうです。
小銃解説が興味深く、解説挿絵に感銘してましたら、
斎藤さんの漫画が・・・!
オカゲさまで私の斎藤さん像がどんどん素晴らしくなってますよ!
#352 kitacoさま
この漫画ははじめにネタありきで、それを誰に演じさせようかと思ったところ、
一番そーゆーコトがふさわしくないであろう斎藤さんにやらせてみました。
四コマめがカワイク描けたと思います。
#401 古式銃さまざま
スプリングフィールド前装銃の国内生産について、勉強になりました。
メーナード式の後継機の点火機構は、雷管外火式だとか。
なお、アメリカ製ミニエーとは区別している研究書もありますね。

ミニエー銃の弾は、底部のくぼみに木栓(鉄製・陶製もあり)を嵌めて使ったそうです。
この木栓が発射ガス圧で弾丸中に押し込まれ、裳部を拡張させました。
周囲に溝がないタイプは、エンフィールド銃の弾でしょう。
木栓を用いず、ガス圧のみで拡張するよう薄く造られていたとか。

スペンサー銃には歩兵銃と騎兵銃とがあり、全長・重量が多少異なります。
山本覚馬が長崎で入手したのは騎兵銃(940mm、3.85kg)とかで、
大河ドラマの八重が使用していたのも外観は騎兵銃でしたね。
テンちゃんと重さはほぼ同じですが、長さはいかがですか?(笑)
#402 東屋梢風さま
いろいろな本や解説があり、イマイチわかり辛いのが幕末の小銃各種ですね。
ご紹介したスプリングフィールド銃を保存していらっしゃる家では、ゲベール銃用の
丸弾からプリチェット弾まで何種かの弾丸を残されているのですが、果たしてどの
弾を使ったのか。

郷土博物館に展示された農兵隊服を見ると、経年変化で布が縮んだことを考慮しても、
着ていた人の身長は145~150cmと思われます。
三つバンドの銃を扱うのは相当大変だったでしょうね。

テンちゃんは、♀ですし小型の猫なので(シッポも短い)スペンサーよりもだいぶ
短いですよ(笑)
#975 弾幕
先日メールさしあげた古島です。
会津の戦いでは非常に旧式の銃も使われていたというはなしを読んだことがあります。射手に、弾込め専門の助手をつけて連射したとか。
敵が目前に迫ったときは、古い鉄砲も案外役に立ったのかもしれません。正確にねらわなくてもいい。遠くの目標を撃たなくてもいい。そういう場面もおそらくあったでしょう。
#976 古島さま
メールありがとうございました。返事が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。

会津、特に白虎隊などはヤーゲル銃を装備していたといいますね。
会津は体質的に保守派の重臣が多く、近代装備化が進まなかったのがやはり敗因ですが、
さらに前線の指揮も実力より身分の高い者を重視して任せてしまったのが、一番の敗因
だったように思います。
本来、政治家である西郷頼母のような人より、会津藩士ではないけれど実戦経験が豊富な
斎藤一あたりに総指揮を任せていたら、まだ何とかなったかもしれません。

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