世直し一揆のその後

「あまちゃん」が終わっちゃったでしょ。
もーワタクシ「あまロス」ですわ。7:30からのBSプレミアムで見てました
からね。朝起きるモチベーションを無くしております。
今週から朝テンちゃん(猫)に顔を舐められても、起きられそうにない・・・。
「ファイナル勉さん?」
「ファイナル勉さんです」

武蔵国一帯に嵐のごとく吹き荒れた「世直し一揆」。
この騒動が治まった後に出てきたのも、一揆ロス症候群なんですね・・・
って、そんなワケはない!

一揆が治まって、みんなホッとしてますよ。
でも、農兵を出した村々では複雑な思いが交差していたことでしょう。
この一揆が江戸まで入らず、その手前で壊滅させられたのは、なんといっても
農兵隊の力に寄るところが大きいのです。
農兵はこのブログでもご紹介しましたが、ほとんどが経済力のある有力農家
の子弟で組織されています。
一方の一揆勢は貧しい百姓たち。
つまり、貧しい百姓の抵抗を、富豪層が鎮圧した・・・という構図になるワケで
すが、どんな村にも貧富はあります。一歩間違えれば、同じ村内で殺し合うと
いうことがあったかもしれないのです。
名主や組頭といった村の指導者たちも、きっとブルーな気持ちだったでしょう。

お上とて同じこと。
取り敢えず反抗を抑えるために「打ち殺せ」命令を出しましたが、これは見せし
め的な要素が強い。だって、抵抗するからって百姓を片っ端から殺していったら、
年貢が取れなくなってしまいます。
ただでさえ、第二次長州征伐が難航し幕府の権威がそーとー傾いている中、
足もとの武州の治安が悪化したら、これは幕府崩壊痛恨の一打になりかねない
のです。
この一揆の再発を防ぐべく、幕府は窮民に対する救済策を立てることに
なります。

「恐れながら書付をもって申し上げます。
近来だんだんと物価が上がり、特に昨寅年(慶応2年)は凶作で貧民は難儀して
いる時なので、今年の夏に麦を収穫するまで窮民が暮らしを続けていけるよう、
村々においてもその方法を立てます。
一村ごとに申し上げよとの仰せを受け、承知いたしました」


一揆の翌年、つまり慶応3年(1867)2月に、幕府からそれぞれの村に当てて
「救済策のアイデアを出せ」との諮問が出されたようです。
各村々では、救済策を立て代官所に回答を出しました。

然るところ当村におきましては、支配お役所へ貯穀の拝借を願い、それを窮民
に貸渡し凌がせます。それでも足りなければ村方の有力者たちより、お金や
穀物を施し遣わし、誰もが麦の収穫までは暮らしが続けていけるようにいたし
ます。きっと弛みのないようにしますので、このことを申上げます。以上。
                    江川太郎左衛門代官所
                       武州多摩郡奈良橋村
  慶応3卯年2月               百姓代 冨右衛門
                            組頭 儀兵衛
                            名主 藤九郎   」


奈良橋村ではこのように代官所に答えたようです。
「里正日誌」には、他の東大和市域の宅部村、高木村、後ヶ谷村からの回答書
も記録されていますが、内容は一緒です。おそらく村役人の間で話し合いが
持たれ、統一の回答を出したのでしょうね。

一揆の起きた慶応2年(1866)は凶作で、全国的に米不足ではありましたが、
米価が高騰する大きな理由はそれだけではなく、米穀の流通過程
大きな問題がありました。
次にご紹介するのは、関東取締出役からのお達しの一部ですが、これを読むと
幕府がそこを指摘しているのがわかります。

「・・・・元来山中のような通常の年でも食べ物が不足する場所はなお更、通常の
場所でも最近は米穀・野菜の類まで値段が高くなっている。
これは、中流以上の百姓は収入が多く貯えもあるので、米穀を急いで売り払わな
くても困らないから市場に持ち出さない。
すると、人口の多い町や宿場では食糧不足になる。これに乗じ、仲買人という者
たちが奔走し、言葉巧みに米穀を買い取る約束を僅かの手附金を渡して取り付け
る。それを穀屋へ買い取らせるときに手数料として利徳を取って世間に売られる
のだから、手数料が直接米穀に上乗せされる。
その上、富んでいる穀屋は仲買人をも手先に使って、他国の米穀まで手広く買い
入れ、買占めするに及び、江戸表はもちろんのこと他国へも売り捌くようになる。
全ての仲買人がこのようなことをしているので、小規模の穀屋たちは、米穀を買い
取る相場が見込みと違う場合には、「穀質」といって米穀を質入れし、相場が進み
次第請け戻すことをしている。
また、最近では米穀を貯めていれば、利益が出ない間金銀を手回しする者もあり、
米穀を扱い練れていない者までも買い入れて貯めている。
これらは、悪巧みであり、米穀の融通を妨げていることが一つ一つある。」
 

こうなってくると、もはや買占めなどというレベルではなく、マネーゲームになって
しまっている状況が浮かんできますね。
「里正日誌」の解説によれば、慶応3年(1867)の米価は10年前の安政4年
(1857)に比べて10倍近くも跳ね上がっていたそうです。
主食ですよ。そりゃ、一般ピーポーは大弱りですよね。

ココにさらに拍車をかけているのが、「酒造」です。
酒って米から作るでしょ。
この当時、酒造業って盛んでしてね。各村によくあったんですね。
こういった農産物の加工品は、お金になりやすかったのでしょう。
食べることに困っている人がいる一方で、大量の米を買って酒を造り、利益を
上げるってどうなのよ?と、幕府は酒造制限も出しています。

「寅(慶応2年)10月27日、小川村百姓弥五左衛門、寅年生まれ54歳、
高7石余りを所持、一家6人暮らし。
濁り酒を隠して造ったことにつき、同日昼九ツ時(12時)お召し捕りになった。
道具取り調べ書き。
一、丈3尺3寸5分(約100cm) 口2尺4寸5分(約74cm) 明樽1本
一、同                同               明樽5本
一、丈2尺2寸4分(約67cm) 口1尺7寸5分(約53cm)  明樽3本
一、1斗樽         明樽18本
一、4斗樽  2本 内1本濁り酒2斗7升 1本同1斗 〆て3斗7升これ有り
一、4斗樽  3本 粕これ有り
一、丈3尺3寸5分 口2尺4寸5分 1本
この分は今年仕込んだものだが、売り捌く目的は明らかである。
右は取り調べの上、田無村の大惣代名主・下田範三方へ、調書、樽類を封印
の上、御預けになる。追って嘆願があったときにはお払い下げになる。」


これは、小川村(小平市)で密造酒がバレてパクられた様子です。
お上も結構本気(とかいてマジ)に取り締まってますよね。
もー、弥五左衛門さん、家族が泣いてるよ~!

幕府にとって、一揆対策を含んだ米穀対策・米穀問題がいかに重要だったかが
わかる資料だと思います。
一揆はさまざまな問題点を浮かび上がらせたんですね。

20130929.jpg

さて、冒頭の話の続き。
次の朝ドラって、主役が杏ちゃんなんですよね。
KEN WATANABE(渡辺謙)の娘。
このドラマも、たぶんワタクシ見るっスよ。
杏ちゃん、新選組ファンらしいし。
永倉新八ファンらしいし。



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コメント一覧

#347
これからは杏の話題も入ってくる訳だ。そうですか、渡部謙の娘だったとは。なるほどネットでみたら、「モデル活動を始めたばかりの頃は父が渡辺謙であることは明かさず...」とありました。
#348 Junpeiさま
あ、そこに引っかかりましたか(笑)。
お父様が謙さんだということを隠していたのは、謙さんが大の阪神ファンで
あるのに対し、杏ちゃんはギガ巨人ファンであるからではないでしょうか
(テキトー)。
これまでの代表作が「妖怪人間ベム」のベラ役とか、「幽かな彼女」の幽霊役
とか、ほぼ人間ではないモノが多いので、今回も「底なし胃袋女」みたいな
描かれ方をされないか心配です。
#349 寺社が無尽
 弥五左衛門が捕まった翌日、幕府は寺社の無尽を禁止しています。米価が上がる中で、庶民は刹那的な喜びに走る気配も生まれていたようです。
 前月の9月26日には、祝い事を一切止め、寺方では年忌、卒塔婆について当分の間休むように指示が出されており、村にはやりきれない空気が覆っていたことが想定されます。そんな中で、10月21日には、農兵の砲術の調練が行われています。
 この時代を知るために、頭の構造を立体メガネのようにしてくれる新技術を開発して貰いたいです。野火止用水
#350 野火止用水さま
さらに、長州征伐の献金要請もこの頃出されたようですね。
村々では幕府や代官所に対し、どのような感情でいたのか気になります。
仰るように、多角的に見ていかないと、なかなかこの時代の真実は見えてこない
のでしょうね。
ありがとうございます。
#398 余波さまざま
米価高騰の最大の原因は、長州征討のため兵糧米の需要が拡大したことであり、
それに対する有効な政策がとられなかったことです。
それなのに、原因を作った幕府が「米で金儲けをする下々が悪い!」などと
取り締まりを強化するのは、なんだか横暴ですよね~。
一揆収束後も米価高騰は続き、江戸市中では困窮民による集団押し借りが頻発、
ようやく設置されたお救い小屋は満員御礼状態。
10月、幕府が外国米緊急輸入に踏み切り、米価はようやく落ち着きました。

武州一揆が後に及ぼした影響のひとつは、イッセーさんもご存じのとおり、
江川農兵隊の活躍が認められ、他の地域でも農兵設立が進んだことですね。
小島鹿之助さんの小野路村や、綱島村を含む都筑郡、橘樹郡の村々などでも
農兵隊が組織されていきます。
また、農兵取立がなかった村でも、治安悪化に対する備えが必要とされたのか
新式銃を購入している例が見られます。

余談ですが、江川農兵大坂派遣の中止伺書が、
慶応2年6月20日付けで代官所から幕府へ提出されていました。
この伺書には、農兵隊が一揆鎮圧に貢献したことも記述されています。
ただ、このタイミングで提出したことと、杢左衛門さんら組合村々代表に対しては
15日に上坂中止が伝えられていることと、2件の整合性が疑問ではあります。

渡辺謙と前妻との離婚は相当もめたようで、当時騒がれましたね。
杏は母親と同居、父親は再婚しましたから、実の父娘でも互いに気兼ねがあるのかも。
永倉新八の近刊『浪士文久報国記事』『新選組奮戦記』と相次いでいるので、
杏にはこれらを読んでますます元気に活躍して欲しいと思います。
#399 東屋梢風さま
慶応年間は天候不順だったことも、米価高騰に追い打ちをかけたで
しょうね。
農兵制度は、必ずしも農民がすべて納得のいく形で行われたものでは
なかったろうと思います。しかし、この制度が多摩地域にもたらした
影響は、後の時代にまで続いているような気がします。
明治期に入ると、自由民権運動は多摩地域でも盛んになったのはご存じ
の通りかと思いますが、農民のこの行動力は農兵制度の副産物だった
のではないでしょうか。

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