新選組史跡を行く 甲州勝沼編

今週はなんか忙しくて。
「里正日誌」読んでないんですよ。モッくん(杢左衛門さんのこと。本木雅弘に
非ず。ましてや元木大介には絶対非ず)ゴメンね。
てことで、今回は番外編です。

8月の終わりに家族提案で山梨県の勝沼にぶどう狩りに行きまして。
まぁー、ワタクシ的にはあまり果物が好きではない、ということもありまして、
ぶどう狩りなどサラッサラッのサラサーティに興味なく、オレ留守番してるよ
的なオーラを発散させていたのですが、
「アレ?勝沼っていったら、新選組の史跡があるトコロだよな・・・」
と、思い出しましたら急に上機嫌。
「勝沼イイねー、ナイス・チョイスだねー、レッツ・ら・ゴー!」
と甥や姪を車に放り込んで、いざ出発となったのです。

東大和から車で勝沼に行くとなりますと、やはり中央高速を使います。
以前は八王子インターから高速に乗ったのですが、外環ができてからは
青梅インターで乗るのが便利です。
青梅から中央高速に合流するまで、ほぼトンネルばかりと、風景は味気ない
ですがアッという間に相模湖近くまで行っちゃいます。

ハイ、勝沼。
紙面の関係で早いです。
家族をぶどう園において、私は一人車をリ・スタート。
目指すは「柏尾古戦場跡」。

慶応4年1月、「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた幕軍は江戸に戻ってきます。
もちろん、その中に新選組も含まれていました。
江戸に戻った新選組は、甲州街道をやってくる新政府軍を食い止めるために
甲府城に入る計画を立てます。
この辺りの事情については、諸説あり、話せば長くなってしまいますのでここ
ではその過程は省略。
とにかく、近藤勇は新隊員や日野農兵隊などの協力も受けて甲府に向かうこと
となります。ちなみにこの時、「新選組」ではなく「甲陽鎮撫隊」と名前を
変えて行きました。
しかし、行軍の途中で「甲府城が新政府軍の手に落ちた」との情報が鎮撫隊に
入ります。
心の準備も不十分なまま、甲府からかなり手前の勝沼柏尾で、近藤さんたち
鎮撫隊は土佐を中心とする新政府軍と戦うことになったのです。

甲州街道を勝沼から東京へ向けて進むと、左側に大善寺という奈良時代に
創建されたという古刹があります。そのすぐ先が「柏尾古戦場跡」です。

DSCF0255a.jpg

柏尾橋を渡ると北に上る坂道がありますが、その交差点に案内板があります。

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で、そのそばには「近藤勇像」が。
いつ頃作られたのかはわかりませんが、比較的新しそうですね。

「なんで近藤さんだけなの?土方さんのはないの?」
ないんです。
土方さんはこのとき、援軍を求めに江戸方面に引き返しているので、戦闘には
参加してないんです。

DSCF0264a.jpg

周りには、このような「勝沼戦争」の資料がプレートになって置いてあります。

DSCF0259a.jpg

img011.jpg

近藤先生、解説ありがとうございます。
当時は、現在の近藤像の辺りまで大善寺の敷地があり、勝沼戦争時の弾痕が
刻まれた鳥居が太平洋戦争直後まで残っていたそうです。
慶応4年(1868)3月5日に起こった戦ですが、兵士の数や武器の差、さらには
士気の低下から脱走者も出て鎮撫隊は敗走します。
わずか2時間の戦いであったと云います。

近藤さんは京都で狙撃されて右肩に重傷を負い、鳥羽・伏見の戦いには参加して
いません。この勝沼戦争が自ら指揮を振るった唯一の近代型戦争です。
「池田屋事件」など屋内や町中での斬り合いでは無敵の強さを誇った近藤さん
ですが、近代型戦争では十分に力を発揮できなかったことになります。

この辺りで近藤さんは自らの限界を感じてしまったのかなぁ・・・と想像してしまい
ます。流山での出頭に至る心境の変化は、この辺りから始まっているのかな、と。
敗戦を契機に武士から軍人へと考え方を変え、その後の戦いで自らの戦闘スキル
を高めていった土方さんと、そこが両者の大きな違いだったのではないでしょうか。

DSCF0268a.jpg

柏尾橋の方角から、谷を挟んで山側を望みます。

DSCF0265a.jpg

付近には、この戦で亡くなった兵士の墓もあるようです。
その中の一人、会津藩士・柴田八郎という人のお墓はすぐ近くのようなので、
行ってみることにしました。
上の案内板の中央の写真ですよ。

新選組関連のガイドブック「多摩{新選組}の小道」(けやき出版)には、道を
少し進んだブドウ畑の中にある、と書かれているので、坂道を登ります。
近藤像から100mばかり進んだ、一段高くなっている畑の中を覗くと・・・

DSCF0281a.jpg

ありました!
見え辛いので赤い矢印をつけておきます。
畑のド真ん中です。
もっと近づきたかったのですが、柵があってコレ以上は近づけません。
まぁ、人の土地だし、しょーがない。

DSCF0280a.jpg

アップで。
現在でも丁寧にご供養されているようですね。
「会津藩士・柴田八郎謙吉の墓」

ところで、案内板に紹介されている墓の他の二つは、「官軍・木村伊助武則の墓」
と「幕軍・池田七三郎の墓」と紹介されています。
池田七三郎は新選組の隊士ですが、実際には昭和13年まで存命し、新選組
最後の一人として子母澤寛の取材も受けています。
ということで、この墓は別人のものということになりますが、いったいどちらの方
のお墓なのでしょう・・・?

さて、次のポイントに向かいましょう。
笛吹市方面に車を20分ほど走らせます。
着いた所は笛吹市春日居町にある、地蔵院というお寺。

DSCF0270a.jpg

このお寺には、新選組隊士だった立川主税という人のお墓があります。
ハイ、ここが今日の2番目の目的地。

「立川しゅぜい・・・?誰?知らないよ、そんな人?」
主税と書いてチカラと読みます。
まぁ、この方はドラマなどには出てこない、いわゆるマイナー系隊士ですな。
でも、その経歴といい、残した功績といい、新選組を語る上ではとても重要な
方ですので簡単にご紹介いたしましょう。
マニアックでゴメンね。

主税さんは筑前(福岡県)出身。慶応3年頃に新選組に入隊したと思われます。
局長附きを務めながら、鳥羽・伏見の戦い、勝沼戦争、会津戦争を戦い、箱館
まで従軍します。
彼は土方歳三が戦死したときもその側にいたとされ、箱館降伏後謹慎中に
「立川主税戦争日記」という従軍記を執筆します。
謹慎が解けると、土方さんの故郷日野や石田村の実家を訪れ、その最期の
様子を語ったといいます。
現在、日野市の「土方歳三資料館」には、このとき主税が持参した「戦争日記」
の写しが陳列されています(原本は所在不明)。
貴重だと思った歳三さんの遺族が、総出で書き写したものです。
主税さんが生き残り、こうした従軍記を残したことにより、現在ワタクシたちが
箱館戦争の経過や歳三さんの最期を知ることができるのですね。

さて、その後の主税さんですが、いろいろと思うところがあったのでしょう。
仏門に入る決意を固め、新選組の同僚であった斎藤一諾斎(秀全)という人に
相談します。
この一諾斎さんは、坊さんから還俗して新選組に入隊したという変り種。
「じゃ、オレが以前住職を務めていた寺を紹介してやろう」
ってことで、山梨県都留郡の全福寺に入り出家。
その後、修行を重ねた主税さんは独竜巨海と名前を改め、明治18年(1885)
からこの地蔵院の住職を務めるのです。
巨海(主税)さんは明治36年(1903)に亡くなり、地蔵院の墓所に眠って
います。

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「二十三世 獨龍巨海 大和尚 武士 谷村長昌寺修業」の文字が見えます。

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地蔵院代々住職の墓域です。
この中のどれが主税さんのお墓でしょう?
ご住職のお墓は通常、卵型の「卵塔」という墓石が使われますが・・・

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ハイ。こちらが独竜巨海大和尚こと立川主税さんのお墓です。
卵塔ではないんですね。意外でした。
もっとも、この墓石は主税さんの娘・春子さんが大正13年に建てたものなので、
その前は卵塔だったのかもしれません。

幕末史を勉強している者として、「立川主税戦争日記」などを後世に残された
偉業に感謝し、手を合わせました。

てことで、今回の「新選組史跡を行く 甲州勝沼編」以上です。
なんかマニアックでスミマセン。でしタ。

20130921.jpg

ちゃんと帰りはぶどう園に寄りまして、家族と合流。
漫画の中で永倉さんが「皮ごと食べられるヤツがいい」と言っていますが、
ワタクシもソレ派です。
シャイン・マスカットってのが、いま、農園でイチ押しのぶどうらしいん
ですが、これが皮ごと食べられて「美味いこと山の如し」であります。
買ってきて、家でいただきました。



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コメント一覧

#343 マニアック
ガイドブック、立川主税、本当にマニアック。甲州街道の勝沼宿から石和宿を昨年の秋に歩き、大善寺、古戦場跡も訪ねました。懐かしいですね。
#344 すごいですね!
祖母の実家がこの辺りなので よく行きます
主に 地元のワイナリーで 買い出しするだけなので
こんな史跡 全然知らなかった!!!
すごいですねー マニアックでステキです
今度 さがして行ってみよう^^p
#345 Junpeiさま
今回は時間の関係で大善寺には寄れませんでした。
本堂が国宝ということなので、ぜひまた訪れたいと思います。
#346 月猫さま
月猫さんになら喜んでいただけるスポットだと思います。
ぜひ訪ねてみてください。
これからも、マニアックな場所をご紹介いたします!
#392 甲州の楽しみ
現地へ行った時のことが思い出され、懐かしく拝読しました。
甲州のブドウ、古くから名産だったそうですね。
江戸期には加工品も販売され、羊羹かジャム?のようなものまであったと聞きます。

柏尾の兵馬俑…じゃなかった近藤勇像は、確か15年くらい前に設置されたと思います。
その前は、鉄板にペンキ塗りの説明看板が立っているだけでした。
周囲が小公園ふうに整備されたのも、この10年くらいのうちです。

「池田七三郎」とされる戦死者が本当は誰だったのか、不明ですね。
土佐・小笠原謙吉隊が、激戦の末に斃した相手の首級を持って勝沼宿に戻ると、
地元民が「これは鎮撫隊の幹部らしい人物で、名前は池田七三郎」云々と言ったとか、
これが誤伝の原因となったのでしょう。
墓は、戦死地に放置されていた遺体を埋葬したものと推測されます。
現在は私有地内であり、外から見ることもできません。

柴田八郎も、鎮撫隊の一員には間違いありませんが、会津藩士説の根拠はありません。
墓は、道路拡張工事の際に約3m東へ改葬されて、現在地となりました。

勝沼や周辺など甲州には、他にも新選組関連の見所が多数ありますね。
歳月堂発行の新選組史跡ガイド『ふぃーるどわーく甲州』に網羅されています。
(※今は在庫切れ中)
#393 東屋梢風さま
あぁ、そうか!
あの近藤勇像、なにかに似てると思っていたんですが、兵馬俑に似てるん
ですね!スッキリしました(笑)

仰るように少し古い本などの柏尾史跡写真を見ると、ただの空き地っぽい
感じがありますね。「新選組!」あたりがきっかけできれいに整備されたん
でしょうか。
立川主税のお墓も、ちょっと前の写真を見ると裏は空き地になっています。
景観が変わるのは早いですね。

勝沼のお墓情報、ありがとうございます。
さすが東風さんですね。とても参考になりました。
「ふぃーるどわーく甲州」、持ってないんですよね・・・。会津編はたまたま
土方歳三資料館に行ったときに、歳月堂さんが入荷しに来ていて買うことが
できたのですが。
再販してくれないかな~。
#903 勝沼の勇天
一年も前の記事に失礼します。最近新ネタが入ったもので。
勝沼の「旧田中銀行」跡の南前の細道を下って日川沿いに出ますと、
川に沿って葡萄畑が続く地帯に出ます。これをしばらく東へ歩くと、
丁度橋の少し手前の葡萄畑の中に、「風呂屋」の遺構が現れます。
これ自体は昭和初期の遺構なんですが、この風呂屋の歴史は江戸後期から続くものだそうで。(もう少し崖上にあったようですが、)実はここの主人を浪士組に入るまでの、勇天仙之助が務めていました。
元治元年、黒駒勝蔵とその一味が急襲した場所は、まさにここなんですが、これは地元でも知る人がいない隠れたスポットです。

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