一揆、鎮圧せり!

慶応2年(1866)6月に起きた「武州世直し一揆」。同時多発的に各地の
村々で打ちこわしが発生しました。
その暴徒たちを抑えるために活躍したのが、江川農兵でした。

前回は東大和市域の蔵敷村組合農兵が、どのような活躍を見せたのかを追って
みました。つーか、活躍はしなかったんですけどね。行ってみたけど終ってたよ、
みたいなね。
でも、その他の場所ではどうだったのでしょう?
「里正日誌」には、6月16日に3か所で打ちこわしがあり、出動した農兵が
それを鎮圧した状況が書かれています。

「一、16日朝五ツ時(午前8時)頃、田無村組合柳久保村の七次郎の家に
打ちこわしがあり、田無村へ御鉄砲教示役の長澤房五郎様・田那村淳様ご両人
の指揮で柳久保村へ農兵と人足を召し連れてご出張になった。打ち払いの時に
一揆勢の即死者8人、逮捕者13人がでた。すぐに田無村に引き立て、19日に
田無村から人を出し、20日に奉行所へ送って即日品川溜(ため)へ下げ、26日
にお呼び出しとなり、一通りお調べの上で一同溜を出て、手鎖をして公事宿に
預けられた。

一、16日昼八ツ(午後2時)頃、宮沢村(昭島市)酒造業の田村屋金右衛門を
一揆勢が打ちこわし、築地河原へ押し出したところ、かねてより日野宿へ代官
所の御手代増山健次郎様がご出張されていたので、日野宿組合農兵・八王子
組合・駒木野組合3組の農兵を召し連れて多摩川南へ出動し、指揮をお取りに
なり一揆勢を打ち払った。即死者18人、逮捕者41人をすぐに日野宿に引き立て、
21日同宿より奉行所に差立て、そこから23日に伝馬町へ入牢させた。26日、
27日の両日にお取調べの上出牢、手鎖をして公事宿預けを言い渡された。

一、16日夕六ツ時(午後6時)頃、五日市村へ一揆勢が押し込んできた。北裏
の難所に代官所御手代の羽鳥為助様がご出動して、五日市組合の農兵を指揮
してお打ち払いになった。即死者10人余り、逮捕者26人、これらは28日に
お奉行所へ送り、即日入牢となった。」


※溜・・・病気になった囚人を保護したり、未決囚を収容するところ。

最初の一件は前回ご紹介した、大雨の中の一戦ですね。
2番目の築地河原(昭島市)の戦いは日野宿の農兵隊が出動していますが、この
中に新選組土方歳三の義兄・佐藤彦五郎もいて、増山さんと共に
指揮を執ったようなんです。
というのも、彦五郎さんの家は天然理心流の道場で、彦五郎さんは近藤勇の
兄弟子でもあり免許皆伝。この築地河原の戦いでは農兵隊の他に撃剣組20数
人も加わり、彦五郎さんはその撃剣組を率いて戦いました。
まぁ、農兵云々以前に、日野の辺りは土地の防衛・軍事面の関心が、他の多摩
地域(たとえば蔵敷組合等)に比べて格段に高かったということでしょう。

この日野農兵隊の築地河原での活躍は「聞きがき新選組」(新人物往来社)に
詳しく紹介されています。特に「里正日誌」には書かれていない一揆勢の具体的
な様子などが書かれていて、とても興味深いです。

それによると一揆勢は、ムシロの旗や紅白の吹流しを数十本も立て、ほら貝を
吹いて鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、鍬・鋤・鎌・鎗・丸太で武装し気勢を
上げ「なかなかに物凄まじ」かったようです。
その数約2000人いたようですが、農兵が装備していたゲベール銃を空砲の
脅し程度にしか考えてなく、一斉射撃を受けて「堤上堤下混乱狼狽」し、助命を
願う者が多かったとのこと。
もっとも、ケガを負った暴徒に彦五郎が「逃げよ」と忠告しても動かぬ者もいて、
彦五郎はこれを斬ったといいます。

さて、武州一帯を巻き込んだこの「世直し一揆」ですが、そのピークは6月16~
17日にかけてのようで、この日あたりにご紹介したような農兵隊との戦いが
あり、鎮圧されていったようです。
人数では圧倒的多数の一揆勢も、銃を備え訓練を受けた農兵隊の敵ではなか
ったというところでしょうか。

しかし、一揆の勢いも治まった6月22日。杢左衛門さんたち蔵敷村組合の名主
たちは、代官所手代の根本慎蔵に呼ばれ、根本さんの出張先である箱根ヶ崎
(瑞穂町)に呼ばれます。

「根本様より仰せ渡されたことは、以降万が一にも打ちこわしが起きたときでも、
食べ物の炊き出し、道具の貸し出しはもちろんのこと、人足などを差し出すこと
はならず、厳しく断り、二念を持たず打ち殺すべき旨を厳重に仰せ渡された。」


「里正日誌」にはこのように書かれてあり、幕府が相当の厳しい姿勢で一揆の
再発を防ごうとしていたことが見てとれます。
しかしこのようなことは、力だけで押さえつけても根本的な解決策にはならない
ワケで。
これ以降、慶応3年にかけて、領主や豪農らによる大規模な貧農・貧民への
救済対策が行われていくようになるのです。

ところで、「聞きがき新選組」によれば、一揆勢は「横浜を廻わって江戸に
侵入すると叫んでいた」
そうです。もし、そうなれば江戸は大混乱となり、外国
からの干渉を受けた恐れもあります。
これを防ぎ、一揆勢を早期に鎮圧・壊滅させたのが江川農兵だったというところ
に、太郎左衛門英龍さんの先見性があったと言えるかもしれません。

20130914.jpg

上の記事でもご紹介しましたが、武州世直し一揆での彦五郎さん、並びに
日野宿農兵隊の活躍は「聞きがき新選組」に詳しく出ています。
この時の活躍で、彦五郎さんの佐藤家では幕府より、彦五郎さんと息子の
代まで苗字御免を仰せつけられたそうです。相当名誉に感じたことでしょう。
しかし、この時の日野農兵隊や撃剣組は、拝みながら命乞いする者に「助けるよ」
と油断させながらバッサリと斬ったり、物陰に隠れてる者の背後から近付いて
ズドン!と撃ったりしていて、それを後日の宴会で爆笑しながら話してる。
「なんだかなー・・・」と思わないでもありません。
確かにお上からは「見つけ次第打ち殺せ」と、007が与えられているより
お手軽な「殺しのライセンス(対象者限定)」を言い渡されてはいますけど、
この躊躇の無さはナニ!?

彦五郎さんが実際に使った刀は、日野市の「佐藤彦五郎新選組資料館」に
行けば実物を見ることができます。
無銘らしいのですが、武骨で飾り気が一切なく、いかにも戦うための武器と
いう存在感がただよう一品です。


「波動砲、発射ッ!」
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#339 一揆と農兵
4コマにもあるように一揆と農兵、元はお百姓同士、考えさせられる「鎮圧」ですね。
#340 Junpeiさま
農兵をまとめる村役人たちは、自分たちの村から一揆に参加する者が出ないかどうかも
心配だったでしょうね。
この慶応2年(1866)は、全国的に風水害が多く、武州だけではなく各地で一揆が
起こった年でもあったようです。

#341 いい四コマですね
 こう言うの見ると、イッセ―さんの思い入れが直に伝わってくるようでホカホカします。
 今度みんなを築地河原へ案内して下さい。
  野火止用水
#342 野火止用水さま
まことに恐縮です。
日野方面からクレームが来やしないか、ビクビクしながら描いております。
#376 上層農民の心情は
『里正日誌』の優れた点のひとつは、
逮捕者の後の処遇まできっちり書かれているところだと思います。勉強になりました。

日野農兵隊の有山重蔵が、実家へ宛てた詳細な手紙の内容が伝わっています。
それによると、拝島村へ押し寄せた一揆勢は、
「白米1升200文、酒1升150文、旅籠の宿泊費172文に値下げしろ」「人足を差し出せ」
と要求し、これが通らなかったものか、穀物商1軒を打ち壊しました。
また、福生村の重兵衛、宮沢村の田村屋(いずれも酒造業)も打ち壊された、とあります。

宮沢村・田村屋が酒造業の再開不能に陥ったのは、イッセーさんもご存じかと思います。
福生村・重兵衛家では、住居はもちろん2箇所の酒造蔵、5箇所の土蔵も破壊され、
衣類・諸道具・穀物に至るまで台無しにされ大損害を被ったとかで、
重蔵は手紙で「本当に残念至極と思います」とかなり憤っています。

これは私見ですが…
当時の上層農民は、社会の仕組みや幕政の内幕をよく知っていたと思われます。なので、
◯困窮者続出は経済政策の失敗。富農富商を打ち壊しても世直しにはならない。
◯富農富商は、幕府の求めに応じて献金したり、地域の自治や公共事業に協力したりと
富を社会に還元しており、私利私欲に耽っているわけではない。
◯暴力を用いずとも、交渉によって合理的に解決する方法がある。
――などの思いがあり、「世直しの大義はともかく、打ち壊しは明らかに行き過ぎ。
犯罪行為とみなすのもやむを得ない」という気持ちだったのでは、と感じます。
一揆勢に対する具体的な対応は人・地域により異なっても、このあたりには大差なくて、
中にはそういう気持ちでありながら義理・人情に引かれるなどのワケアリで
一揆勢に味方した人もいたように思えます。

ご紹介の『聞きがき新選組』は、ご存じ彦五郎より四代目・佐藤昱氏の著作ですが、
二代目・俊宣さんによる家伝書「今昔備忘記」、三代目・仁さんによる「籬蔭史話」にも
日野農兵隊の活躍は当然記述され、さらに「なんだかなー…」な描写があったりします。
彼らの認識としては、やはり「暴徒(犯罪者)の鎮圧」だったのでしょう。
また、人命に対する感覚も、時代によってかなり違うと感じました。

長くなってしまい、申し訳ありません。
#378 東屋さま
日野農兵隊とか撃剣組の話を読むと、現代の人命に対する感覚の違いに
面喰いますね。我々の持っている「人の命」という感覚は、ずいぶん最近に
なって作られたセンスなんだと思いました。

東屋さんの「私見」は、ワタクシも全く同意です。
東屋さんも「彦五郎日記」など、地域史料を相当読まれておられるので、
お気づきだと思いますが、この時代の農村はかなり自発的に考えながら
行動していますよね。自分たちにとって得か損か、という部分で動いている
ことが多分にありますが、名主クラスの人たちの政治感覚はかなり高まって
きている感想を持ちます。

その背景のひとつに、これまでの多摩は江川坦庵が守ってくれていたが、それ
も代替わりし「今の太郎左衛門では全てを任せておけないぞ」という危機感も
出来てきたからではないか、とワタクシは考えています。

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