ご無沙汰です。
旅行からはとっくに帰っていたんですが、溜まってる仕事や用事やらを片付けて
いるうちに、コチラの更新がすっかり遅れてしまいました。
話がどこまで進んでいたのかわからなくなっている方もいらっしゃるのでは?
つーか、ワタクシ自身がそーだったりして。
じゃ、ワタクシのために、ざーーーっとおさらいをしてみましょう。
そして、YOUのためにも(ジャニーズ社長風)。

サクラ吹雪の~、サライのブログ~。
時は慶応2年(1866)6月、多摩地域の農兵たちは、第2次長州征伐の影響
で大坂遠征を命じられます。
組合では「それは農兵の本来の目的とは違うんでないの?」ってことで、出張
に来た代官所の役人へ、代表者が陳情に行きました。東大和では蔵敷村の
杢左衛門さんが日野まで出かけていきました。
ところが、陳情した翌日に幕府の方から、農兵の大坂遠征中止の命令が出され
ます。
「なんだか知らないけど、ラッキー!」
杢左衛門さんはウキウキ・マイ・ハートで帰宅します。ところがその途中、多摩川
渡しの船頭さんから、大規模な打ちこわしが起こったことを知らされるのです。
武州世直し一揆 の発生です。
打ちこわしが発生した3日後の6月16日子の刻(午前0時)。一揆対策に
夜通し高張提灯を上げて警戒態勢を取っている杢左衛門さんの所へ、江川
代官所より小川村(小平市)継ぎ立てで書付が届きました。
「秩父辺りより騒ぎ立てている、およその人数3000人ほどが所々で乱暴に及び、
江川代官の支配所へ打ちこわしに来る様子もあるとの訴えがあったので、各村々は
農兵を差し出し、暴徒を見かけ次第打ち殺すべし。もっとも
出役の者を向かわせたときはその指図を受けるべきこと。以上。」おお~、スゴイことが書かれてますね~。
これは江川代官所から出された正式の農兵動員命令です。その中で一揆勢を
打ち殺しても良いと言っているのですから、幕府の本気度がわかります。
一方、農兵側は同じ農民として複雑な感情があったでしょうねぇ・・・。
さらにその2時間後、16日夜丑中刻頃(午前2時)。代官所手代井上連吉から
砂川村継ぎ立てで書状が届きます。
「只今、田無村が打ちこわしにあっているとの注進が入ったので、この状況が
見られ次第、農兵一同を召し連れ、我々の泊まっている旅宿へ出張するように。
6月15日 井上連吉
蔵敷分名主 杢左衛門殿
右の御通達があったのでこのことを申上げます。且つ、江戸のお役所よりも
長澤・田那村のご両人がご出張されたので、小川村へ向かう人数を繰り出して
ください。以上。
6月15日 砂川村名主 源五右衛門
蔵敷村名主 杢左衛門様 」日付は15日になっていますが、書状が書かれたのが15日の夜中だったので
しょう。緊急で届いた様子がわかります。
田無村(西東京市)で打ちこわしが起きているとの情報が入ったので、蔵敷組合
に出動命令が出されました。文書の後半は継ぎ立てた砂川村名主の添え書き
です。それによると、江戸の代官所からも指揮官を派遣させたようですね。小川村
(小平市)は田無村と東大和市域との間にあります。
ところが、またもやその数時間後、今度は粂川村(東村山市)の役人から緊急連絡
が杢左衛門さんの元に入ります。
「大至急申し上げます。只今粂川より大岱(東村山市)・柳久保(東久留米市)で
打ちこわしがあったので、田無村組合の農兵その他大勢が召し捕えに行きました。
大急ぎで農兵を残らず粂川に向け、村々の人足は槍や鉄砲を持参してお出向き
下されますよう、お願い申し上げます。以上。
6月16日早朝 粂川村役人 」東大和市域から見れば田無よりも近い東村山や東久留米市域での打ちこわしです。
こちらからも農兵出動の要請が来てしまいました。
さぁ、どうする!杢左衛門さん!?
「16日早朝、右の通り粂川村より申してきたので、御支配所の井上連吉様が出役
先の砂川村へ粂川村からの注進を申上げた。
かねてから呼び寄せておいた農兵1人につき、玉込め15、玉薬15、カン40づつ
渡し、外カン合薬等を用意した。
16日朝四ツ前(午前10時)に出発し、村々の人足一同粂川村名主・伊兵衛の家に
向かった。出動したのは蔵敷・宅部・奈良橋・高木・後ヶ谷・清水・廻り田・野口・粂川
の9ヵ村の凡そ300人ほどである。
もっとも、昼食を伊兵衛宅で取っていると騒動は沈静化した様子なので、八ツ時(午後
2時)過ぎに人足は村々へ引き取られた。」東大和市域の農兵たちは、田無村よりも粂川村を優先させて現場に直行したよう
です。ところが、着いてみると騒動は治まっていたようで、杢左衛門さんたちは実戦に
及ぶことなく帰村したようです。
では、田無村の様子はどうだったのでしょう?
「この日の朝五ツ時(午前8時)頃大雨の中、江川代官所の鉄砲教示方長澤房五郎様
と田那村淳さまの両人が、前日15日夕刻に田無村にお出ましになった。
一揆勢を打ち殺してもよい、との注進があり朝五ツ時前に、田無村組合農兵のほか
村々の人足を召し連れて、柳久保村七次郎宅の打ちこわし現場へお討入りなされた。
即死8人、怪我人多数、逮捕者13人がいた。その他の者はどこかへ逃げ去ったので
事態は沈静化した。一揆勢を打ち払っているときは大雨の中で、正五ツ時頃のこと
である。」江戸役所から指揮官が出張してきた田無村では、一揆勢との戦闘が行われたよう
です。しかも大雨の中での捕り物だったようですから、きっとすさまじい状況だったの
でしょうね。
多摩地域の農兵軍と世直し一揆勢との対決は、この他にもいくつかの場所で行われ
ました。「里正日誌」によれば、それらの戦闘は全て6月16日に起きていることから、
一揆勢のピークもこの日あたりであったことが想像できます。
果たして蔵敷村組合農兵軍は、他の場所で実戦に及んだのでしょうか?
長くなってきちゃいましたので、この続きはまた次回。
この次は、もちょっと早く更新するのよさッ!

良い子のみんなもご存知のとーり、トシさんの実家は日野の豪農です。
石田村名主の地位こそ親戚に譲りはしていますが、従兄であり義兄の
佐藤彦五郎は日野宿の名主です。つまり、身分は百姓であったけれども、
土方家は幕藩体制を支える中間支配層の位置にあったといえるでしょう。
一方の山南さん。彼についてはわからないことがとても多く、特に試衛館
に入るまでのことはほとんど不明といっていいほどです。仙台脱藩と云わ
れていますが、仙台伊達家中に山南・サンナン・ヤマナミという苗字の
家臣は見つかっていないそうです。手附や手代のような陪臣だったとの
説もありますが、その可能性が高いと思われます。
新選組が屯所を置いていた八木家の為三郎さんの証言では、京都に来た
ばかりの山南さんは羽織の袂も擦り切れ、そこから手を出したり引っ込め
たりしながら笑っていたといいます。
なんか、貧しい生活にはもう慣れてるし・・・みたいな山南さんのイメージが
浮かぶんですよね。出自が武士であれ、百姓、町人であれ、あまりお金の
ある生活を送ってきたようには思えません。
一揆に対する考え方も上の漫画のようではなかったか?と勝手に想像する
次第です。
さて、そのトシさんと山南さんの仲。巷間云われているほど悪くはなかった
のではないかって、前々回言いました。
その根拠となるのが、トシさんが京都に旅立つ前に故郷に残していった
「豊玉発句集」という句集です。トシさんは諱(いみな)を義豊といいます。
豊はそこから取り、玉は多摩川から取ったのだと云われます。
この中の一句。
「水乃(の)北 山の南や 春の月」これが、山南さんを詠んだものではないか、と云われています。
トシさんは春の季語が好きなようで、特に「春の月」は全41句中で4句に使用
しています。「水の北」の句もその一つで、トシさんオキニの句であったこと
がわかります。
おそらく、山南さんが師範代として日野に出稽古に来た帰り道、トシさんが
途中まで送っていった時のものか。あるいは二人連れだって小野路あたりへ
出稽古に行った帰り道を詠んだものか・・・。
いずれにしても、トシさんが山南さんを慕っていなければ作らない一句でしょう。
ちなみに、「豊玉発句集」の他の句に、近藤さんや沖田さんをはじめ他の試衛館
メンバーを詠んだ句はありません。
「波動砲、発射ッ!」

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このときの打ち壊しは、所沢、宮沢村、中神村、大沼田新田、柳窪村と東大和市周辺では東西南北に騒動の場が広がっている感じで、農兵自身と共に村人達は困惑したようです。武蔵村山市の指田氏は日記に
「6月17日、此の辺、雑説まちまちにして、東西に走り、南北に馳せ、大騒動」
と記しています。中でも興味を引くのは、16日に、岸村の農民五兵衛が召し捕られていることです。「はからずも行きあいて」とありますので、巻き添えを食ったようですが、入牢させられています。後日談は不明です。一般農民もうかうかしていられなかった事を伝えます。
野火止用水
かなり、情報が錯綜していたようですね。人馬が移動する速さでしか連絡が
行かない時代ですから、当時の混乱は相当だったでしょうね。
五兵衛さんの話は実に興味深いです。何か誤解を招くようなことがあったので
しょうか?いろいろなストーリーが想像できますが、きっとこのように巻き添え
を食った人はきっと他にもいたのでしょうね。
武州に呼応する形で田無、東村山、東久留米市域でも打ちこわし発生ということは、世情が安定しておらず一触即発の状況にあったということなんでしょうね。武州で一揆した農民と多摩の農民とでやりとりがあったとは思えませんので。
この一揆は同時多発的に起こっています。開国して貿易が始まると、大儲けする
側と物価上昇で生活が苦しくなる側との二極化が起こり、その不満が一揆に爆発
したのでしょうね。
ただ、野火止用水さんの仰るように現場は混乱し、巻き添えを食った者や、空気に
飲まれて一揆勢に加担した者もいたのではないかと思います。
柳久保での闘いの際に、田無農兵と共に現場に赴いた「村々の人足」の中には
小平の侠客・小川の幸蔵親分がいて、彼は手下40人と共に一揆勢に斬り込み、命を的に随分働いたようです。幸蔵親分は基本的には「悪」の部分の強い人間のようですが、ここでは大分ヒーロー的な活躍をしています。詳しいことは「多摩のあゆみ」の150号に高尾善希さんという方が書いており、侠客・博徒の実像がわかってかなり面白いです。
親分というと博奕打ちの類なのでしょうが、いざという時には村民の側に立つ
というのが、けっこうあったようですね。
この手の話は好きなので、読んでみたいと思います。教えていただき、ありがとう
ございます。
8月2日「Let`s農兵 大坂出兵スか!?」へ差し上げたコメントの続きですが、
一揆発生から農兵出動決定までの経過と、代官所の対応が謎です。
上坂中止の理由が一揆であるならば、せっかく村々代表が集まった席上で
それにはまったく触れないまま、彼らを解散させたのは何故でしょう?
出動未定だとしても「備えておくように」くらい伝えたらよさそうなものですが…
幕府としては一揆勢の横浜到達を絶対に阻止しなければならず、
多摩川沿いに防衛ラインが引かれたようですね。
下流の二子に近い溝ノ口村(現川崎市)には
綱島(現横浜市)組合から400~500人もの武装した人足が駆けつけました。
これを率いた大総代兼北綱島村名主・飯田助太夫は、
16日、佐藤彦五郎へ緊急の書簡を送り、大丸(現稲城市)より上流の防衛を委任、
自らは下流を守る旨を提案し、了承の返信を受け取っています。
綱島組合の農兵隊は、この時点ではまだ存在せず、
この武州一揆が契機となって翌7月に組織されます。
ただし、万延元年に設置された治安機構が一帯にあり、鉄砲も備えていました。
これが上記の武装人足で、農兵の先駆といえる側面を持っていると思います。
8/5に東屋さんからいただいたコメに、ワタクシ返答を忘れていたようですね。
翌日から旅行に出たせいかと思います。大変失礼いたしました。
ワタクシも東屋さんのご意見に賛成です。
日野あたりは農兵への取り組みが積極的ですが、蔵敷村組合あたりは史料を読んで
いても、どうも義務感だけで農兵を務めているようにしか感じないんですね。
代官所もすでに坦庵さんはなく、強いリーダーシップを取れる人材がいなかった
のではないでしょうか。農村も「モノを言う」ようになりつつあり、幕府と村との
間で代官所は神経を使う立場だったのかもしれません。
幕府は一揆を武力で抑えようとしていますが、瑞穂では村役人が一揆勢と交渉して
スルーさせています。村人にとっては、自分の村が襲われなければいいという考え
もあったのでしょう。
各地域によっての温度差も考える必要があるのでしょうね。
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