武州世直し一揆

慶応2年6月13日、武蔵国秩父郡上名栗村の百姓たちが、同国高麗郡
飯能村の穀屋・酒屋などを打ちこわすという事件が起こりました。
打ちこわしはさらに拡大。わずか7日間のうちに武蔵国秩父・高麗・入間・
新座・比企・多摩・足立・大里・埼玉・男衾・榛沢・児玉・那賀・賀美・豊島
の15郡、上野国緑野・甘楽の2郡を席巻するという、大事件に発展します。
これが世に云う武州世直し一揆 です。

「東大和市史」によれば、東は中山道筋、南は多摩川流域、北は上・武国
堺沿いに及ぶ関東西北部一帯に展開し、打ちこわされた家屋は200ヵ村で
520軒、一揆勢として参加した民衆は十数万人で、各村から村単位の人足
動員という方法で組織され、雪だるま式に激増。一揆の指導者は各地に存在
し、打ちこわし対象者を選んで、計画的に指揮したということです。

蔵敷村名主・杢左衛門さんは、農兵大坂出兵騒ぎが落着し、ホッと一息ついた
日野宿からの帰り道に、この事件の一報を聞きました。

「6月15日、日野宿からの帰り道に築地の渡船場で、打ちこわしが起こったの
で昨夜渡船場へ警備を固めるように支配所より仰せつけられた、と船頭から聞
いた。
砂川村名主の源五右衛門の家へ様子を聞きに立ち寄ったところ、支配所の
手代・井上連吉様が八王子宿組合の農兵をお連れ出しになりお控えされている
と聞いた。昨日の14日夜九ツ時(12時)に八王子を出立し拝島村の渡船場の
警備を固めて、今朝未明に砂川村に罷り越してきたという。
井上様から、早々に帰宅し組合の農兵を呼び寄せ手配し、命令があり次第出動
するように仰せつけられ、昼九ツ時(正午)帰宅した。
すると、村役人一同心配して帰宅を待ちかねていたが、早々に組合村へ農兵を呼
び寄せ、鉄砲玉鋳立てや玉薬詰めなどを蔵敷村の農兵の啓蔵・佐吉郎その他を
呼び寄せて支度させた。」


なかなかにリアルな描写で、緊迫感が伝わります。
13日に農兵の上坂が決まり、それが15日にあっさりと中止となった理由はココに
ありました。
幕府のお膝元武蔵国での大一揆です。これは農兵を大坂に派遣なんてしてられ
ません。
また、杢左衛門さんたち村のリーダーも、一揆が来たら撃退しなければなりません。

「およそ夕五ツ時頃(午後8時)、一揆勢は大勢となった。今日の午後にまたまた
所沢に乱暴を働くに及び、なお多摩郡の辺りへ押し入るとのうわさも聞く。
ついては先刻申し渡した通り農兵を集めておき、命令があり次第、村役人が付き
添って出動できるようにすること。
右はまだ準備できていない一件につき、強く手配するべきこと。以上。
                    江川太郎左衛門手代 井上連吉」


情報が飛び、代官所からはいつでも出動できるようにとの指令があります。

「追って一揆勢の行く先々の様子がわかったならば、早々に申し伝えられるべき
ことである。
右は砂川村の御用先からのご命令であり、早々に組合村へ触れ出して出動の
用意をいたし、御用の高張り提灯を終夜照らしおいた。」


一揆勢が打ちこわす対象者には2つのパターンがありました。
一つは一揆勢にとって完全な敵対者であり、彼らは徹底的な打ちこわしの被害に
あいました。どんな人たちかというと、悪質な高利貸しや横浜貿易で莫大な利益
を上げている商人などです。特に貿易商人は物価高騰の元凶と目されていたので
、激しい攻撃目標となったようです。
もう一つは豪農たち。しかし、彼らが一揆勢の要求を容れて穀物などを放出した
場合はノー・プロブレム。一揆勢も打ちこわしはせずに済ませたようです。

で、一揆というのもルールがあるようでして、「我々は生活が苦しいからこういう
コトをやるのです。生活維持のための行動なのですよ」という主張に基づいた
打ちこわしをするんですな。
具体的には、ボッコボコに破壊はするけれど、決して略奪行為はしない。
人を殺したり、傷つけたりはしない。
武器は農具や生産用具だけで、刀などは使用しない。
・・・てなこと。

当時の物価上昇は天井知らずとなっていて、特に米の値段は銭100文で1升
買えたものが1合5勺しか買えない、という状況にまでなっていたようです。
「世直し」とは物価を引き下げることであり、打ちこわしは豪農たちにその蓄財を
放出させて、貧民を救済させる手段だったんですね。

なお、この「武州世直し一揆」は、その舞台となった場所では「ぶちこわし」とか
「ぼっこし」などと呼ばれてきたようです。

さぁ、この世直し一揆。どのような展開を見せたのでしょうか!?

20130803.jpg

よく云われるのが、「土方と山南は仲が悪かったのか?」ってこと。
だんだんと土方流が強くなっていく新選組に居場所がなくなり、山南さんは
脱走した・・・と、だいたいそんなストーリーが語られます。
でも、本当にそうだったのでしょうか?
山南さんは小野派一刀流を修めてはいましたが、近藤さんに影響を受け
試衛館に身を寄せます。ここまでなら永倉・原田・藤堂と同じですが、彼は
師範代として多摩の村々に剣術を教えに行ってるんですね。
そこは佐藤彦五郎や小島鹿之助ら、近藤さんの「兄弟子」が道場を構える地域。
そこへ剣術を教えに行くのですから、すでに周囲から天然理心流の遣い手と、
認められていた証拠だと思うのです。
おそらくトシさんが稽古をつけてもらったこともあったでしょう。
そこには総司クンや源さんへのと同じ、同志の繋がりがあったハズです。


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コメント一覧

#317
「同士の繋がりがあったハズ」から続けて下さいな!!
ここからが読みたいんだから! 次回に「続く」はダメよ!
#318 天明4年が重なって
 狭山丘陵南麓では、天明4年(1784)2月27日から29日にかけて、打ち壊しがありました。東大和市域内でも大きな被害を目にしている上に、芋窪村の農民十数名が一揆の仲間として捕らえられています。そのため、今回の事態への対応は為政者・農民ともに、特に鎮圧に関わる農兵の心境は複雑であったことが推測されます。
 次の展開が待たれます。 野火止用水
#319 どんどん
近藤さんの面白さが加速してる・・・っ
山南さんが残っていたら、とは、たらればですけれど。
近藤さんがこんな感じだったら、新選組の末路は違ったのかもですね(^。^;)
#320 一揆
武州世直し一揆が慶応2年(1866)。今年、甲州街道を歩いた時に甲州一揆(天保7年、1836)首謀者の一人、犬目村の兵助の墓を訪ねました。命がけで戦うお百姓、一揆のひとつひとつにそれぞれの歴史がありますね。
#323 極骨!さま
どうもスミマセン。
次回本文の中で書かせていただきます。
#324 野火止用水さま
農兵の設置は、そういった微妙な空気も作っていくことになるんですね。
村の収穫高の違いなどもあり、村々によって一揆勢に加担する者、鎮圧側に廻る者、
複雑な関係が生まれたと推測します。
#325 kitacoさま
新選組のセンターでありながら、イマイチ人気のない近藤さんですが、
この漫画では堂々と主役をはってガンバッテもらおうと思っています。
四コマの世界で「ガンバル」ってのは、それだけボケに徹するという
コトなんですが・・・。
今度、キチンとお墓参りしなくては・・・。
#326 Junpeiさま
甲州一揆については知りませんが、その兵助という人は自らを危険にさらしても
村のために戦った人として、手厚く供養されているのでしょうね。
地元の歴史は、大きな「日本史」の中で埋もれてしまいがちですが、地域でこの
ような人がいたことを騙り続けていってもらいたいと思います。
#334
犬目村の兵助は、自らは知らぬうちに一揆の首謀者に祭り上げられてしまうのですが、暴走する人々を他所にどさくさにまぎれて逃亡し、そろばんの教授をしながら放浪の旅を続け、ほとぼりの冷めた頃、故郷に戻り大往生します。
彼の放浪記が「犬目村水田屋兵助日記」として『山梨県史』(史料編11)に収録されています。家族への愛情が随所に記されていて、何となく切なくなる日記です。

故郷のことなので思わずコメントしてしまいました。ぼっこしと関係ないのにすみません
#335 甚左衛門さま
コメントへの解説、ありがとうございます。
その地方に残る日記を読むと、中央史だけではわからない歴史が見えて
興味深いですね。
このようなコメントも大歓迎です!
#357 困窮がいっぱい
イッセーさんもよくご存じの上で割愛されたと存じますが、
この前月の5月、兵庫や大坂で打ち壊し事件が起きていますね。
これが関東に飛び火して川崎宿、品川宿、芝、新橋で米屋が襲われ、
さらに6月初旬は日本橋界隈で広範囲の打ち壊しが起き、
それらが武州一揆につながった、との説明がよく見受けられます。

この直前、小規模な事件は各地で頻発していました。
中~下層の農民が、米の値下げを求めて分限者や村役人の家に押しかけたなど
農村史料に散見されます。(前回コメントで「小事件」と書いたのはこれです)
慶応2年当時、日本中が困窮民でいっぱいだったようです。

ただ、一揆に加わったのは貧農ばかりでなく、それなりの社会的地位にある者、
個人的な生活はちゃんと成り立っていたりする者も少なからずいました。

一揆の中心グループとそれに従った人々は、規範に乗っ取り行動したでしょう。
ただ、騒動が拡大すると便乗する者が現れ、ルール無視の略奪を行ったため
混乱や治安悪化を招いた側面もあるようですね。
#358 東屋さま
詳しい解説をありがとうございます。
武州世直し一揆では、最初に飯能で発生したときは、困窮民が「ものを食わせろ」と
蜂起したのに対し、やがて短期間のうちに物価の引き下げを要求するものに変わって
いったことが特徴として上げられますね。

また、瑞穂町では名主をはじめとする村の代表者らが一揆勢に応対し、無事通過させる
というウルトラCを成し遂げているようです。この一揆勢はその後、多摩川で日野の
農兵隊とぶつかるのですから、各地域によって一揆を巡る状況は様々だったようです。
このあたり、各地域の地方史を細かく見ていくとおもしろいでしょうね。

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