農兵問題で右往左往していた狭山丘陵地帯の農村に、降って湧いたような
代官所の支配替え問題。
江川代官の支配地からハズされれば、当然農兵政策からもハズされます。
てことは、今まで農兵のために村を挙げて
ン百両と献金してきたことが、全く
のムダになってしまいます。
「何としても支配替えを阻止せねばなんねーーだッ!」さて、この事態に支配替え反対を村々では駕籠訴という手段で訴えに出ます。
そのトップバッターは、農兵調練の舞台ともなっていた
田無村組合でした。
時に元治2年(1865)3月28日。
さぁ、東大和市域が中心となっている
蔵敷村組合も「いざ、続け!」ってんで
名主の杢左衛門さんは気合いを入れる、奥さんは神棚に祈る、息子たちも
覚悟を決める、じーちゃんはShout!する、と大騒ぎ。
ところが、ここからストーリーは意外な方向へと流れていきます。
その辺りを「里正日誌」で追ってみましょう。
「右の願い書を持参して、元治2年4月1日に杢左衛門と勘左衛門(野口村
名主・現東村山市)が江戸に出府。江川代官所出入りの郷宿(公事宿)である
和泉屋・植木屋へ問い合わせたところ、田無村組合は去る3月28日に2か所
へ駕籠訴したが、翌29日に御支配のお役所へお引渡しとなった。
そこで、この後蔵敷村組合から万が一にも越訴したいなどの問い合わせがあれ
ば、差し押さえおくようにと内々のご沙汰があったと聞いた。
江川代官所の加判の元締めである根本慎蔵様にご相談
申し上げたところ、駕籠訴は宜しくないので、御勝手勘定奉行の
松平備中守様(四ツ谷御門内)、同役の松平対馬守様(麹町永田町)、勘定吟味
役の岡田安房守様(牛込早稲田)、勘定組頭の星野禄三郎様(牛込目白台)の
4か所に張訴しなさいとの指示を受けた。
持参した連印の書状は御支配のお役所へ差し出し、お役所から伊豆韮山(江川
代官本拠地)の代官様御手許に4月3日、飛脚を使って差し出した。
張訴のための書状については、元の書状の〇印から内容を見直した。
〇印から文末までは左の通りである。
〇存じ上げましたところ、すでに田無村ほか17ヵ村については重く、お役人様方
へ直訴嘆願申し上げ、御支配お役所へお引渡しになりました。それ以来、越訴
などせぬようにきつく言い渡され、承りました。
ところが、同様に尚また重くお役人様方へご嘆願申し上げては、どのようなことも
法に背いたと思われ咎められる恐れがありますが、とてもこのまま御支配替えされ
ては、せっかく丹精込めたものが空しくなってはいかにも残念で、嘆かわしく当惑
のあまり、恐れ多くも嘆願申し上げる次第です。
何とぞ格別のご慈悲をもってお願いいたします通り、当御支配所に据え置いていた
だけますようお聞きくださり、置いていただければ莫大なご憐憫とありがたく幸せに
存じます。このことを村々一同挙げて、ただひたすらに願い上げます。」読んでビックリしますね、コレ。
つまり、名主たちが代官所出入りの公事宿を通して、代官所の事務方トップに相談
したところ、その根本さんから「張訴にしなさいよ」と指示を受けて、さらに書状の
手直しまで受けているって内容なんですね。
幕府の政策に対して、代官所→公事宿→名主の見事な連携プレーで、この危機を
乗り切ろうという肚です。野球で言えば6・4・3のゲッツー狙いのフォーメーション。
杢左衛門さんたちは根本さんの指示通りに、手直しの済んだ書状を4月6日の夕
刻6時頃、4か所の屋敷の門柱に張り置きました。
つまり、
張訴です。
駕籠訴よりはずいぶん「やんわりとした」訴え方なんでしょう。
さぁさぁ、この「支配替え阻止大作戦」。
どのような結果を迎えたのでしょう。
「里正日誌」を追ってみることにします。
「右の通り支配替えになるところ、農兵お取立ての件があるので、先日その担当
の筋へ張訴し、田無村組合は駕籠訴し、当御支配お代官様へも取りすがって嘆い
た。すると、伊豆韮山のお代官様へお役所より連絡が行ったので、お代官様から
直々に勘定所へ封書をお差出しになられた。
勘定吟味役・岡田安房守様がご開封の上、勘定所お役人の方々がご評議になり、
4月19日に御支配所の根本慎蔵様から機密の内容を承った。
右のご評議の結果、4月29日に御支配様の元締め衆が勘定所へお呼び出しに
なり、これまで通り支配所内に据え置いて、支
配替えは元に戻すと仰せ渡された。そして、5月2日お役所より
ご内意があった。
組合村々へ談判の上、当名主杢左衛門・田無村名主下田半兵衛・小川新田名主
弥一郎の3名が連れだって恐れながら出府して、御支配所の元締め松岡正平様・
上村井善平様・根本慎蔵様・石川政之進様・高木連之助様・お手代冨沢正右衛門
様の6名の方々へお礼に罷り出で、肴料を差し上げた。
もっとも、5月2日に口上をすでに申上げておき、同月18日に肴料を持参してそれ
ぞれ廻ってお礼をした。
因みに、他の支配替えとなっていた代官領も、全て元に戻して据え置くとのことで
ある。」どうやら、韮山の江川太郎左衛門さんからも直接勘定所に封書が出されたようで
すね。
で、その甲斐もあって、支配替えは中止。
作戦は大成功!・・・・となったようです。
いやぁー、良かったねぇ。農兵の献金や訓練がムダにならなくて。
代官所にとっても、支配地が変わってしまったら、またイチから農兵訓練をしなけ
ればならないワケですしデメリットが多かったのでしょう。
なのでこのように、支配地の領民と連携して見事なファインプレーが完成できたの
ですね。
まぁ、江戸時代というと「支配する方とされる方」という単純な立ち位置で考えがち
ですが、案件次第によってはその動向も変わるという、なかなか興味深い資料
だったと思います。

「八重の桜」での斉藤さんの扱いがとても気になります。
降谷健志さんが演じていますが、後に結婚(再婚)する高木時尾(貫地谷
しほり)や、明治以降も親交があったという山川大蔵(玉山鉄二)は主要
キャストですから、降谷斉藤さんもけっこう長く出るかもしれません。
ファンの方はご存じの通り、彼は斉藤一→山口二郎→一瀬伝八→藤田
五郎と名前を変えていきますが、この変遷がドラマで描かれるのは今回が
初めてになるのではないでしょうか。
昔の「新選組血風録」(栗塚旭・主演)なんかのドラマを見ると、斎藤さんを
左右田一平さんが演じてて、土方さんらと箱館に渡ったりなんかしてるんで
すよね。その当時は斉藤さんの年齢も行動も、よくわかってなかったのかなぁ、
なんて思います。
「波動砲、発射ッ!」

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こうして経緯を知ると、幕府が支配替えを打ち出した意図が不可解です。
一方、田無村組合の皆さんが「費用も労力も大変だから農兵やめちゃっていいよ」とは考えず
存続を望んで運動したことについて、興味深く思います。
江川英龍の死後、跡継ぎの英敏や英武、実務を担った手付や手代らが
英龍さんの施政方針を踏襲し実践していったのだとすれば、
それもまた英龍さんの人徳と仁政の賜であったように感じられます。
斎藤一の経歴が解明されてきたのは、それほど古いことではないですね。
司馬遼太郎『燃えよ剣』では斎藤一諾斎(秀全)と同一人物にされていましたが、
それを事実と信じる人が今でもいるようですよ。小説やドラマの影響力ってすごい(笑)
仰るとおりで、江川支配地での村々では農兵の義務や献金を払ってでも、その支配下で
ありたいと願っていたようです。前回書いたように献金がムダになっては困るという
理由の他に、代官所と村々の間に相当の繋がりがあったのではと推察します。
村の視点で見ると、多少賄賂的な金銭はかかっても、江川代官所であればある程度の
融通が利くということが、日誌を読むとわかってきます。
もちろん東屋さまの言われるように、坦庵時代からの仁政もあるでしょう。そこに村人の
計算高い強かさもプラスされ、代官所と村々の強い絆が出来上がったのかなぁと思って
います。
ところで、司馬遼太郎は斎藤一と一諾斎が別人だと知ってて、わざと同一人物として
書いたのか、それとも知らなかったのかどちらなのでしょう?
嘆願書くらいはなるほどと思いますが、張訴という方法は知りませんでした。勉強になります。
ワタクシも資料に当たるまでは知りませんでした。
当時の資料はいろいろなことを教えてくれます。
司馬遼太郎が「斎藤一と斎藤一諾斎は別人」と知っていたのか否か、
本人の証言を確かめたわけではありませんが、個人的には「知らなかった」に1票です。
両人とも、当時は経歴不明なところが多かった上、箱館参戦の誤伝がありました。
元隊士らが遺した名簿史料にも、別人と明確に判断できるものはないと思います。
何より名前が似すぎていて、誰もが同一人物?と勘違いするほどです。
また、『燃えよ剣』執筆当時、締切に追われて調査が及ばない面もあったようです。
(エッセイ「黒鍬者」に体験談があり、当方の過去記事『歴史と視点』で触れました。)
別人という可能性を考えたとしても、確信に至る証拠を入手できないまま
同一人物の設定で見切り発車になったのでは。
なるほど、やはりそうお考えですか。
確かに、仙台で離隊したハズの一諾斎が、函館から帰ってきたと佐藤彦五郎家では伝え
られていますし、実像を知らなかった可能性は高いですね。
名前だって、藤田五郎よりも斎藤一諾斎の方が、一さんの隠居後の名前っぽいですもん
ねぇ・・・。
しかし、ワリと一さんの知名度が高くなった今でも、一諾斎が同一人物だと思っている
人が多いとは・・・有名小説も罪ですねぇ。
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