将軍、上洛!

江川代官の支配地で農兵訓練が始まりつつあったその頃、歴史も大きな
曲がり角を迎えようとしていました。
第二次長州征伐です。
度重なる敗戦により、長州藩では上層部が幕府恭順に傾いていました。
池田屋事件や蛤御門の変などで、久坂玄瑞や吉田稔麿といった改革派の
リーダーも失っています。
ところが、ここで出てきたのが一人の奇人・高杉晋作です。
彼は一般庶民からなる軍隊「奇兵隊」を作り、これを使ってクーデターを起こし
桂小五郎らと共に藩の方針を反幕府に転換させました。
そこで幕府も再度、長州藩を討つべしと、まぁこーなったワケです。

長州藩再征伐の命令が幕府から出されたのは慶応元年4月のこと。
第一次征伐のときに、総督の徳川慶勝が参謀西郷隆盛の意見を入れて、
長州へぬる~い処罰しか与えなかったことに、幕府内ではずーっと不満が
ありました。
で、今度こそ長州をギッタンギッタンにしなくちゃイカン!ってんで、将軍自ら
出陣して総大将になっていただきたい、というリクエストが多く集まったんです。
新選組の近藤勇も、家茂の出陣を熱心に訴えていた一人です。
周りの期待に応えたいという気持ちが、誰よりも、ミスター長嶋さんよりも
強い家茂さん。将軍の長州征伐出陣が決定します。

将軍家茂さんが江戸を出発したのが慶応元年5月16日。
さぁ、このことがまたしても代官支配地に影響を与えることとなります。
5月24日、蔵敷村名主の杢左衛門さんは、田無村に滞在していた江川代官所
の手代・根本慎蔵さんから呼び出されました。
杢左衛門さんは翌25日早朝、早速田無村に出かけます。

「将軍様が長州へご進発されたことについて、幕府領一帯に献金のご沙汰が
あった。組合村々へ内論書の内容をじっくりと説き、速やかに献金する身分相応
の者は進んで請印し、名前と人数を書いて願い出るよう、相談し取り計らうよう
仰せ付けられた。野口村名主勘左衛門もお呼び出しくだされ、彼にも一応お話し
して頂きたい旨を申し上げたところ、即刻手紙を差し出し、同日夕方に出頭した
勘左衛門もお請け申上げた。いろいろと相談の上、委細を申し上げ、26日午後
出立し帰宅した。」


キターーーーーーーーッッ!!
世界陸上ッ!もとい、献金です。
将軍が自ら率いて行く正規軍の行軍費用を、民間からの献金に頼ろうってんです
から、勘弁してよと言いたくなります。ほぼ強制でしょ、コレ。
もう、幕府の金庫は底をついていたってコトですかね。
この献金要請は、全国の寺社、豪農商に出されたようです。

「 覚
この程長州ご征伐のことについては、禁裏に向かって発砲した容易ならざる事件
につき、将軍がご進発されたのである。ところで、近年幕府の財政は不用意の
出費がかさんでいる。これまで江戸城の火災、海防費用などにつき、国から受けた
ご恩をわきまえて天領の村々の者たちから上納金を納めてもらったが、将軍がご進
発されたこの度の事については、天下万民挙げて力を尽くさなければならないのは
もちろんの事である。昔より京都のご恩を受けない者はなく、ことに200有余年平和
に浴してきたのは代々の将軍様のご恩によるものである。そこで、何れの者も冥加
金を、その身分に応じてわきまえて早々に納めるべきことを、支配所村々の者たちへ
厚く申し聞かせ、趣意を貫き、話が進むように取り計らうこと。
右の通り、その筋より代官所へ言い渡され、ついては麦作検分を兼て、代官自身
が村を廻ったときにお話しされるとの伝達もあった。
すでに伊豆・駿河の支配地では代官が村を廻られるところ、場所が広大なので武蔵
・相模の宿村は自分に村を廻るよう仰せつけられた。大小の百姓銘々がその身の程
に応じて払うべき献金額を進んで出すように、その方たちより申し諭し早々に金額と
名前を取り調べ、申し立てること。

右のように根本様から仰せ渡されたことを一同承知いたしました。よって、請印を差し
上げます。」


では、蔵敷村組合ではどれほどの献金をしたのでしょうか?
「御支配所村々献金員数書上帳」には次のように記されています。
「  1両 清水新田     15両 後ヶ谷村
  21両 日比田村     21両 奈良橋村
   8両 宅部村      21両 高木村
 116両 南秋津村     16両 野塩村
  17両 廻り田村      2両 廻り田新田
  63両 粂川村      45両 野口村
  21両 蔵敷村
 都合金367両也。」


この金額は献金予定額であり、実際に集まったお金はやや少ない354両だった
ようですが、それにしてもよく集めました。
特に南秋津、粂川、野口など、東村山市域の村が多くの献金をしています。
南秋津村は太右衛門って人が一人で100両も献金してるんで、こんな多額になって
ますが、彼は農兵を作る際にも個人で100両を献金した人です。いや~、ある所には
ありますな~。

長くなるので詳しくは書けませんが「里正日誌」にはこの時の江川代官領全体の献金
額が書かれています。その金額は4847両だったそうです。
蔵敷村組合以外では、東大和市域では芋窪村が唯一入った拝島村組合は827両の
献金。近くでは青梅村組合が400両、日野宿組合が624両、八王子組合が1696両
の献金をしています。
幕末期の代官支配地の村々って、けっこうお金あったんですね~。
お上が彼らの懐(ふところ)をアテにしたい気持ちもわかります。

さて、5月16日に江戸城を出発した家茂将軍は、ややゆっくりめのペースで東海道を
西に進みます。
そして24日、駿州の吉原宿で江川農兵の調練を視察していきます。
多摩地域には直接関係ないんですが、あまり知られてない話ですし、「里正日誌」に
記録されているのでご紹介します。

「(略)この度長州をご征伐のため、公方様は当丑5月16日江戸城を立たれご進発
遊ばされた。5月24日駿州吉原宿へ、お代官・江川太郎左衛門様御警衛として、
駿河・伊豆の農兵400人をお連れ立ちになってその筋へお申立てなされたところ、
将軍がその話を聞かれ、農兵の調練を明日ご上覧遊ばされると仰せられたので、その
用意を致し、24日雨中に富士川の河原において農兵調練をご上覧遊ばされたところ、
将軍の御意に叶い、お代官江川様に直接、心を込めた上意があった。御紋付、御提物
、引胞のお品2品を拝領仰せ付けられた。農兵の中にも苗字、あるいは帯刀御免になる
者もいた。当お代官様は御年が13歳である。お家柄とは申しながら英才のお代官で、
恐悦至極有難いことである。」


将軍がとても喜んで、江川英武代官に御褒美をされたほか、農兵の中からも武士の
待遇を許された者があったことが書かれています。これは、実際の訓練上達度もある
でしょうが、献金が多かった者だったんじゃないかなぁと思います。いかかでしょうか。

ま、こんなワケで支配地の献金に頼った将軍の長州ご征伐。
こーして考えると・・・
糸井重里サン、やっぱり赤城山中に徳川埋蔵金なんて残ってないワ・・・。

20130704.jpg

家茂将軍が長州征伐に向かったその頃、一人の土佐藩士が獄門の露と消えました。
京都市中で「人斬り」と恐れられた岡田以蔵です。
武市半平太の土佐勤王党に加わるものの貧困層の出身だったために学がなく、暗殺
専門の仕事しか与えられず、獄に入ってからは口封じに毒まんじゅうを食わされそうに
なったのでそれを恨み自白した・・・ていうのが一般的な以蔵さん観ですね。
でも、これらはみな小説に書かれたフィクションで、実際の以蔵さんは一般的な郷士層
の出身で教養もそれなりにあったそうですし、暗殺も仲間との協議の上で実行していた
ようです。また、代名詞の「人斬り」と呼ばれたこともありませんでした。
しかし、彼の自白により土佐勤王党が壊滅したのは事実であり、地元でも慰霊祭が行わ
れることはなかったそうなんです。が、大河ドラマ「竜馬伝」でイケメン・佐藤健クンが以蔵
を演じてイメージアップ!人気上昇で慰霊祭も行われたそうです。
歴史上の人物も、イケメンに演じてもらうもんですな~。
昔ね、「新春スターかくし芸大会」でジュリー(沢田研二さま)が龍馬を演じた「竜馬がくる」
ってミニドラマを放送したことがありましたんですよ。
その作中で岡田以蔵を演じていたのは内田裕也でした。シェゲナ・ベイベー。
なので、ワタクシの中で岡田以蔵ってゆーと、ロッキンロール裕也なんですナ。

あ、ジュリーは「幕末青春グラフィティ 坂本龍馬」では佐々木只三郎役で、武田鉄也の
龍馬を斬る方も演じてますね。ダ~リ~~ィン~♪


ポチっとな
スポンサーサイト

トラックバック一覧

コメント一覧

#286
 この当時の江戸周辺の村が多くの献金ができるようになった背景に、ずっと関心を持ってきました。とうてい結論は出せないのですが、
 隣村中藤村の指田日記に、慶応元年5月
10日、・・・。四文銭を買い来る、五〆三百文を金三両に売り渡す
11日、銭買い、所々より多く来る
13日、・・・。寛永の四文・一文・十二文、文久の四文・一文・八文、銅小銭四文、寛永の文銭六文宛(あて)通用の由
 という記事があります。このことから推測すると、相当に進んだ貨幣経済下にあり、しかも、通過の質と差益を追求する金融システムの原初が存在することに気づきました。参考までに、記します。
 野火止用水
#287 野火止用水さま
仰るように当時の資料を読むと、当時の人々の経済センスは驚くほど高度です。
また、それだけの貨幣経済に順応できるだけの環境が農村にもできていたんだという
ことは、驚きでもあります。
江戸時代の農村は作物だけを作っていた・・・というイメージは、もう払拭した方が
いいのかもしれませんね。
#288 目標達成?
日野農兵組合の献金額624両は、農兵取立上納金と同額です。
佐藤彦五郎の日記に「献納金高之義ハ農兵ニ付」とあるところを見ると、
偶然ではなくそのように取り決められたのでしょう。
さらに「Let's農兵 献金要請!・・・ご褒美つきでネ」にてご紹介の献金額と比較すると、
拝島組合、青梅組合、八王子組合もそれぞれ同額ですね。
その線で考えると、蔵敷組合の354両も充分な額だったのではないでしょうか?

ちなみに5月15日、彦五郎は用事で出府し、定宿・和泉屋に宿泊しました。
その日の江戸は諸方から人が集まり、和泉屋にも100人余の客がいたそうです。
彼らの目的は、翌日の大樹様御進発の御行列を拝すること。
民衆はかつてないことに大興奮し、勇壮絢爛な武者行列を見送ったんでしょうね。
#289 東屋さま
仰るとおりですね。
ただ、各村々がこれだけの金額を計算できるだけの経済力をつけてきている、という
状況にやはり驚きます。

当時は江戸城に登城する大名の行列も、江戸観光の一つだったようですから、将軍の
行列ともなれば民衆は大きな関心を寄せたことでしょうね。興味あるエピソードを
お聞かせいただきありがとうございます。

コメントの投稿

名前

タイトル

メールアドレス

URL

本文

パスワード

非公開コメント管理者にだけ表示を許可する