Let's農兵 村の訓練場

農兵の実弾射撃訓練は、代官所からのセンセイを迎えて田無村で行われましたが、
いつまでも合同訓練をやっているわけにもいきません。
センセイも忙しいし、農兵たちにも仕事があるし、ね。
今後はそれぞれの組合が地元に帰り、日々訓練を重ねなければなりません。
小さなコトからコツコツとー。西川きよしでございます!

きよし師匠に「なんば花月」があったように、蔵敷村組合にも日常的な訓練ができる
ホームグラウンド、つまりは専用の演習場が必要になりました。

「7月1日、野口村(東村山市)正福寺へ組合村の村役人が集まった席に、恒吉と
後ヶ谷村の勘左衛門の両人が持参し、一同話し合った。その結果、野口村には
訓練場となるような場所が無いので、蔵敷村の中で決めていただきたいと野口村
名主勘左衛門殿が申し出られた。他の村々の村役人たちも一同、同じことを申さ
れるので他の案はなく、蔵敷村内へ訓練場を作ることを請け入れた。このことにつ
いては明日2日、各村の村役人たちが蔵敷村に出てきて、場所の検分をするとい
うことを取り決めて一同帰宅した。

7月2日、蔵敷村名主杢左衛門宅へ来た者の名前
後ヶ谷村名主 平重郎、奈良橋村組頭 定七
宅部村名主  半兵衛、野口村組頭  冨右衛門
粂川村組頭  宗兵衛、南秋津村組頭 仲右衛門
   名主 杢左衛門

この7人が検分した結果、村方百姓の銀右衛門が持っている畑の内、字山王塚
下々畑およそ3反歩の所
が、訓練場としての的撃ち等の場所として適当
であると一同話し合いの上取り決めた。土地の使用料として1年につき金2両を組合
高割で負担し、地主へ渡すことを取り決めた。

   名主杢左衛門宅より南の方角に、訓練場までおよそ5町(545m)あまり。」


蔵敷村組合は11ヵ村で構成されていました。そのうち蔵敷村、宅部村、奈良橋村、
高木村、後ヶ谷村の5ヵ村は現在の東大和市域ですが、野口村、廻り田村、南秋津村、
粂川村の4ヵ村は現東村山市。残る2ヵ村のうち野塩村は清瀬市、日比田村は所沢市
です。
距離的なことだけを言ったら、やっぱり正福寺のある野口村が中間地点で一番都合が
いいんじゃないかと思うんですがね。
一方蔵敷村は、この組合の中で最も西にあります。野塩や日比田からは一番遠いん
ですが、それでもみんな蔵敷村に訓練場を作ってくれって言ってます。
蔵敷村は組合の代表ってことはあるでしょうが、「銃をブっ放すような物騒なトコロはオラ
の村には作りたかねェだ!」ってのが、各村の本心なんじゃないでしょうかねぇ。

で、決まったのが蔵敷村銀右衛門さんの畑です。
積極的に土地を差し出したとは思えないので、銀ちゃんには気の毒です。でも下々畑
3反(900坪)が年2両になるんだから悪い話ではなかったかもしれませんな。
この訓練場を描いた麁絵図(あらえず)が、杢左衛門さんから代官所手代の増山鍵次郎
さんに提出されています。麁絵図ってのは村の概略を描いた絵図面のこと。
これが「里正日誌」にも残されていますので、ご紹介します。
ただし、そのまま載せちゃうとさる筋から怒られちゃうかもしれないので、ワタクシがわかり
やすく描きなおしたものをお見せいたします。

蔵敷村習練場麁絵図

絵の下方に描かれているのが道路です。杢左衛門さんの屋敷から南下してきた道が、
山王社で二又に分かれます。その先が銀右衛門さんの畑で、ほぼ四角に囲まれた
土地が訓練場になった区域ということですね。
北西の角に台形の絵がありますが、これは土を盛って作った土手です。高さは1丈
3尺(3m90cm)、幅は底辺で3丈(9m9cm)あったようです。さらにその中に描いて
ある四角は弾丸除けで、大きさは高さ4尺(1m20cm)、幅6尺(1m82cm)、奥行き
3尺(91cm)、栗の木で作られたとのことです。ちょっと狭いかなぁ・・・。座って待ってる
カンジですかね。

この場所が現在どーなっているのか?
それも、ご紹介いたしましょう。

080a.jpg

道路の先に木が生えている場所がありますね。ここが「山王社」です。ここで道が二又
に分かれているのは当時のままです。

082a.jpg

山王社です。
三方を道路に囲まれて、ポツンと残ってます。

081a.jpg

説明板が立っています。

083a.jpg

この辺りでバンバン撃ってたのでしょうか。
現在は団地になってます。

東大和市史によれば、毎月五ノ日(5、15、25日)と十ノ日(10、20、30日)の
6日間ずつ、この蔵敷の訓練場で稽古を行うように、村役人・農兵たちで取り決めた
とのことです。
こうして、農兵訓練は、教示方が派遣されてそこへ通う特別訓練と、地元で世話人が
中心となって指導する日常訓練の二本立てで行われていたんですね。
これから暑くなる季節のこと。重い銃を担いで大変だなぁー。
ホラ、山王社でセミが鳴きはじめました。

「ツクツクボーーシッ、ツクツクボーーシッ!!」
西川のりおでございます!

20130622.jpg

沖田さんの病気が悪化したのは、正確にはもう少しあとの慶応3年(1867)秋頃では
ないかと言われています。それまでは、けっこう戦闘場面に出動していますので。
しかし、それ以前からも体調の良くない時は多かったのではないでしょうか。
沖田さんという人、剣の腕前は相当のモノだったのでしょうが、身体の方はあまり
頑丈ではない・・・というか、体調を崩しやすかったり、病気にかかり易い体質だったの
ではないかと思います。
池田屋事件では昏倒して運び出されます。貧血と言われていますが、熱中症や過呼吸
になったとも考えられます。
また、江戸にいた頃には麻疹(はしか)にかかり、周りの者が命の心配をしたことも
あったようです。
ワタクシの知り合いにもいるのですが、スポーツ万能なんだけれども、なかなかベストの
コンディションを作れない、そういう人。
沖田さんって、そんな人だったんじゃないかって、思うんです。



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コメント一覧

#282 源さん家の菩提寺で
訓練場を設置した経緯と詳細な絵図面がちゃんと記録に残っているのは、とても貴重ですね。
跡地の現況を併せてご紹介くださっているのも大変興味深く、ありがたく存じます。

日野宿の場合、慶応元年2月の組合合同訓練に宝泉寺の境内を使い、
次いで宮子久兵衛の持田でも鉄砲調練を行ったことが、彦五郎の日記にあります。
また、同年12月には近郷近在の村々へ見廻りに出かけています。
これは防犯パトロールと示威行動を兼ねた行軍訓練だったのではと思います。

それにしても、かっしーの奴、要らんことをほざきますな(笑)
#283 東屋さま
宝泉寺の境内は、江戸時代には相当広かったようですから、訓練にはもってこいの場所だったで
しょうね。もう少し時代は下りますが、甲陽鎮撫隊の直前に横浜で買ったミニエール銃を、谷戸
という場所で試し打ちしたと、谷春雄氏の本で読んだことがあります。日野市役所の近くらしいん
ですが、そのうち確認してみたいと思っています。

かっしーは、ワタクシの中で「ちょい空気の読めない熱血教師」みたいなイメージがあるんですが、
どーでしょう?
#284 当初は、野口村萩山にもあった?
 詳細な紹介有り難うございます。書かれておられるとおり、調練場がなぜ西に偏しているのか、なぜ、蔵敷村に設けられたのか、ずっと疑問に思ってきました。
 その謎解きに役立ちそうな資料として、まだ出版されていない『文久里正日誌』に、野口村「萩山調練場」の書き込みのある絵図があります。これらを基に調べると、その謎解きができるかもしれません。野口村の名主が蔵敷村論を言い出した背景を含め、解明したいものです。調査結果を楽しみにしています。
 野火止用水
#285 野火止用水さま
蔵敷村に調練場が設けられた背後に、何か特別な事情があるのだとすれば、ぜひ知りたいですね。
「文久里正日誌」、ホントに早く出版して欲しいものです。

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