Let's農兵 鉄砲撃ちます!

いよいよ江川代官所から鉄砲教示方を迎えての、本格的訓練が行われることと
なりました。
期間は慶応元年6月13日から30日間。場所は田無村で、各村合同で行うことに
なったようです。そうそう、この年の4月18日に改元されて、年号が元治から慶応に
改まっています。慶応って聞くと、なんかもう、手が届きそうな時代ってカンジがして
きますね。
田無村の西光寺(現・西東京市総持寺)に代官手代の増山健次郎、鉄砲教示方の
岩嶋廉平の両人が逗留していたので、訓練もそこで行われたのでしょう。

前回のブログで「稽古に当たっての規則」をご紹介しましたが、今回の田無村での
稽古に先だっても、さらに細かい「規則書」が出されています。

「一、銃は不思議な成功をもたらすものであるが、またほんの少しの過ちで災難を生む
   こともある。よって火薬の出し入れや銃の取り扱いを始めとして、銃の置き場所
   も慎重にし、失敗のないようにすること。
   たとえ空砲でも、銃口を人に向けないこと。
 一、自分が銃の扱いに上達しても、意志がしっかりしていない者は実戦には役立た
   ないものである。名声や形に拘らず、真剣な修行を心掛けること。
 一、稽古中は雑談無用。規則にはずれた行動をした者は階級を下げ、程度によって
、   は処罰もあるのでよく心得よ。隊列を組んだあとは実戦と思って修行すること。
 一、鉄砲、付属の品々は大切に取扱い、手入れも決して疎略にしないこと。
 一、礼儀正しく、謙遜を専らに心掛け、良くないと思ったことは正直に言うこと。陰で
   人の良し悪しや、技術の巧拙を話したり、自慢したり、初心者を侮らないこと。
   他の組合の訓練を誹謗することのないよう心掛けること。非常時には互いに応援
   することになるので、常に同じ組合のように懇意にしておくこと。
   訓練の議論や人々に意見を言うときなど、怒らないようにすること。怒ると不敬な
   言葉も出やすく、自分に理があったとしても相手が納得しないこともあるので、注意
   すること。
 一、弁当は兼ての通り、握り飯・香の物・味噌か梅干しに限る。その他酒肴はもちろん
   菓子を持ってきてはいけない。
 一、稽古着はなるべく有り合せのものを使い、質素を第一に心掛け、異形や着飾ったり
   は決してしないこと。
 一、訓練の行き帰り、東海道はなおさらであるが、通行人の邪魔にならないよう心掛け、
   命令的な言動をせず、粗暴なふるまいをすることなく、穏便神妙に行き来すること。
   稽古着のまま物見遊山に行ってはいけない。
 一、隊伍役掛りの心得については追って通達するので、それまでは教示方の指示に
   従うこと。
 一、弾薬の管理を怠らないこと。
 一、世話掛りと村役人たちの言うことに逆らわないこと。
 一、道中を通行する幕府の役人たちが訓練を視察に来ることもあるので、不敬のことが
   ないよう気を付け、視察が済み次第報告すること。
 一、火の用心については、爆薬を取り扱うのであるから、特に念入りにすること。」


ちょいと長くなっちまいましたが、「そーとー細かいコト言ってるね」ってのがお判りいただけ
たかと思います。
弁当についてはまだ言ってますね。オヤツもダメだそうです。
私の小学校時代、遠足のオヤツの規定金額をオーバーしちゃった友達が、「これはオヤツ
じゃなくてオカズです!」と「都こんぶ」をおむすびと一緒に食べてましたけど、コレもアウト
でしょうね。

この後、さらに「申渡書」というものも出されていますが、これは宿村役人用と農兵たち用と
分けて出されています。宿村役人へは、「規則書」の条目を高札に書き出し、五人組帳の前
書や天保以来の江川英龍の改革の趣意書と一緒に張り出して、農兵たちに読み聞かせる
ように書いてます。
そして農兵たちには、宿村役人や世話掛りの指示に従うよう書かれてあり、お上の念の入れ
ようがわかります。

田無村での稽古からは実弾射撃が行われるということで、6月3日には代官所手代の増山
健次郎より「火入稽古致候もの心得」が出されました。

「一、実弾射撃訓練をする者は、銃と胴乱その他付属の品々を大切に取り扱うことはもちろん、
   不作法なことがないよう厳しく心付けること。
   稽古が済んだ後は、銃・胴乱とも数を改め、破損があるようなら申し出ること。
 一、実弾射撃訓練は熟練の進み方によって指導するので、勝手に発砲したり管打ちしたり
   決してしないこと。
   但し不発弾などがあったときは、そのことを報告し、指図を受けること。
 一、火薬を取り扱うときは、火道具(タバコ・蝋燭など)のない所で行うこと。
 一、銃の洗い方は、稽古終了の後に参加者全員で念入りに掃除すること。
   但し銃を分解したり組み立てたりするときは、恒吉・勘左衛門・九郎左衛門・長吉・啓蔵
   ・太右衛門、このうち一人が付き添って行い、勝手に分解してはならない。」


銃の分解・掃除まで行っていたことがわかります。
恒吉さんは蔵敷村名主・杢左衛門さんの弟ですが、勘左衛門さんは後ヶ谷村名主、九郎左
衛門さんは廻り田村名主、啓蔵さんは蔵敷村組頭の弟、長吉さんは奈良橋村名主見習い、
太右衛門さんは粂川村年寄倅という人たちです。
彼らは稽古参加者であると同時に、各村々の指導者という立場であることがわかります。
恒吉さんが新銭座の訓練に参加していたように、他の人たちも農兵幹部候補生の教育を
受けたんでしょうね。ちなみに年齢は長吉さんが一番の年長で34歳。年下は太右衛門さん
で21歳です。
こうした世話掛りを除いても、実弾射撃訓練参加者は最高齢で38歳。最年少は15歳で
ほとんどが20代以下の人たちでした。かなり若い人たちが受けていたんですね。

20130616.jpg

「新選組の伊東コウシ太郎がさ・・・」
「ちょっと待ってよ。アレはキネ太郎って読むんでしョ」
・・・正解はカシ太郎です。

近藤さんの強い要請で新選組に加入、参謀までに取り立てられた男、それが
伊東甲子太郎さん。
しかし、このセンセイ一派を入れたことが、新選組が凋落していく第一歩だったの
かもしれません。
ちなみに伊東大蔵の名前を「甲子太郎」と改めたのは、彼がタイガースファンだった
からではありません。もちろん、名付け親がダンカンだったからでもありません。
彼が上洛した元治元年(1864)の干支が甲子だったからです。
この時代の政治の中心は京都。いよいよその京都へ乗り込むのだ、という伊東
さんの強い意気込みがこの名前に現れているのですな。



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コメント一覧

#274 そうだったのですか!
干支が甲子だったから!?だからキネ太郎か。って違いますね?(笑)
稽古規則が大変に細かいので、私は稽古に参加できそうにありません。
会津の什の掟といい、元来、日本人は規則を作るのが好きなのでしょうかね?
#275 kitacoさま
農耕民族ですから、集落や村のような単位でないと生産性が上がらないので、ルール作りが
第一という国民性ができたんじゃないでしょうか?

ただ、時代が変革を求める時にはルールが足かせになることもあるようで・・・。
会津など「什の掟」を頑なに守り過ぎて、自らを滅ぼした感がありますね。
#276 せい!せい!
マニアックな質問ですが、伊藤大蔵の剣の掛け声「せい! せい!」は正しいの?
御陵衛士の新撰組が待ち伏せしているとわかって遺体を引き取りに行くところなんか、何か私の心を揺さぶります?

市川団十郎の表象文化論、いかがでしたか?
#277 極骨!さま
いやぁ・・・ソコを突いてくるとは!v-160「せい!せい!」
これはあくまで、マンガ的表現と理解してください。

團十郎、読みました。そのお話はまたお会いしたときに!
#278 用心の上にも用心
規則書の念の入りよう、恐れ入りました。
やっと実現した農兵制度、何か問題が起きたら中止になりかねないので、
江川代官役人はもちろん世話掛たちも細心の注意を払ったのでしょう。

考えすぎかもしれませんが、農兵取立を身分解放の端緒と期待する農民(急進派)、
そうはさせじと神経を尖らせる幕府、お上を刺激すまいと用心する農民(穏健派)の
三つ巴みたいな構造が、規則書の裏に透けて見えるような気もします…

間違い探しは「上洛」もですか? 当時は高位の人物にのみ使われたようですね。
「甲子」は干支の最初で縁起がよい、という意味もあったと思います。
もし上京が他の年だったとして、「癸亥太郎」「乙丑太郎」とは名乗らなかったんでは(笑)
#279 費用は全部村持ち
 弁当などに事細かく言うのは、おそらく村方から江川事務所に申し入れがあったことも起因していると思います。なぜなら、東大和市内野文書などから調練にかかる経費は全部村持ちだったと推測できるからです。やがて、慶応2年になると更に徹底されて、組合村を小分けにして、小組合を構成し、調練はその小組合ごとに行われています。
 東屋様が書かれて居られる通り、この頃になると村には様々な考えの若者が現れているように思われ、また、騒動も起こり、両面から身近な小規模訓練に移ったようです。調練指導者も村内から選ばれるようになり、例えば、隣村の中藤村では大総代の砂川村源五右衛門が総括をしています。 野火止用水
#280 東屋さま
「上洛」のご指摘、ありがとうございます。不注意に使ってしまいました。

ご指摘の通り、農兵の中心となったメンバーは明治に入ってから、自由民権運動の活動を
している人たちがいますので、この農兵策は軍事上の側面だけではない見方をすることも
できると思います。
むしろ、後世への影響を考えると、そちらの方が大きいかもしれませんね。
#281 野火止用水さま
「里正日誌」を読んで気づくのは、ご指摘の通り、いろいろな命令が村に下る中で、その
経費は全て村が負担しなければならないという点ですね。
特に幕末期、農業以外の負担が増えた多摩地域の村々では大変だったことでしょう。
しかし、その影響もあってか、次第に巧みな交渉術を身につけてくる名主や組頭たちの
姿も見て取れ、非常に興味深い時代であると思います。

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