Let's農兵 隊伍仕法と新銭座調練場

東大和市域からは、蔵敷村や後ヶ谷村など5ヵ村が上新井村組合に、芋窪村の
1ヵ村が拝島村組合に、農兵のため新たに編入されました・・・ってのが前回まで
のお話。
「農兵」と一応は軍隊を名乗るワケですから、ただ人を集めりゃいいってもんじゃ
ありません。軍としての機能を発揮させるべく、それなりの編成が必要ですよね。

農兵の組織については「隊伍仕法」という軍規が定められたようです。
①農兵25人をもって1小隊。そのうち5人は、懸り役人。
②鉄砲は高嶋流小筒(8匁・6匁)と付属の胴乱管入共に貸渡す。
③胴服立付等は銘々が用意し、異形はさける。
④小隊ごとに小旗を使用。
⑤五卒組は一組5人、うち1人は小頭役。
⑥差引役一組に1人。目付役の役割で兵卒の行跡、善悪ともに組頭役へ報告
⑦什兵組頭一組に2人。什兵の善悪を判断し、命令する。
⑧小隊頭取一組に2人。うち1人は頭取並とする。兵卒の邪正を判断し、上部へ
報告する。一隊の取締りの責任者である。


これによると、5人一組が最少単位で五卒組と呼んだようです。
什兵組頭というのは、たぶん什長(10人の隊の隊長)のことでしょう。なので、
1人が五卒組2組を管理していたのだと思います。
平隊員20名に管理職の頭取、頭取並、什兵組頭、差引の5名、計25名が
1小隊として活動したというわけですね。

「けど、オラたち今まで鍬持って畑を耕してたんだど。いきなり
農兵やれとか言われても、ナニやっていいのかわがんねェ」


そりゃそーだ!ごもっとも!
てことで、元治元年(1864)9月26日から、各組合村の農兵代表者が江川代官所
に呼ばれて訓練を受けることになりました。
6組合10ヵ村から11名が参加しましたが、参加者はいずれも名主・組頭・百姓代の
本人ないし倅か弟といった人たちで、村役人層でした。つまり、これは農兵隊の幹部
教育だったんですね。
東大和市域からは、蔵敷村の内野恒吉さんが参加しています。彼は名主・杢左衛門
さんの弟です。
訓練の場所は、芝新銭座の江川家の調練場です。英龍さんが亡くなった後、代官を
継いだ息子の英敏さんに幕府が与えた場所ですね。もっとも、その英敏さんも文久
2年(1862)に亡くなっていますから、この時は弟の英武さんの代になってますけ
どね。
現在のJR浜松町駅の辺りです。

どんな人が恒吉さんたちに訓練をしたのかといいますと、それはやはり英龍門下生
でしょう。東大和市史によると、このときの鉄砲方附教授は9人。その氏名は山田
清次郎、安井晴之助、長澤房五郎、森田留蔵、中村惣次郎、中村小源次、田那村
淳、斎藤四郎助、岩嶋廉平となっています。
そして、その中から中村小源次、森田留蔵の2人が農兵教示掛りだったそうです。
この森田留蔵さんは咸臨丸での渡米を経験し、帰国後はこのように鉄砲方附教授
や将軍家茂上洛の供奉を務めました。明治に入ってからは、岩倉使節随行の留学
生となり、アメリカ海軍を学んだという人物です。
当時の最先端を知っている人たちから教えてもらってたんですね。

で、この新銭座調練場は英龍さんの「韮山塾」と同様の方針で稽古が行われたと
いいますから、「調練場規則」や「稽古刻限規則」といったルールが指示されていた
そうです。

「調練場規則」
一 塾では禁酒。互いに礼儀厚くすることを心掛け、不作法無きように致すこと。
一 火薬の取り扱い方は教示方の指図を得て、過ち無きように敬慎第一とすること。
一 外出は行先を塾頭に届け、帰塾は夜五ツ時(20時)を過ぎてはいけない。
  宿泊、または帰郷の時は塾頭を介して教示方に申し立て、指図を受けること。
右のことを堅く守ること。

「稽古刻限規則」
一 毎朝 朝五ツ半時(9時)開始、八ツ半(15時)終了。
  但し、稽古を始めるときは稽古場において合図の笛を吹くと直ちに揃っている
  ように心得ること。
  雨天のときは、当分の間は休日とする。
一 4と9のつく日は休日。
右の通り定めるものである。


調練は9月26日に始まり、11月12日までの48日間行われました。
稽古を受けた11人は調練が終了する一週間ほど前に、農兵の世話役・世話役介
の役職が任命されました。蔵敷村の恒吉さんも世話役介になっています。
こうして新銭座調練を卒業した彼ら村役人たちは、それぞれの地元で小隊の訓練
を指揮したんでしょうね。

ん~・・・48日間の訓練でどれくらいのスキルが身に付くのかわかりませんが・・・。

20130516.jpg

新選組は市中見廻りを4~5人の小隊で廻ったといいます。
敵が潜伏していると思われる場所に斬りこんで行くのは、非常に危険で、
特にその先頭を勤めるのはとても勇気のいることです。
そこで、小隊の中でローテーションを作り、真っ先に突入する役目を
「死番・死に番」と呼んだのです。
今日「死番」だった者は明日はローテーションの最後に回り、今日2番手
だった者が明日の「死番」になるという仕組みです。
「死番」の隊士は、その日の朝から自分が突入役だと覚悟ができている
ので、ひるまずに行動できたといいます。

ところで

5月11日は土方歳三さんの命日でした。
歳三さんのお墓のある日野市の石田寺では、12日に「歳三忌」の法要が
ありましたので、私も行ってまいりました。

DSCF6001 a

ここが、石田寺です。
樹齢400年を超すと云われるカヤの巨木が目印。
多摩都市モノレール「万願寺駅」から歩いて5~6分でしょうか。

DSCF6002 a

法要は11時からで、私は15分くらい前に着きました。
もう、境内は若いギャル(と、そうでないギャルも一部)満載です。
やっぱ女性にモテモテですね、トシさん。
女子大と宝塚、それに歳三忌の石田寺。これが日本の三大ギャル群生地でしょう。

DSCF6006 a

和尚様の読経が始まり、御焼香です。
ワタクシもホラ、こんなブログ書いてるワケで・・・ちゃんとご本人に断らないといけない
ですよね。
歳三さんのご冥福をお祈りするとともに、ブログの許可を勝手にいただきます。
「本文はまぁいいけどさ、マンガの方なんとかなんねぇの?」
トシさんの声が聞こえた・・・ような。

DSCF6007 a

法要が始まって30分ほど。
もう門前は長蛇の列でした。
ワタクシはこのところ毎年、歳三忌に参列させていただいているのですが、年々
参列者が増えているような気がします。
今年は新選組結成150年ってことで、それもあるのかな?

この日は日野市本町や市役所前では「新選組祭り」があったんですが、ワタクシ
前日に雨の中を傘もささずに都内を歩き回ってたもんですから、疲労があって・・・。
そのまま帰りましたとサ。


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コメント一覧

#247 トシちゃん・・・
さすがの人気ですなあ!カッコイイですものねぇ。
イッセーさんのマンガは面白すぎるので、トシ様もすっかり愛読されていることでしょう(^ω^о)

この度はご心配ありがとうございました~!
やっとお邪魔できました^^
イッセーさんもお体にはお気をつけくださいませね。
#250 kitacoさま
5/18は箱館戦争終戦日です。
ってことで、函館市でも土方歳三コンテストをやって、本日19日にパレードする
みたいですよ。

ご平癒、安心しました。
お互い、病気自慢にならないように気を付けませう。
#251 5月11日・12日
多摩モノレール駅で入手した、沿線地域のイベント紙Tama Mono の紹介記事に、5月11日・12日は、第16回ひの新撰組まつり。新撰組副長 土方歳三のふるさと日野が盛り上がる! パレードやコンテストが開催されますとなっていました。
#252 Junpeiさま
そうなんですよ!
この両日は日野駅前や市役所前は、浅黄色ダンダラ羽織を着た人たちでいっぱいです。
やはり女性が多いですね、コスプレ系は。
#253 教官出張も
「隊伍仕法」「調練場規則」「稽古刻限規則」、具体的で大変興味深いです。

日野宿では、元治元年10月27日「御役所」から農兵10人を差し出すよう指示がありました。
29日に出府し11月3日から訓練を開始したものの、月末には終了した様子です。
なお翌年2月20日、柏木総蔵、三浦剛蔵、長沢房五郎が日野宿に来ました。
翌日から組合村々の農兵参加による西洋流鉄砲調練を開始し、3月15日まで続けています。
さらに翌々慶応2年2月にも、長沢房五郎が出張して調練を行っています。

歳三忌の参加者、女性の比率が高いものの、男性もけっこう来ていたと見受けました。
墓前法要と講演会を合わせての感想ですが。(ひの新選組まつりのほうは存じません。)
8日のBS-TBS「日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒」で、童門冬二が
「土方歳三のファンは、中学2年から高校2年の女の子ばっかり。大学受験が近づくと
皆どっか行っちゃう」とか言ったそうですが、現場を見てのコメントとは思えません(笑)
#254 東屋さま
「籬蔭史話」(聞きがき新選組」には、日野宿には江川代官所から春秋二回に3教官が
派遣され、オランダ式操銃練兵術を教育されたとありますね。
日野宿の農兵に対するモチベーションが高いのは、わざわざ横浜まで銃を買いに行って
いることですね。資金があればこそできることですが。

私は墓前法要だけで、その後「土方資料館」に寄りました。女性率高かったですよ(笑)。
でも中2~高2ってカンジではなかったなぁ。もちろん、そのくらいの方もいましたが、
20代の女性が中心だったような気がします。
で、ロックっぽいファッションの女性ファンがけっこう目につきました。
土方歳三はロックなんでしょうか!?
#256 二度も失礼
日野農兵隊の調練、『今昔備忘記』に「代官江川より砲術の師春秋二回派出」云々とあり、
それが『籬蔭史話』にも引き継がれているのでしょう。
ただ彦五郎の日記を見ると、必ずしもその限りではなさそうなところもあります。
教官出張の有無にかかわらず、調練はしていた様子ですが。

また彦五郎の日記などによると、横浜から元込筒20挺を購入したのは慶応4年1月です。
(その前は、江川役所から支給されたゲベール銃を装備していたようです。)
近藤・土方から鳥羽・伏見戦争や主戦論について聞いた彦五郎らが、
近く出陣命令が下ると予想し、ゲベールでは戦えないと考えてのことでしょう。
いずれにしろ、日野宿の農兵活動が活発だったのは間違いないと思います。

12日、土方資料館には当方も行きました。
同日同地域でも、ひの新選組まつり、歳三忌、土方資料館開館はそれぞれ別イベントなので、
参加者層もいくらか違うのでは。
ちなみに勇忌と総司忌も、男女比は女性が優ってますね。
#257 東屋さま
度々ありがとうございます。

ワタクシ、昨年は市役所前の「新選組まつり」会場に行きました。
まぁ、出店を回って食べ歩いただけですが・・・(笑)
こちらは、けっこう親子連れみたいな方が多い印章でした。

#258 韮山笠に洋服姿で芝新銭座へ?
 東大和市蔵敷の内野家に、当時の農兵の衣装が保存されています。韮山笠を頭に、筒袖、脚絆姿の一行が目に浮かび、それは、幕府軍と同じようで、さぞ道中、目を引いたことと思います。どのように行く先々で人々の目に映ったか、その道筋と共に知りたいものです。野火止用水
 
#259 野火止用水さま
韮山笠の実物は日野で見ましたが、東大和の農兵隊服はぜひ見てみたいものです。
当時の歩兵の服装は洋服と和服の折衷で、なかなか面白いですね。
芝新銭座で、村民たちは訓練の他どんな生活を送ったのか、ぜひ知りたいですね。
#260 はじめまして
こちたろう日記のこちたろうです。訪問ありがとうございました。つたないブログですが今後とも、よろしくお願いします。


http://dream3492.blog.fc2.com/ こちたろう日記
#261 こちたろうさま
こちらこそ、よろしくお願いします。

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