江川農兵設置される!

江川太郎左衛門英龍さんの死後、跡を継いだ息子の英敏さんは引き続き農兵の
設置を建言し続けますが、この英敏さん、文久2年(1862)8月に23歳の
若さで亡くなってしまいます。
12月に代官職は英敏さんの弟で英龍さんの五男・英武さんが10歳という年齢で
継ぐことになりました。

その年の8月に薩摩藩が「生麦事件」をやらかしちゃいます。怒ったイギリスは翌年
2月に軍艦8艘を横浜に入港させ「この責任は幕府がとれや、ゴルァ!」と恫喝。
戦争になるかもしれないゼ、ってんで江戸から疎開する人たちが大勢地方に逃げ出し
ます。「ヤバイよ、ヤバイよ」(by 出川)。
そうすると、そういった避難民の家財などを狙った強盗集団が横行してきます。
多摩地区などは距離も疎開地としてちょうどイイカンジの所でしたから、治安の悪化
が深刻化してきました。

そんな中で文久3年(1863)3月、拝島村組合大惣代の福生村名主十兵衛と砂川村
名主源五右衛門から代官所に、高島流小銃100挺の拝借願いが出されました。
その理由は、最近の強盗は刀や鉄砲で武装しているので、これに対抗するには竹槍等
では不十分。より強力な武器が必要だからとのことでした。
高島流小銃とは、従来の火縄銃に代り高島秋帆がオランダから買い入れたゲベール銃
のことです。火縄に代り火打石(後に雷管)で発火させるので雨天にも使えるのが特徴
でした。このゲベール銃を江川英龍さんが改良・国産化に成功させ、幕府軍の主力銃と
なっていました。
自衛のために、農民が新式銃を借りて保管する状況が、多摩地方にも迫っていたという
ことは注目です。

江戸は砲撃を受けませんでしたが、長州や薩摩は諸外国と戦争をやらかして三回コールド
負けレベルの徹底的な敗戦。村では治安の悪化。こうした状況に至ってついに幕府は
江川太郎左衛門英武の建議を取り入れました。
文久3年10月、江川支配の幕府領に限ってですが農兵取り立ての決定が、幕府から
下ったのです。

幕府海防掛から下された指図は
●江川代官支配所に限定すること。
●農民には苗字帯刀を許可しない。
●農業の合間に軍事訓練を行い、有事の際に兵卒として動員する。

でした。

江川代官のこのときの支配地は、武蔵・相模・伊豆・駿河の4か国。その宿村から取り
立てる農兵は、およそ500人。
武器の小銃は幕府から貸渡されましたが、農兵にかかるその他の経費は、「身元の者」
と云われる裕福な者からの献金で賄うことになったようです。
幕府が出した農兵取り立ての趣意書が、「里正日誌」に記されています。

「一、世の中が乱れると、老少強弱を問わず夫役等が課せられ、父子夫婦を養うことがで
きない。その虚に乗じ盗賊悪党共が蜂起し、金銭米穀を強奪し、実に困難を極めるもので
ある。ところが東照神祖御治国300年来昇平の御徳化に浴し、飢寒の憂いもなく生業を
営み、広大な御恩沢にあずかり有り難いことである。
しかし、人に不時の病苦があるように、いついかなる変事が起こるかも計り難いので、春
以来武家へ御触れ達しもあるように、外国からの攻撃は言うまでもなく、宿村々の憂いを
未然に防ぐ配慮から、村高または人員に応じ多すぎない範囲で、壮年強健の者をもって
農兵を取りたて、期限を定め交代するようにしたい。
これはつまり、上は国家のため、下は宿村の無難、産業・子孫繁栄の基本と理解し、気力
を奮い立て勉励したいものである。

一、前条の趣意を納得し、組合限り精選人数を取決め、宮社・寺院の境内その他近所で
都合のよい場所を見立て、角打ち・銃隊訓練等を農業の合間を見計らい稽古するように。
もっとも教授役の者の指図を請けること。農兵は口論や身分を越えて差し出たことを決して
致さず、睦まじく、謙遜専一に心得ること。質素倹約の風に復し不孝不義や争いごと、訴訟
などなく取締りをよくすること。」

※角打ち・・・的を狙った射撃訓練のこと。この時代、的のことを角と言った。「八重の桜」で
山本家にある「角場」は「射撃場」という意味。

お上から見た農兵設置の意図と役割が述べられています。
なんとか理由をつけて考えたんでしょうね。やや回りくどくなった文章がお上の心中を表して
いるような気がします。
江川英龍さんの元々の計画は「海防のため」の農兵利用でした。それが「地域の治安維持」
と目的は変わったものになりましたが、何はともあれ農兵の取り立てが決まりました。

20130422.jpg

ゲベール銃は「燧発銃」(すいはつじゅう)ともいいます。燧石、つまり火打石を
使って火薬を発火させる方式の銃です。
実はこの燧発銃はオランダ人の手で、江戸時代の中頃には日本に入ってきて
いて、8代将軍・吉宗の前で試射も行われています。しかし、幕末に高島秋帆が
出るまで日本では全く注目されませんでした。
それは、江戸時代鉄砲の目的が軍事から離れ、的を狙うことに重点を置いた
射撃術になってしまったからです。
的を狙うだけならば、火縄を火皿に落として発火させる方式の火縄銃が打つとき
の衝撃も少なくベストな銃です、燧発式だと強力なスプリングを使って燧石を
打ち付け火花を散らさねばならないので衝撃が大きく、命中精度は火縄銃より
劣るのです。
燧発銃は雨天で使用できない火縄銃の欠点をカバーできるものでしたが、命中
精度が低く、強風には弱いという欠点があり、軍用銃としては火縄銃より多少良い
という程度のものでした。
欧州ではこの欠点を解決するべく雷管式の銃が作られ、すでに使用されていま
した。しかし、日本に輸入する際、赤道付近の暑気・湿気で発火不良になってしま
うという問題点がありました。
江川英龍さんはこの雷管を研究し、国産化することに成功。韮山の代官屋敷に
工場を建て、雷管式ゲベール銃の量産化をしていったのです。
・・・とはいうものの、ゲベール銃は丸い弾丸を先込めする方式で、銃身の内部は
ただの筒ですから、基本的な構造は火縄銃と変わらないものだったんですね。
ゲベール銃の銃身の中にライフリングを施し命中精度を高めた銃を、ヤーゲル銃
といいます。会津の白虎隊はこの銃を使用していたとのことです。



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#227 農兵取り立ての背景
>やや回りくどくなった文章が、お上の心中を表しているような気がします。
 地方文書の凄いところですね。同感です。この問題が地域史全体として解明されると、幕末の江戸周辺の姿がはっきりしてくると思います。それは、新しい地域像になり、後の多摩の自由民権運動につながってくるのではと思いを馳せています。
 野火止用水
 
#228 リクエストします
農民側の意識としても、農兵隊のために員数や労力や多額の上納金を負担するからには
「海防」より「地域防衛」を優先したいでしょうね。
それに有事だからと出動を命じられても、地元を遠く長く離れるのは難しいのでは。
慶応2年6月の大坂出張命令にはどこも難色を示し、最終的にお断りした件については
『里正日誌』にも記述されていますよね?(いずれご紹介くださるものと期待しております!)
江川代官はそれらをどうクリアして海防を実現する考えだったのか、興味があります。

幕末期、銃器は急激な発達を見せますね。
「八重の桜」にもチラ出のアメリカ南北戦争では、開戦当初は前装滑腔銃、
4年後の終戦時はすでに連発式の後装施条銃が主流だったとか。
佐賀藩では、火縄銃をすべて燧石銃に取り替えるべく嘉永元年から10年計画に取りかかったのに
まもなく雷管外火法が登場し、せっかく揃えた燧石銃を改造するはめに。
しかもその頃、欧米では現代銃に近い薬莢式銃がすでに考案・製作されていました。
海外から新旧の銃器が一気に流れ込んだ幕末日本は「銃器の歴史展覧会」だった様子です。
#229 野火止用水さま
多摩地域の各村の名主層は、それぞれみな日記を残している人が多いようですから、これらを
まとめて調べることができると面白いでしょうね。同じ代官支配地でも地域差があるでしょう
から、農兵取り立てについて各村がどういう思いで受け入れていたのか、すでに英龍さんが
亡くなり代官が代替わりした後という点を考えても興味があります。
#230 東屋さま
慶応2年の分はまだ読み込んでいませんので・・・(汗;)

各村によって、農兵への取り組みはそれぞれ温度差があったことだと思います。さらに、
当時の代官・英武さんは年齢的にも指導力を発揮できたとは思えません。当然、手代・
手附が代行したでしょうから、村民のモチベーションもどれほどだったか気になる所です。

幕末の小銃史は仰るようにとても早いですね。
ゲベール銃の値段も新式が出ると、アッという間に値下がりしています。
当時の武士たちは次々と変わる慣れない銃の扱いに、さぞ苦労したことでしょうね。

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