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佐貫城跡

木更津史跡巡りの最終回。
最後は佐貫城跡です。

富津の海岸線、今の海水浴場のある辺りから内陸に入った所に佐貫城がありました。
佐貫は戦国時代は里見氏が領国とし、江戸時代に入ると内藤氏に領地が与えられ
ましたが、その後何家かの譜代大名や幕領となる時代を経て、宝永7年(1710)から
阿部氏が1万6000石で領主となって幕末まで続いています。
幕末で阿部氏といえば、老中の阿部正弘が有名ですが、正弘は備後福山藩11万石
の藩主で、コチラが阿部家の宗家。
上総佐貫藩はその分家ということになります。

ちなみに阿部正弘は、老中時代の安政4年(1857)4月、玉川上水の羽村堰の視察
ということで多くの幕閣役人連中を連れて多摩を訪れています。
過去に当ブログでも書いたことがありましたが、内野杢左衛門も「里正日誌」の中で
接待に当ったことに触れております。
そんなことを考えると、分家とはいえ佐貫にもちょっと親近感を覚えます。

さて、戊辰戦争当時の佐貫藩ですが、藩主・阿部正恒は佐幕側に就いておりました。
遊撃隊が請西藩真武根陣屋を出発し、富津陣屋に向かう途中で、佐貫藩からの
援軍1小隊が加わります。旧幕府が手本としていたフランス式軍制では、1小隊の
人数は28名ないし40名なのだそうです。
え、援軍てそれだけ?と思われるかも知れませんが、Wikipediaを見ますと天保14年
(1843)の時点で佐貫藩の藩士総数は家老以下213名とあります。慶応4年の
時点でもそう変わりはないでしょうから、その中から戦力になりそうな者28~40名
を援兵に出すのは、むしろかなりの出血ではなかったでしょうか。

ということで、コチラがその佐貫城跡です。

佐貫城1a

わりと広い駐車場があり、建造物は残っていない(明治4年破却)ものの公園のような
形で残されているイメージです。
訪れたとき小雨がパラついておりましたが、ここが「佐貫城址入口」とあります。
かつての大手門になるのでしょうか。

佐貫城4a

夏草に覆われていますが、石垣はなかなか立派です。

佐貫城6a

大手門の石垣を通り。坂道を上っていくと目の前が開けます。
ここが三の丸です。
写真には写っていませんが表示板があるので、分かりやすいです。

ここからさらに奥へ入ってゆくと、二の丸、本丸へと続くようです。
事前にちょっと調べていたのですが、歩きやすいように整備されているとのこと。
しかし、やはり夏真っ盛りの時期だからでしょうか。草は伸び放題でした。

佐貫城8a

この先に二の丸があるのですが、この頃から雨が強くなってきまして。
本丸まで往復すると30分はかかるとのことで、断念して引き返すことにします。
まぁ、それとね。
事前に行った会津での熊への恐怖心がまだ残ってて、山の中を歩くのに少し
ビビってるワタクシがおりました。
千葉には熊はいないとは思うんですけど・・・後で聞いたら、この近くには猿は
出没するらしいです。1対1になったら、猿でも怖いですけどね。

佐貫城9a

ということで、佐貫城跡巡りは途中で断念。
まぁ、東京から近いこともありますし、草が枯れる冬にでも富津陣屋とともにまた
訪れてみることにします。

最後に。
木更津東ICの近くで見つけたラーメン屋さん。

木更津ラーメン1

この店構え、けっこう入るのに勇気がいりましたが・・・

木更津ラーメン2

ラーメンは美味しかったです。
刻みタマネギが効いています。
竹岡式ラーメンというんだそうですね。そういうのに疎いので、初めて知りました。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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[ 2022/09/29 ] 史跡へゴー | TB(0) | CM(0)

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