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飯野陣屋跡

真武根陣屋を出発した遊撃隊が富津陣屋を目指したとき、近くを通ったものの
そのまま通過した陣屋があります。
それが飯野藩2万石保科家の飯野陣屋です。

飯野陣屋は「日本三大陣屋」の一つと云われており、その面積は城に匹敵すると
のこと。ちなみに他の2つの陣屋は越前の敦賀陣屋と長州の徳山陣屋ですが、
どちらも現在はほとんど遺構すら残ってないそうです。
ところが、飯野陣屋は濠もほぼ当時のまま残り、全体像がはっきりと掴めるとの
ことなので、前々から行ってみたいと思っていた陣屋です。

現在の住所は富津市下富津になるのですが、行ってみて思うのは富津って古墳が
やたら多いってことでした。この辺りのマップを見ると、たくさんの古墳が目につき
ます。実は飯野陣屋もその敷地の中に古墳があります。

飯野陣屋A

現地で配布されている飯野陣屋見取り図です。
本丸、二の丸、三の丸が濠で囲まれたままの姿で残っています。
南北280m、東西350mという大きさで、江戸時代にはこの中に藩邸や氏族邸
があったと書いてありますね。
陣屋内に三条塚古墳、稲荷塚古墳の2つの古墳があり、その周溝を再利用して
構築されているのが、飯野陣屋の特徴だそうです。

飯野陣屋跡3 二の丸a

陣屋跡ですが、現在は飯野神社という神社になっています。
見取り図の「現在地」から撮った写真が、コチラです。
鳥居の手前までが本丸、その先の拝殿は二の丸ということになります。

飯野陣屋跡8 大手門a

参道の入口ですが、当時はここが陣屋の大手門でした。
見取り図を見ると桝形になっていたようですね。
ここから鳥居まで続く道は、当時の本丸。現在はその両側に民家が立ち並んで
います。本丸跡に住んでいるなんて、気分いいでしょうね~。
当時の桝形の辺りには土塁が残っているらしいのですが、夏草に覆われて確認
できませんでした。人さまの敷地でもありますし、あまり立ち入るのもね・・・。

飯野陣屋跡10a

大手門前の濠はそのまま残っています。これがスバラシイ!
昭和42年(1967)に千葉県指定史跡になっています。
住んでいらっしゃる方もご苦労でしょうが、このまま残して後世に伝えてください。

ここに藩庁を構えていた飯野藩ですが、8月に訪れた会津とは深い縁があります。
会津藩の藩祖は保科正之ですが、彼は2代将軍徳川秀忠の子供でした。
それが当時信州高遠藩の藩主だった保科正光の養子に迎えられます。
正光には男子がなく、腹違いの弟正貞を養子とし嫡子としていたのですが、これを
廃嫡し、正之を本家の嫡子とします。まぁ、将軍の子、次期将軍の弟ですからねぇ。
その後、保科家は高遠から会津へと領地替えとなり、会津松平家が成立しました。
一方、本家の跡取りを降ろされた格好の正貞が、分家として独立、上総に領地を得て
立藩したのが、飯野藩保科家なのです。
まぁ、会津の方は姓を保科から松平に変えてしまいましたから、こうなるとどっちが
保科の本家かわからなくなりますが、そういうことです。
しかし、正貞の母親というのがこれまたスゴくて、徳川家康の妹なんですね。
正貞と正之は徳川家の家系の上からは血縁にあったということです。

さて、時代は流れて幕末期。
飯野藩9代藩主保科正丕(まさもと)の娘照姫が、会津藩8代藩主松平容敬(かたたか)
の養女になります。容敬の養子(甥)として9代藩主となったのが松平容保です。
ここで会津松平家と保科家は再び縁戚関係を結ぶワケですね。
大河ドラマ「八重の桜」では照姫(稲森いずみ)が義弟の容保(綾野剛)にほのかな
恋心を抱きますが、ホントにそんなことがあったのかは不明w

今回訪れてみて思いましたが、当時の陣屋の大きさも分かるし、堀も現存しているし、
会津藩ファンなら飯野陣屋も一度訪れてみていいのではないでしょうか。

飯野陣屋跡13 西側濠a
陣屋の西側濠。

飯野陣屋跡12 三の丸 三条塚古墳a
二の丸跡。
広大な空き地になっているのは、以前ここに村立中学校が建てられていたから
だそうです。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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[ 2022/09/21 ] 史跡へゴー | TB(0) | CM(0)

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