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猪苗代城、土津神社、保科正之

猪苗代湖まで来て、ちょっと休憩。
道の駅などもあるので、お土産など買い物。

少し戻るような形で、猪苗代城址に向かいました。
戦国時代は芦名氏系である猪苗代氏の居城。近くには伊達軍と芦名軍が戦った
摺上原の戦いの古戦場跡もあるようで、そちらも行ってみたかったのですが、
時間がないので断念しました。
江戸時代には猪苗代城は若松鶴ヶ城の支城として存在し、鶴に対しての亀ヶ城
とも呼ばれました。
慶応4年(1868)8月21日に、猪苗代と郡山の間にある母成峠が突破されると、
そこを守備していた山口次郎(斎藤一)ら新選組や、伝習隊、会津藩兵らは猪苗代
に退却してきました。猪苗代は平地ですし抗戦するには兵数も足らず、勝負になら
ないと判断したのでしょうか。東軍同盟軍は会津若松方面に撤退。猪苗代城は
火を掛けられ焼失しました。
母成峠を破ってからの新政府軍の進撃スピードは、エラく早かったそうですからね。

現在の猪苗代城は公園になっており、桜の名所でもあるそうです。
城址の西側は石垣なども残っており、往時を偲ばせます。

猪苗代城4a

城跡の雰囲気を感じたいなら、この西側から城内に入るのがいいのですが、けっこう
足元は悪いので注意が必要です。

城の北に土津(はにつ)神社があります。

土津神社3a

会津守護神で、会津藩初代藩主・保科正之公をお祀りしています。
拝殿の奥をずっと上ったところに正之公のお墓があるのですが、そこまで歩いて
いくと時間がかかると思い、断念しました。しかし、後で車で近くまで行くことが
出来ることを知りましてメチャ後悔・・・う~~、またいずれ行く!

ちなみに、なぜ初代藩主だけ松平ではなく保科かというと、正之は2代将軍秀忠の
子として生まれたのですが、正妻のお江ではなく他の女性に産ませた子でした。
これが嫉妬深いお江に知られたら殺されかねないと恐れた秀忠は、正之を家臣の
保科正光に預けました。正光は正之を養子として迎え、それまで弟の正貞を嫡子と
していたのを廃嫡して、正之を嫡子としたのです。
後に正之は3代将軍家光から、松平を名乗ることを許されるのですが、正之は恩の
ある養父を思い自らは生涯保科で通し、3代藩主から松平を名乗ることになります。

家光は同母弟の忠長は大ッ嫌いで、メチャいじめて、最後は殺しちゃうような形に
なったワケですけど、異母弟の正之のことはとても可愛がり、また頼りにしました。
決して出しゃばらず、生涯将軍の弟ではなく家臣として仕えた正之の姿勢が、家光の
ハートをガッチリ掴んだのでしょうね。
家光は4代将軍家綱の後見を正之に頼み、他界します。

明暦3年(1657)あの有名な明暦の大火が起こり、江戸城の天守も焼失してしまい
ました。幕府は新しい天守を建てるために天守台を作りましたが、ココで正之が
「戦時ならともかく、今の城に天守など不要。そんな金があるなら江戸復興のために
使いなさい」と一蹴。江戸は見事復興を遂げたのです。

もう10年くらい前ですかね。
保科正之を大河ドラマの主人公に、という活動が会津とか高遠などで起こっている
という話を聞いたのですが、アレってどうなったんでしょう。ワタクシは賛成ですよ。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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[ 2022/09/02 ] 史跡へゴー | TB(0) | CM(0)

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