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飯盛山をゆく

天気がすっかり回復したので、白虎隊で有名な飯盛山へ行ってみることに
しました。

飯盛山11a

標高は314mだそうです。

飯盛山10a

正面の急な階段を登っていくと、白虎隊隊士のお墓があるんですが、階段は
ツラいわぁという人のために有料でエスカレーターも装備されてます(右)。
ワタクシが行ったときは使っている人はいませんでしたけど、雨の時とか
お年寄りの団体さんなどにはいいかも知れないですね。

階段の手前に青い看板(案内板)がありますが、そこから階段を登らず左に行くと
もっとなだらかな傾斜で登ることができます。そのルートの先にあるのが、ワタクシ
も一度見てみたかった「さざえ堂」です。

さざえ堂2a

ゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪城のモデルなんじゃないか?というようなこの外観。
ちょっとおどろおどろしさがあって、ワクワクしますね。
正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」という、寛政8年(1796)に建立
された観音堂です。このお堂の内部が変わっていて、螺旋状の通路を上まで上って
いくと、下りは上りとは別の螺旋通路を通ってくることになり、行きと帰りの参拝者が
すれ違うことのないような構造になっています。
世界的にも珍しい建築様式らしくて、平成8年(1996)に国重要文化財に指定され
ているとのこと。

さざえ堂7a

さざえ堂6a

かつては内部に三十三観音像が安置され、このお堂を一周まわることで三十三
観音巡りをすることができたそうです。
この建築様式からさざえ堂という名称と、唯一無二的な外観が生まれたんでしょうね。
1700年代の木造建造物ですからね、貴重ですよ。未来永劫大事にしていただきたい。

さざえ堂脇のお土産屋(休憩処)の前を奥に進んでいくと、白虎隊の墓域に出ます。

飯盛山7a

写真には写っていませんが、手前にお線香が1束100円で売られていて、みんなそれを
買ってお供えするので、辺り一帯煙でいっぱいです。

飯盛山13a

白虎隊の悲劇はここで語るまでもないのですが、ただ一人救助されて生き残った飯沼
貞吉氏の証言によって、その時の様子がわかっています。
ただ、彼の証言が独り歩きをしたのか、あるいはどこかで歪められたのか、「飯盛山の
上から鶴ヶ城が燃えるのが見えたので、もはやこれ迄と全員自決した」との話が巷間
伝わっていますが、これは事実ではないようです。

戸ノ口原の戦いで敗走し、隊士のうち16人が飯盛山にたどり着きます。飯盛山の中腹
(自刃の地)に着くと彼らは協議を開きます。鶴ヶ城は蒲生氏郷という稀代の名将が
築いた城なので落ちるワケがない、城に戻って新政府軍を討つべし!
しかし、城の周囲は全て敵兵で囲まれていて、城内に入るのは難しい。不可能ではない
かもしれないが、捕まって捕虜になる確率が高い。そうなった場合、主君やご先祖に
対してどう申し訳が立つだろうか?潔くここで自刃し、武士の本分を明らかにしよう!
これに全員が賛成し、一同鶴ヶ城に向かって自刃した、ということだそうです。

飯盛山1a
階段の下が自刃の地。

もう少し冷静な判断ができていたら・・・と思うのは、現代人の視点ですね。
特に会津のような「家訓」を小さい頃から徹底的に教え込まれた彼らに、負けて
その恥を晒すというのは死ぬよりも辛い屈辱だったことでしょう。
その選択に肯定も否定もできませんが、明治維新という日本史史上最大の転換期
に多くの犠牲が払われたことだけは、後の世まで語り続けなければなりません。
700年続いた武士の世界の終焉が、戊辰戦争を辿るといろいろ知らされます。
白虎隊のエピソードもまた、その中の一部です。

ところで、白虎隊のお墓前で感慨に耽っていたら、階段を登ってきた観光客らしき
30代くらいの人たちが「ココって何ー?神社?何があるのー?」と言っていたので
ちょっとビックリ。
いや、すべての日本人が歴史好きで戊辰戦争に興味があるとはいいませんが、
飯盛山に登ってきたのなら、ココがどんな所かわかって来たと思うのがフツーだと
思うのですが・・・いやいやワタクシの考えなど、まだまだですね。

さて、飯盛山のふもと、すぐ南側にあるのが「旧滝沢本陣跡」です。

滝沢本陣跡10a

「旧滝沢本陣は、1678年(延宝6年)、滝沢組郷頭を務めた横山家の住居として
建築され、その後は、歴代会津藩主が参勤交代や、藩祖保科正之公を祀る、土津
神社の参詣に出向く際の、休息所として利用されておりました。
戊辰戦争の際、時の藩主松平容保公の出陣により本営とされ、白虎隊もここで
出陣を命じられました。
座敷には、当時の戦闘による弾痕や、刀傷が、今でも生々しく残っております。」
(パンフレットより)

戸ノ口原から滝沢街道を逃げてきた白虎隊も、おそらくこの本陣に向かうつもり
だったのでしょう。しかし、街道で銃撃を受けたので飯盛山に入ったそうです。
本陣近くも敵に固められたとあっては、城に帰ることはできないと隊士たちが
考えたのも無理はありません。

滝沢本陣跡3a
手前が御次之間、奥が御座之間。

滝沢本陣跡4a
こんなのが10ヶ所くらいあります。

明治14年には有栖川宮熾仁親王、昭和47年には三笠宮崇仁親王、同53年
には秩父宮勢津子妃が御休息されているようです。

ところで、ココの参観料金は400円なのですが、

滝沢本陣跡7a

受付に人はいなくて、賽銭箱みたいのが置いてあるだけ。誰ーれもいない。
これなら子供料金でも入れちゃうし、いや、お金を払わない人もいるのでは・・・?
モチロン、ワタクシは正規の料金を払って拝観いたしましたけどね。
会津、なんと大らかな。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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[ 2022/08/24 ] 史跡へゴー | TB(0) | CM(0)

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