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「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑲ 成一郎はやらかしたのか?

旧幕府軍、榎本武揚率いる艦隊が蝦夷内湾の鷲の木という浜辺に上陸したのは
慶応4年(1868)10月19日のことです。
今、新宿の京王デパートで恒例の駅弁まつりを行っておりますが、そこでもピカイチ
の人気商品「森のいか飯」。鷲の木はそれが売られている森駅の近くです。

陸軍部隊は鷲の木から内陸を通る本道軍と、その助力として海岸線を行く間道軍
の二手に分かれて箱館奉行所のある五稜郭へ向かいました。
本道軍は遊撃隊の隊長、人見勝太郎が新政府への嘆願書を持って進みます。
渋沢成一郎率いる彰義隊は、仙台脱走兵で構成される額兵隊らと共に、土方歳三
に率いられて間道軍に加わりました。
当時箱館府は新政府が抑えており、松前藩、津軽藩らがその守備隊にいましたが、
旧幕軍はこれを難なく破り、10月26日に五稜郭に入城します。
額兵隊にいた荒井宣行の書いた「蝦夷錦」にはこの時の彰義隊を
「二百余人ヲ四列ニ立テ、日ノ丸ノ大旗ヲ翻シ」と書いています。

翌27日から土方歳三を隊長として、彰義隊、陸軍隊、額兵隊の混成部隊で松前
攻略に向かいます。彰義隊はその先鋒を任されたと、彰義隊にいた丸毛靱負の
「函館戦史」にあります。
松前藩というのは全国でも特殊な藩で、当時は寒冷で米が収穫できないので石高
は0なんですね。で、漁業やアイヌとの交易で経営を成しており、藩士も通常は
農漁業に従事するという生活だったようです。そのため戦闘能力も低い。
11月5日には、土方軍は松前城を落とし、入城を果たします。

と、ここまでは良かったんですが、問題はこの後に起きます。
「彰義隊長渋沢成一郎、軍律ニ違反シ免官ス」
これは幕府歩兵11聯隊、12聯隊を中心に作られた衝鋒隊の副長を務めていた
今井信郎の「北国戦争概略衝鋒隊之記」に残された記述です。ちなみに今井は
かつて京都見廻り組に在籍し、坂本龍馬を斬ったことで知られる男。

これだけだと何があったのかわかりませんが、とにかく成一郎が何かをやらかして
彰義隊の隊長から降ろされたらしい。
以前ご紹介した寺沢儭太郎の「幕末秘録」には、この様子が詳しく書いてあるのですが
それによると・・・松前城を攻略した際、松前藩兵が城に火を放って逃げた。そのため
味方が消火に当たるところ、成一郎は配下に命じて金蔵から金銭を運び出し、これを
横領した・・・というんですね。
それで交代寄合の菅沼三五郎ら幹部たちは、もう成一郎にはついて行けぬと彼を
隊長にとどめることを拒否したようなんです。
なるほど、これがホントだとすると成一郎はとんでもないヤツですね。

結局、11月13日から江差方面に逃げた松前藩兵らを追討するため、土方軍は
出陣しますが、成一郎と彼に従う50数名だけは松前に残されました。
菅沼らから一緒に行動するのは嫌だと言われたのでしょう。

再び榎本が両派の間に入って仲裁しますが、ついに元には戻らず彰義隊は再び分裂。
隊長を菅沼三五郎、池田大隅とした200~230人を「彰義隊」。渋沢成一郎を隊長と
した30~80人を「小彰義隊」としたのです。小彰義隊の人数にだいぶ幅がありますが、
これは「彰義隊戦史」には「三十余人」、「蝦夷錦」には「八十人」とあるためです。振武
軍のときのように、後から移った隊士がいたのかもしれません。

さて。
本当に成一郎は松前城の金蔵から金銭を運び出し、それを横領などしたのでしょうか?
これを書いているのが、以前の記事で「成一郎が土下座をして隊長になった」と書いた
寺沢儭太郎ってのが、ワタクシ的には引っかかる所ではあります。
この人は成一郎を少し貶めて書こうとしている所があるんじゃないかなぁ・・・と思えなく
もないんですよね。天野派なのでね。
ただ、中立の今井あたりが「軍律ニ違反」したとも書いているので、何らかのシクジリ
はあったのでしょうね。

蝦夷錦a
額兵隊隊士、荒井宣行「蝦夷錦」より(函館中央図書館デジタル資料館)
2行目に「小彰義隊 八十人 頭並 澁澤成一郎」
4行目に「彰義隊 二百人 改役 池田大隅」
とあります。


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[ 2022/01/22 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

集団

つらいことだけど、年を取るといやおうなく職場でも趣味でも「集団」に属するようになるので、なんとなく、その反目というのが身に染みてわかるような気がします。
やっぱどんな場所でも「あいつは許せねえ」とか言う軋轢はあるだろうし、自分もそう思われることが、一度や二度はあるだろうから。
そんな相手に「記録」なんか残された日には大変ですね。場合によっては恣意的に貶められたりもするはずで、
そんなこんなを「史料」として後生大事に扱う、後世の研究者に扱われた日には、その人物自身の評価すら一変しますよ。そりゃ、ねえ…

150年も前に死んだ人たちの評価が今でも二転三転するのは、やっぱり史料の発見と、その読解とに依る、歴史学の宿命なのでしょうね。
[ 2022/02/10 23:12 ] [ 編集 ]

甚左衛門さま

わりとワタクシは成一郎を弁護するスタンスなのですが、多くの彰義隊隊士にとっては天野八郎により魅力があったのかなぁと思います。
天野が死んで、成一郎が生き残ったことに釈然としない思いが、主観的に筆を走らせたということはあるでしょうね。
甚左衛門さんの仰るように、文書史料というのは非常にあやふやな上に立っているのかもしれません。ただ、どんな歴史上の人物も、敢えて間違った道を選ぼうとした人はいないと思います。その人なりの正当性は必ずあると思うので、その部分は光を当ててあげたいとは思います。結果として間違いだったとしても、ですね。
[ 2022/02/12 22:33 ] [ 編集 ]

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