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「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑰ 新生・彰義隊

飯能戦争に敗れて故郷の血洗島に逃れていた成一郎ですが、慶応4年(1868)7月中
には江戸へ舞い戻ってきたようです。
彰義隊が上野に屯集していた頃から、陸軍奉行だった松平太郎を通して榎本武揚に
いざというときには艦隊に合流するという話がついていたようで、各地に四散していた
彰義隊の面々が品川に集まってきていたんですね。
成一郎も同志(おそらく振武軍隊士)35名を連れて、榎本の艦にやってきました。
その輸送艦「長鯨」上で、寛永寺で袂を分けた天野八郎派と顔を合わせます。
ちなみに天野は江戸潜伏中に捕まってしまい、榎本艦隊に合流はできませんでした。

このときの様子は彰義隊隊士で天野派だった寺沢儭太郎が「幕末秘録」の中で書い
ています。当初、寺沢たちは成一郎らと再び手を組むのは嫌だったらしいのですが、
榎本の説得で再び彰義隊として再結成しました。
そのとき成一郎は寺沢らにこれまでの経緯を謝罪し、天野の代りとなって誠意を
尽くすことを約束し甲板に頭を擦り付けた・・・というのです。

コレ、ホントでしょうか?
それで成一郎は再び新生彰義隊の「頭」に収まったというのですが・・・。

成一郎は上野を去ったとき、後から追いついてきた者を含めてその後300人の
隊士で構成される振武軍の隊長になったほどの人物です。
彰義隊の頭取として隊を分裂させてしまったことに責任はあったとしても、土下座
までして新生彰義隊の頭になったとは思えません。

寺沢は一方で「渋沢は身長高く、頭は丸坊主で、眼光炯々人を射て、一見上野山王台
にある、彼の西郷の銅像と云ったような立派な偉丈夫であるから、皆その威風の堂々
たるにおされて、我々の首領と仰がんには、かかる人をこそ」(「幕末秘録」)
と言ってます。
成一郎の見た目が立派で威圧感がスゴイので、リーダーになってもらわないワケには
いかないよ、って自分で言ってるんですよね。

おそらく、成一郎はその場にいた隊士たちの総意で頭に推されたのだと思うんです。
再び結成された彰義隊を率いていける人物として、成一郎以外いなかったのではない
でしょうか。
寺沢はあまりそれを認めたくなかったのかな?
ただし、頭の成一郎以外は、「頭並」(おそらく副長の地位か)に菅沼三五郎、「改
役」に小林清五郎、「頭取」に織田主膳、大塚霍之丞、新井鐐太郎、木下福次郎、
松平篤三郎と、幹部には振武軍関係者以外の彰義隊士が名を連ねています。
このことから、寺沢ら天野派は全面的に成一郎を信用したわけではなく、隊の全体
も天野派が握っていた印象を持ちます。

頭並に推された菅沼三五郎は7000石の交代寄合表御礼衆です。
交代寄合というのは石高は1万石未満で旗本の地位ではあるけれど、老中支配に
属し(通常旗本は若年寄支配)、参勤交代を義務付けられている家のことです。
つまり、準大名といってもいい旗本でしょうね。30家余りがありました。

交代寄合はさらに表御礼衆(20家)と四衆(12家)に分かれます。
四衆は参勤交代はするものの、当主が江戸に滞在するのは数日だけで家族を領地に
残すことが許されていました。その代わり幕府の役職に就くことはなく、知行地の関所
や河川の管理を幕府から委託されるのが仕事でした。
一方、表御礼衆は大名と同じく正室や嫡子を江戸屋敷に住まわせる義務があり、幕府
の役職にも就任しました。

菅沼家は交代寄合の中でも最も石高が高く、三五郎は慶応2年(1866)には静寛院
(和宮)と天璋院(篤姫)の用人を務めています。
上野戦争では自ら竜虎隊という別働隊を率いていたといいます。

家柄などでは明らかに勝る菅沼などがいても、成一郎が頭になったのですから、彼の
リーダーとしての資質は一目置かれていたといって良いと思います。

彰義隊旗a


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[ 2022/01/06 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

両義性

「そのとき成一郎は寺沢らにこれまでの経緯を謝罪し、天野の代りとなって誠意を尽くすことを約束し甲板に頭を擦り付けた」

↑こんな逸話まったく知らなかった。すごく面白い!
私もこれには「無かっただろう派」ですが、ひょっとしたらあったかもしれないですね。
近世(特に幕末)の人は、一人で二役・三役することがザラにあったらしく、
人格すら、それに合わせて変わった可能性があるように思えます。
名前もコロコロ変わるし、二つ以上の名前を持つ例も珍しくない。5つも6つも持つ人すらいる。
そんな中でアイデンティティが拡散(分散)する可能性も、(これは半ば私のような馬鹿で無知な者の妄想ですが)あるのかもしれません。
[ 2022/01/08 00:09 ] [ 編集 ]

甚左衛門さま

渋沢成一郎が榎本艦隊に合流してからの話って、私も断片的にしか知り得てないのですが、けっこうおもしろいです。今後記事に書く予定です。
一人げ二役・三役ですか。それもまた処世術なのでしょうかねぇ?
名前で言えば、新選組の永倉新八や斎藤一は明治以降、杉村義衛や藤田五郎の名前で生涯を送ったように、そこで丸っきり人生を転換させる気持ちもあったのでしょうね。
[ 2022/01/10 11:48 ] [ 編集 ]

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