秋くらいから各カルチャーセンターなどの講座が始まりまして、本業の仕事以外は
ずっとそちらに時間を取られておりました。
ブログもかなり書いていませんでした。
大河ドラマ「青天を衝け」もいよいよ最終回ですね。
当ブログでは多少東大和市に関係のあった渋沢成一郎にスポットを当てて、取り
上げてきました。
田無から箱根ヶ崎に移った成一郎率いる振武軍は、上野で彰義隊と新政府軍の
戦いが始まると聞くや彰義隊に応援するため青梅街道を東に駆け付けます。
しかし戦いはすでについており、敗走してきた彰義隊の一部と振武軍は田無で
合流。再び一つの軍隊となって飯能に向かい屯集しました。
そして飯能戦争となるのですが、圧倒的な兵力と武器に勝る新政府軍の前に
振武軍は上野戦争以上の一方的な敗戦に終わってしまいます。
「青天を衝け」をご覧になった方はすでにご存じの通りです。
飯能戦争に於菟之輔が参加していなかったり、平九郎の最期や後日談は以前の
記事でご紹介しました。
その後の成一郎についてですが、四散した振武軍の中で成一郎は惇忠や4人ほどの
隊士と共に、追っ手の目を逃れながら逃避行を続けたようです。
先ず一行は旧一橋領だった横手村(日高市)に落ち、組頭の大川戸延次郎に匿われ
ます。大川戸家では家内総出で成一郎たちの着替えを縫い上げました。成一郎は
その礼金として3円(3両か?)を払ったといいます。
新政府軍の監視網の中、横手村から案内人の先導で、一行は白子村、虎秀村、
井上村(飯能市東吾野)に至りました。見張り人足100名余りが進路を固めていまし
たが、井上村名主・井上範三が成一郎らを「定めし官軍で御座ろう」と言ったため、
そのまま官軍のふりをして通過できました。もちろん、井上範三は成一郎らを旧幕臣
と知ってて嘘をついたのです。
飯能周辺はよほど徳川恩顧の思いが強い土地柄だったことが窺えます。
吾野から峯伝いに秩父郡大野村(都幾川村)に出て、名主守田常右衛門に保護された
一行は、数家に分散して数日を過ごしました。
惇忠は柴崎利三郎方に宿泊し、お礼にと自ら揮毫した掛け軸を残していったそうですが、
「この書は十年間誰にも見せないでくれ」
と注意したといいます。おそらく自分を匿ったことが発覚して咎められることを心配した
のでしょうね。
その後、村人の案内で上州伊香保に逃れ、草津に潜んだ後、成一郎と惇忠は深谷に
帰りました。・・・というのが大まかな成一郎、惇忠の逃避行エピソードです。
しかし、今書いた内容は正式な記録があるワケではないのです。
成一郎は戊辰戦争中に日記、記録の類を残しておらず、またこの間の書簡なども
発見されていません。
ただ唯一「新藍香翁」という書物によって、以上の様子が書かれているのみなのです。
実はワタクシもこの本の現物は見ていないのですが、どうも小説仕立ての文体で
書かれているらしく、かなり主観性の強い内容のようなんですね。
なので、あくまでも参考という程度に考えた方がいいのかもしれません。

写真は埼玉県越生町の法恩寺にある「渋沢平九郎埋首之碑」(石段右側)
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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飯能近辺は好きでよく行くのですが、こんなに取り上げられた(or取り上げられるはずだった)のは、今回の大河ドラマが初じゃないでしょうか。
「横手村」と言う所も、
今でこそ本当に飯能・秩父間の山道の間にある小集落ですが、
当時どのような位置づけであったのか。非常に興味深いところです。
博奕打に興味ある者としては、振武軍の来る3か月ほど前、
『佐藤彦五郎日記』の慶応4年1月27日、28日に、
「浪士5,60人が飯能に来て、そのうち度胸のある二人が、博徒の賭場で、
賭場あらし(金銭を強奪)をした」という事件が記録されていますが、
この辺の事情も含めて、この時期・この地域のことがもっとわかればなあ、
と思っています。
自身の講座もあり、久しぶりに飯能を訪れました。
平九郎が自刃した場所や、その先の黒山三滝も行ってみましたが、今なおこんな所で道に迷ったらとんでもないなぁと思います。
飯能の町は古いので、もしかすると古文書の類がまだまだ出てくる可能性は感じますね。
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