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「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑪ 軍用金調達

当ブログでは「青天を衝け」をきっかけに、より東大和市域に関係の深い渋沢成一郎
を追って記事を書いているワケですが、栄一は自分と成一郎との違いについて、
自分は一つ一つ目の前の課題を片付けながら進むタイプだが、成一郎は一足飛び
に先に進もうとすると語っています。
なるほど、彰義隊離脱後の成一郎を見ていると、そのような性格が彼を動かしていく
ような感じにも見えてきます。

田無村に入った振武軍ですが、ここは彼らの最終的な駐屯地ではありませんでした。
軍資金を調達するための中継地だったのです。
田無は金策をするにはもってこいの場所だったからです。
それはどういうことでしょう?

1800年代中頃から幕府は関東農村の支配強化と防犯を目的に、改革組合村と
いう制度を作っていました。これは、幕領・私領・寺社領の区別なく近隣の5、6ヶ村
をまとめて小組合とし、さらに小組合を10ほどにまとめた大組合を構成させるもの
でした。小組合の代表者は小惣代、大組合の代表者は大惣代と呼ばれます。
大惣代の村は石高も多く、交通の要所となる村が選ばれました。この村を寄場と
いい、寄場村の名主は寄場名主といいました。
幕府は何か村々に命令を出す場合、寄場村に通達すれば大組合から小組合、
小組合から各村々へと迅速に廻状が届くシステムを作ったワケです。

振武軍は軍資金調達にこのシステムを使いました。

田無村に入った翌日と思われる慶応4年(1868)5月2日、成一郎は周辺の大惣代
の村々に田無村に代表者をよこすように通達を出しました。それは扇町屋、日野、
拝島、所沢、府中、田無と、主だった多摩・狭山丘陵の寄場村でした。
命令を受けた寄場村では名主らが田無に向かいます。そこで振武軍から、自分たち
の組合に入っている村の名主をリストアップするように言われました。
一旦返された寄場名主らは、自分の村に小惣代を呼び寄せ各村々の名主の名前を
書き出させたリストを作り、それを振武軍に提出します。

振武軍・・・おそらく成一郎と尾高惇忠でしょう・・・は、このリストを基に各村の
名主、組頭などに軍資金の金額を割り当て、供出するように要求したのです。,

江戸では彰義隊と新政府軍がいつ戦争をするか時間の問題という切羽詰まった中で、
如何に効率よく資金を集めるか。
武州の改革組合村システムを知り尽くした成一郎や惇忠ならではの考えでした。

そして、この成一郎や惇忠の策を後押ししたのが、外ならぬ田無村名主で、田無
組合の大惣代だった下田半兵衛だったと思われます。
飯能市立博物館の企画展図録「飯能炎上」はこのように書きます。

「高岡槍太郎(振武軍隊士)は、半兵衛という名主が旧幕府方に尽力したことを記
しているし、下田自身も振武軍賄料を田無組合の村に割り付ける際、当村は大
混雑して一統が難渋している上に出金もあって迷惑と思うが、今度のことは『別格
之次第』なので、日限を守って出金してほしい、と述べている。」

田無村は「江戸からほどよい距離」「交通の要所」「寄場村であり改革組合村の
伝達システムを使える」「名主の協力が期待できる」、このような理由で振武軍が
駐屯地に選んだものと思われます。


さて、今週の「青天を衝け」。
渋沢篤太夫が新選組の土方歳三と、大沢源次(治)郎の捕縛に向かいました。
わりと地味な篤太夫の幕臣時代で、派手な見せ場のシーンです。
そのためでしょうか、不逞浪士らと刃を交える殺陣のシーンがありました。
しかし新選組と協力しての捕縛は事実なのですが、実際には大沢は無抵抗で
縛についたため、あのようなアクションシーンはなかったようです。

このエピソードは渋沢栄一の孫、市河晴子の「市河晴子筆記」に書かれていて、
これが出典かと思われますが、筆記には「この話も有名なので、よく書いてある
から」とあります。すでによく知られた話だったようです。
ただ、この筆記、全体に小説仕立てになっているため史料とするにはどうなんだ
ろう?ってちょっと思ってしまうんですよね。まぁ、晴子は祖父様(栄一)にちゃんと
添削してもらっているようなので、ウソは書いてないと思いますが。

ところがです。
栄一の自伝「雨夜譚」には、「新選組の隊長近藤勇に引合へ」大沢をどちらが
捕縛するのかを近藤と話し合い、実際に捕縛も「自分は近藤勇と共に寺院の
中に進み入って」と、一緒に行ったのは近藤勇だと言っているんですよね。
これ、どちらが正しいのでしょうか?

篤太夫が大沢捕縛について話し合ったのが近藤で、実際に捕縛に行ったのは土方
だったとすればいいのでしょうか?

町田啓太 吉沢亮a

捕縛した大沢を江戸に護送する役目を成一郎が命じられ、ここで成一郎は土方と
初対面。「そなたも渋沢か?」と土方は笑い、成一郎は不思議そうな顔をします。
これは創作かと思います。
後の土方と成一郎の未来につながる伏線としたようですね。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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[ 2021/06/28 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(4)

田無村組合大惣代

組合村の「大惣代」の研究というのは、幕末期を知る上で、つくづく必須事項だと思わされます。
大惣代は一ケ村の名主以上に権限や裁量の幅が大きく、本人の能力がそのまま地域の政治に影響を与える。日野宿組合の佐藤彦五郎や鈴木平九郎、それに下田半兵衛など、皆傑出した人物なのでしょうが、それだけに自身の秘密を隠すことも巧みで、(影の部分も含めて)全てが一気に明るみにでることがない。こうやってイッセーさんみたいにちょっとずつ光を当ててくれるのは本当に興味深いです。
それに田無はすぐれた郷土史家の方々が数多いるので、運よく、そういった方々のお話や刊行物に触れられると、その度に感嘆しますね。
結局、「自分は何にも知らねえな」と(このブログ読んでても)毎回思います。

「青天を衝け」、土方歳三の登場も嬉しいのですが、なんと「杉浦譲」が出たらしく、甲州人の私としては歓喜の涙ものです。
[ 2021/07/09 10:50 ] [ 編集 ]

甚左衛門さま

いやぁ、甚左衛門さんも相当にお詳しいと思います。いつもコメントなど参考にさせていただいてますし、初めて聞くことも多いので、これからも頼りにしております。

大惣代については仰るように、あえて記録を消している部分が多いと思います。まぁ、佐藤彦五郎のように新政府から追及を受けた人もおりますし、命がけの明治維新だったのでしょうね。

杉浦譲は志尊淳でしたね。彼はNHKによく起用される俳優ですし、栄一と共にこれから先のフランスで登場するシーンがきっと多いと思いますよ^^
[ 2021/07/09 13:30 ] [ 編集 ]

下田半兵衛

下田半兵衛というのは田無の名主にして組合大惣代。周辺地域で厳然たる力をもつ顔役であったことは確かですが、
なんと、この下田半兵衛(幕末期)は、実は田無の生まれではなく、
所沢在の「上新井村」の生まれで、幼少の頃に下田家へ養子に入った人物とのことで、この辺の事情が田無神社の水鉢(大型)に、おおっぴらに書かれています。
このあと振武軍の一隊が所沢方面へ向かったのと、半兵衛の出自との間に
関係があったのか無かったのかはわかりませんが、江戸時代末期に、一般民の認識では、「田無→所沢→扇町屋」という道は、青梅街道よりもよく使われた道だったようです。

↑のことは、所沢の木村先生(とにかくすごい見識の学芸員さん)に教えてもらいましたが、
半兵衛が「振武軍」の動向にこんなに関わりをもっていたとのことは、このブログを読んで初めて知りました。
こういう点からも、もっと多摩の個々の人物に注目し、彼らが何をしたのかを明らかにすることは大事なことだと思わされます。
[ 2021/09/26 21:11 ] [ 編集 ]

甚左衛門さま

下田半兵衛についての情報をありがとうございます!
近いうちに田無神社へ行ってみますね。
田無と所沢の関係がより強く感じられる話ですね。
所沢は寄場村でもありますし、青梅へ行くよりは交通量が多かったというのは納得できます。
[ 2021/09/30 22:18 ] [ 編集 ]

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