前回の「青天を衝け」で、渋沢栄一と喜作は突然平岡円四郎から一橋家の家臣に
ならないか、と声を掛けられました。いよいよ二人の運命が動き出しそうです。
平岡に「なかなか見どころのあるヤツがいますよ」と栄一・喜作を紹介したのは、同僚
の川村恵十郎だといいます。前回の放送で栄一を円四郎の待つ長屋に引っ張り込んだ
人物、あれがそうですね。波岡一喜さんが演じています。

でも、ドラマでは栄一・喜作が川村恵十郎と知り合った話ってありましたっけ?
実は川村が二人を平岡に紹介したのは史実なのですが、川村がどこで二人を知ったのか
は、「渋沢栄一伝記史料」によっても不明なのだそうです。
そこで今回は、川村恵十郎がどこで栄一・喜作を知ったのかを推理してみたいと思います。
川村恵十郎は天保6年(1835)小仏関所番の幕臣川村文助の長子として、武州多摩郡
上長房村駒木野(現八王子市裏高尾町)に生まれます。(天保7年生とも)
21歳で小仏関所番見習となりますが、その後慶喜への建白書や平岡円四郎への農民募兵
の建言で才能が認められ、一橋家臣となります。慶喜が将軍になるとそのまま禄高
1000石を賜る旗下に列し、維新後は新政府に出仕しています。
彼の経歴の中で見逃せないのが、18歳の嘉永5年(1852)9月、天然理心流の松崎
和多五郎に入門しているということです。
天然理心流は二代目宗家近藤三助のあと、幾つかの派に分かれました。
新選組の知名度が高いので、試衛館の近藤派が中心だったと思われがちですが、八王子に
拠点を持っていた増田蔵六・松崎正作派に多くの門人が集まりました。
その理由としては、三助が八王子の戸吹村出身であったこと、増田・松崎が八王子千人
同心であり、千人同心が多摩各地へ拡散するに従い同派も広がっていったと思われます。
惠十郎は千人同心ではありませんが、同派に入門するのは自然な流れだったのでしょう。
天然理心流では上達の段階を示す伝授として切紙、目録と続きますが、平均して入門から
目録まで3年を要したようです。しかし惠十郎は入門から1年半で目録伝授まで行って
ますので、剣の技術は高かったものと推察します。
なお、後に同じ天然理心流の小野田東市に入門していますが、この移動の理由はわかり
ません。小野田は天然理心流の系統上は浦賀奉行所の中島三郎助と兄弟弟子になります。
また、講武所師範にもなっていますので相当な遣い手だったのでしょうね。天然理心流で
講武所師範となったのは小野田だけです。
さて、ここでもう一人。
血洗島で栄一、喜作、尾高惇忠らの横浜外国人居留地襲撃計画に参加していた人物。
剣術師の真田範之介です。ドラマでは板橋駿谷さんが演じています。

朝ドラ「なつぞら」で主人公なつ(広瀬すず)の通う高校の番長を、30歳という年齢で
演じて話題になった板橋さん。
ドラマでは北辰一刀流の達人と紹介されていますが、その経歴を見てみましょう。
範之介は天保5年(1834)、武州多摩郡左入村(現八王子市左入町)の名主の子
として生まれます。本名は小峰軍司。
当時多摩の村役人の子弟には必然的かもしれませんが、彼も剣術を習います。
流派は北辰一刀流かと思いきや、実はそうではないんですね。
嘉永5年2月、彼もまた天然理心流松崎和多五郎に入門するのです。
つまり、範之介と惠十郎は年齢も近く、同じ時期に松崎門下生だったことになります。
範之介は1年2ヶ月で目録、さらにその1年7ヶ月後には目録の上の中極意目録まで
伝授されています。通常目録から中極意目録までは平均3年2ヶ月かかったらしいので、
範之介の技術の高さが伺えます。
安政2年(1855)正月に、増田蔵六の高弟である山本満次郎に入門。
ところが、翌3年(1856)4月、相州鎌倉郡平戸村の直新影流萩原連之助道場を訪
れた際の剣客名簿には「北辰一刀流千葉周作門人 真田範之介」と記しています。
つまり、何があったのか分かりませんが、山本道場に通う1年の間に流派と名前を
変えたということになります。
千葉周作の玄武館では塾頭を務めていたので、やはり技術はあったのでしょう。
安政7年(1860)3月、秋川神明社に松崎和多五郎が奉納額を納めていますが、客分
として範之介も名を連ねていることから、流派は変えても天然理心流とは円満な関係
であったようです。
「青天を衝け」の中で触れられてはいませんが、川村恵十郎と真田範之介は顔見知り
だった可能性は非常に高いといえましょう。
その確証を高めるもう一つのポイントがあります。
それは「武術英名録」です。
これは万延元年(1860)8月に刊行された、江戸市中を除いた関東各地の名前の
知られた剣術家を載せた、まぁ今でいえばプロ野球選手名鑑のようなモノです。
この編集をしたのが、無双刀流の江川主殿輔と北辰一刀流の真田範之介でした。
英名録というのは、編者が過去に手合わせをした人から選ぶのが通例だそうですが、
この「武術英名録」の中に「天然理心流 川村恵十郎 駒木野宿」という記載がある
のです。
恵十郎を選んだのは範之介で間違いないでしょう。
範之介が恵十郎の剣の実力を認めているということは、和多五郎道場にいた入門
当時ではなく、範之介が北辰一刀流に流派を変えたのちもお互いの交流があった
ことを匂わせます。
ここで一つの推論ですが。
渋沢栄一・喜作の存在を川村恵十郎に教えたのは、真田範之介ではないでしょうか。
栄一は範之介のいた千葉道場に通っていましたし、千葉周作が剣術師範をして
いた縁で千葉道場と水戸藩は繋がりが深い。
慶喜が優秀な家臣を探していると聞けば、範之介は栄一らを恵十郎に紹介したの
ではないでしょうか。範之介は慶喜が斉昭の意を継ぐものと思っていたでしょうから。
以上はあくまでもワタクシの妄想でありますが、さて「青天を衝け」ではどんな説明を
つけてくれるのでしょうか?
さて、ここからは蛇足。
真田範之介には年の離れた弟がいました。安政元年(1854)生まれ、範之介が
元治元年(1864)に新徴組と斬り合って死んだときにはまだ11歳だったので、
もしかすると顔も覚えてないかも・・・ですが。
弟の名前は敷島文雄といい、彼もまた北辰一刀流の剣を学びます。
後に八王子で「錬武館」という道場を開き、多くの門弟を育てたようです。
敷島が明治19年(1886)9月1日に埼玉県所沢市の山口千手観音に奉納額を
納めていると知りました。
山口観音といえば、東大和市のワタクシの自宅から自転車ですぐの距離。
早速見に行ってみました。

正式には吾庵山金乗院。弘仁年間(810~824)に開かれた伝承をもつ古刹です。
新田義貞が鎌倉を攻める途中で立ち寄り、勝利を祈願したといいます。

本堂にはいくつもの奉納額がありますが、書かれた文字がすべて読めなくなって
います。
しかし、お目当ての錬武館の奉納額は人目につかない壁の奥(矢印)にありました。

コチラがその奉納額です。
かなり文字が薄くなっていますが、陽に当たってないだけうっすらと文字が見えます。
門人230人の名前があるそうです。
かなり遠ーーーーーーい関係ですが、真田範之介と地元との縁を見つけました。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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『青天を衝け』をほとんど見れてないのですが、先日たまたま目にした回に、川村恵十郎さんが出ていました。何でも主人公たちを「みじん切り」に出来るほどの腕前とかで、無口で凄みのあるのキャラクターでしたね。八王子の人とは親近感が湧きます。それにしても剣術流派というのは、こんな風につながっているのか!と記事を読んで思わされました。本当面白い。
山口観音の奉納額は、私も興味があって、去年訪れたところ、既に見れない場所にあるとのことで残念でした。
それでもお願いしたらご住職がすごく親切な方で、すぐに懐中電灯片手に登ることを許可してくれたのですが、板が薄く、釘も出ていて這々の体で逃げ戻りました…
後で知ったのですが、入間市文化財研究同好会の「いるまの文化財 177号」に吉田茂雄様と言う方が額の全翻刻をしてくれています。(素晴らしい成果物です)登った私はただの馬鹿でしたね。
私のお目当ては、この奉納額に名を載せる二代目島田虎之助という剣客博徒だったのですが、敷島先生も、後年八王子で小仏一家に剣の稽古をつけたり、用心棒をなさったとかいう話を読んだ記憶があり、非常に興味を持っております。
真田範之助と言う人の弟だったとは、恥ずかしながら初めて知りました。
全くいつも勉強になります。
サスガ甚左衛門さん。敷島文雄をご存じだとは!
ワタクシは真田のことを調べていて、初めて知った次第です。
二代目島田虎之助は博徒だったのも初めてしりました。私がこの人のことで知っているのは、府中宿に来て佐藤彦五郎に手合わせを申し込んだというエピソードです。
ただ、この時は元治元年4月で近藤勇が京都に行ったあとであり、彦五郎は勇から自分の留守中に試合をするなと言われており実現しなかったそうですが。
また、虎之助は狂歌もよく詠んだそうで、博徒といってもそれなりの人物だったのでしょうね。敷島の門下生だったことも初めて知りました。それで彦五郎らと手合わせしたかったのかな?
良い話をありがとうございます。
どうも島田虎之助(幸造)は、敷島さんの「門人」ではなく、
交流のあった、お友達の「剣術先生」として名を入れてるようです。
他に谷路司作、三田佐内、楠正重(こんな人いるんか…)、近藤信休なんて名前がありました。
島田に関しては、一番早く言及したのは子母澤寛先生の『幕末奇談』っぽくて、実は虎之助の子ではなく、高弟だったとのこと。
さらに興味深いことに「振武軍」にも参加したという話題も上がっています。
齢80歳まで青梅の自家の道場で門弟に稽古をつけ続け、
ある日、稽古の途中、不意に意識をなくして亡くなったとの話ですが、
武芸者として、
なんとも理想的な、魅力的な生き方をした方だと私は思っています。
島田虎之助が振武軍に参加していたというのは、見逃せないエピソードですよね。
以前から甚左衛門さんがご指摘している、幕末の新政府、佐幕ともう一つの勢力としての侠客の有り方に一層裏付けを与えてくれそうな話です。
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