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「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑦ 天野八郎

慶応4年(1868)2月、一橋家に近い旧幕臣たちが、慶喜の汚名を雪ぎ薩賊を
殲滅せんと結集いたします。即ち、
12日 雑司ヶ谷茗荷屋にて 17人
17日 四谷円応寺にて 30人
21日 同所にて 67人

この中で、出自は農民ながら持前の才覚で頭角を現わし、慶喜の奥祐筆格まで
勤めていた渋沢成一郎が頭目に推されることは、当然のことでした。
しかし、そこにもう一人変わった経歴の男が居り、その彼がこの集団と成一郎の
将来に大きな影響を与えるのであります。
男の名は天野八郎。

➀天野八郎a

ということで、今回のお話は天野八郎についてです。

天野と渋沢成一郎・栄一とは共通点がいくつかあります。
まず出自が武士ではない。
上野国(群馬県)甘楽郡磐戸村の庄屋、大井田吉五郎の次男として天保2年(1831)
に生まれます。天保10年生まれの成一郎より8歳上。幼名を林太郎、諱は忠告。
父吉五郎(諱は忠恕)は神田小柳町で公事宿を営んでおり、いつも不在だったため
母親の手で育てられたようです。幼き頃より読書学問を好んだそうですが、この時代
に活躍する人はだいたい同じように小さいころから学問を好みますな。
そして父を頼って江戸に出て、今度は剣術修行に明け暮れます。この辺りも一緒。
剣の流派は直新陰流でした。
20歳のときに父親が亡くなったので磐戸村に帰るのですが、郷里で博識で知られた
黒瀧山不動寺の住職通梁禅師の元で禅学も収めます。また、そのころ近所に山田屋
常次郎という強欲な金貸しがいて泣かされた人が多かったのですが、林太郎はコイツ
を懲らしめるなどして、正義漢ぶりを示していたそうです。
ここまで読むとカタブツな性格を想像しますが、一方で狂歌俳句、囲碁将棋も好み
漫画のような絵も描けば、母親と江の島参詣に行った様子を綴った「江の島道中
出たらめ記」というユニークな文章を書くなど、多芸でわりとオモローなキャラクター
だったことも想像できます。

武士農民を問わず「国事を憂う」という流行り病にかかるのが、この時代の学問剣術を
収めた若者の特徴ですが、林太郎もそれに漏れません。
水戸学に傾倒し尊王攘夷思想に溢れていた彼は、井伊直弼による日米修好通商条約
に激怒して再び江戸に出ていくのです。
この辺りも成一郎・栄一と一緒ですね。

次回の「青天を衝け」では、成一郎・栄一・尾高惇忠らの横浜外国人居留地襲撃計画が
取り上げられますが、林太郎も同じような計画を立てています。
ただ、農民が武器を揃えてそのまま討ち入る・・・というような惇忠らの単純な計画とは
違い、林太郎の場合はもっと計画的です。
それは、水雷艇のようなもので水中を潜航し外国船に近づき、爆弾を仕掛けて導火線で
撃沈させようというものでした。これが机上の計画だけではなく、実際に厚紙などを張り
合わせて水雷艇を作り、隅田川で実験をしたというのだから本格的。
林太郎が江戸や諸国を渡り歩き、どう頭角を現わしたのかは不明なことが多いのですが、
何の伝手を使ったのか、この水雷艇計画を時の老中井上河内守に上申したといいます
ので、その行動力にも驚きます。

結局計画は採用されずに・・・まぁ、幕府は外国と戦争する気はないんですから・・・
終わったワケですが、これを機に林太郎は徳川家との関係を深め、特に一橋家との
関わりを深くしていったといいます。
これも成一郎・栄一と似ています。

そして慶応元年(1865)、林太郎は江戸の定火消与力を務めていた広浜氏の養子
となり、ついに幕臣となるのです。
ところが不思議なのは広浜家の養子に入りながら、その頃から天野八郎を名乗り
だしたことです。これについては八郎の出身地磐戸村から「天の岩戸」に引っ掛け
シャレた、という冗談みたいな話が伝わっているのですが、どうもコレは本当らしい。
まるでタレントが芸名をつけるみたいですが、よく広浜氏が許しましたね。

八郎の家には、定火消の広浜氏伝来の一筋の鑓がありましたが、八郎はこの鑓に
「香車」の印をつけていました。自ら「之れ一歩も横へ行き後ろへ引くの道なきを
表するの証なり」と言っているように、一本気な性格がよく見えます。

八郎の外見については「眼光鋭く背丈は五尺二寸くらいで小太り、歯並びは悪いが、
笑うと頬にえくぼが入り、何となく愛嬌があった」そうです。
また、体型のわりに身が軽く2間(3,6m)の濠など軽々と飛び越えたとも。
冒頭の写真はその肖像画です。確かに研音とかジャニーズにいるタイプではない
ですが貫禄はありそう。ちなみに天野八郎というとこの肖像画しか世に出ていなかった
のですが、最近になってご子孫から全身の写真が発表されました。広浜氏の養子と
なる慶応2年の写真だそうですが、小太りではなくどちらかというとやせ型です。
先に上げた彼の人相は集会に現れるころの様子でしょうから、ほんの2年ほどの間
にナニがあったんでしょう、八郎?

さて、2月23日浅草本願寺において4回目の集会が開かれます。この時には参集者
は130人に増えていたといいますが、そこでこの集団を「尊王恭順有志会」と名乗り、
さらに「彰義隊」と命名することに決しました。
そして幹部の人選が行われ以下のように決まったのです。

頭取  渋沢成一郎
副頭取 天野八郎
幹事  本多敏三郎 伴門五郎 須永於菟之輔

言い出しっぺの本多ら3人が幹事、慶喜の側近中の側近だった成一郎が頭取という
のは分かるのですが、一橋の家臣でもなく幕臣といってもコレといった身分もない
八郎がなぜナンバー2の地位にまで推されたのでしょうか。

おそらく八郎にはある種のカリスマ性があったのだろうと、多くの本が指摘しています。
それは強欲な金貸しを懲らしめた正義漢の部分や、剣の技術、知識の豊富さ、また
水雷艇一件での行動力などが根拠になっているのでしょう。
また、ユーモアがあったり、強面ながらキュートな部分があったりというのも、人を引き
つける要素だったりしますからね。
ただ、それでも130余名の集団の幹部に推されるには、それまでいくつかの指導力
ぶりを発揮したシーンがきっとあったのだと思います。

というワケで、慶喜の名誉を回復し薩長を討つ目的で結成された彰義隊。
2月21日の夜には八郎が成一郎の家を訪れ、義兄弟の盃を交わしたといいます。
それを経ての23日の頭取、副頭取。
このときまではよかったのです。ところが・・・続きは次回。

まだ先になるでしょうが、「青天を衝け」でも出てくるでしょう、天野八郎。
どなたが演じるのか楽しみです。

image0a.jpg
大蘇芳年が描いた天野八郎(右下)。もちろん、想像図ですけどね。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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[ 2021/04/30 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

天野八郎

「眼光鋭く背丈は五尺二寸くらいで小太り、歯並びは悪いが、笑うと頬にえくぼが入り、何となく愛嬌があった」そうです。また、体型のわりに身が軽く2間(3,6m)の濠など軽々と飛び越えた…」

これは「歯並び」を除けば、私的には、若山富三郎氏を彷彿とさせます。
あるいは弟の勝新太郎。どちらも当代無双の殺陣の名手だったし。
こういう「一回会ったら忘れられない」という風貌も、
衆に持ち上げられるための必須条件なのかもしれません。
やっぱり命を張らなければならないような事態が頻繁に起きる幕末期には、
生命力の強そうなリーダーに付いてゆきたくなるのが人情なのかもしれませんやね。
[ 2021/05/07 22:10 ] [ 編集 ]

甚左衛門さま

最近、YouTubeで柳沢慎吾が体験した若山富三郎エピソードを見たばかりでして。かなり怖い人だったようですね。まぁ、想像できますが。
ただ、あれだけ活躍した人ですので、怖いだけではなく面倒見も良かったのでしょうね。でなければ人はついてきませんから。
勝新さんもけっこうユーモアがありましたから、仰るように天野は似たようなキャラクターだったのかもしれませんね。
ただ、彰義隊を結成時で天野は36歳くらいですから、現代人に比べて貫禄有り過ぎですよね。
[ 2021/05/10 23:12 ] [ 編集 ]

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