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「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑥

14代将軍徳川家茂(磯村勇斗)と皇女和宮(深川麻衣)の結婚が決まり、和宮の
江戸城入りとなった前回の「青天を衝け」。
和宮様の東下りは中山道を使っての道中でした。そこで血洗島の住民たちが
深谷宿まで人足として駆り出されることになります。これに対して栄一がえらく
憤慨しておりました。

良い子のみんなはもうご存じでしょうが、これは助郷ですね。
年貢とともに農民が納めなくてはならない税の一つ。労働税です。
各藩や幕領など地域によって多少の違いはあったでしょうが、江戸時代を通じて
農村に与えられた賦役なので、今更栄一が助郷に対して憤るのもちょっとピント
がズレている感じがしました。
ましてや、血洗島は江戸に出るには地形上必ず中山道を通る必要があったと
聞きましたので、その街道筋に助郷を課されるのは当時の人々として当然の
感覚があったと思います。

ただし、和宮様の行列は通常勤務とは違い、特別非常招集です。
これを加助郷とか増助郷といいますが、こうした負担増に憤っているというの
なら、なるほど気持ちは分かりましょう。
ただですね、血洗島の農村が同じ中山道の深谷宿に人足や馬などを出すのは、
まだいい方じゃないかと思うのですよ。

というのも、当ブログの舞台東大和市域。
ここは大きな街道でいうと成木道(青梅街道)沿いに位置します。成木道は甲州
道中の脇街道ですから、当時の蔵敷村や奈良橋村などは甲州道中沿いの宿へ
助郷を出すことになっていました。
ところが、和宮様の行列に際しては、さらに中山道の浦和宿まで助郷を出すように
命令が下ったのです。
お手元に地図のある方は見ていただきたいのですが、東大和市から浦和市までは
けっこうな距離ですよ。

「里正日誌」には次のような記録が残っています。

文久元年酉年
浦和宿江増助郷中諸書付控
 九月  日
                     名主 杢左衛門

文久元酉年冬京都より和宮様江府へ御輿入れにつき、中山道浦和宿より増助郷
差村いたされ候持廻りの写し

今度、和宮様御下向当筋御通輿遊ばしなされ、右人馬御継ぎ立てにて定助加助
右助合(ママ)打ち込め候とも、とても人馬引き足らず申し候につき、その御村々
差村の上当宿へ当分増助合(ママ)願い上げ奉り候段、御奉行様へ願い上げ置き
候につき御心得なされ前もってお掛け合いに及び候。なお追って御証文頂戴お達し
申すべき間、兼ねて御心得その節差し支えぬよう御取り計らいなさるべく候。この
廻状御村下へ御請印この者へ御戻しなさるべく候、以上。

酉九月
         中山道浦和宿  年寄 隼之介
                    問屋 星野権兵衛

小川村 同村新田 中藤村 蔵敷村 芋久保村 同村新田 高木村 林村 糀谷村
藤沢村 矢寺村 神谷新田 北田新田 所澤村 三ケ嶋村 亀ヶ谷村 舘村 平塚新田
中安松村 所澤新田 横田村 粂川村 上白子村 膝折村 下片山村 門前村 前沢村
落合村 小山村 神山村 大沼田新田 廻り田新田 柳久保新田 柳久保村 下里村
岩岡新田 鈴木新田 〆三十七ケ村

右酉九月八日 浦和宿年寄林蔵百姓熊次郎持参廻り


実際には高木村、矢寺村、神谷新田は抹消線が引かれているので、34ヶ村にこの廻状
は廻ったようです。
ではどれだけの人足が供出させられたのでしょう。
たいていは各々の村の石高によって、出す人足の数は決まります。
34ヶ村の中で東大和市域は蔵敷村と芋久保(芋窪)村になりますが、参考までに近隣の
小川村(小平市)と中藤村(武蔵村山市)も書き出してみます。

蔵敷村   高215石   人足34人   才領3人
芋窪村   高464石   人足74人   才領7人
小川村   高672石   人足108人  才領11人
中藤村   高1400石  人足224人  才領25人


石高6石につき1人の割り当てだったようですね。なお、才領とは監督者のことで、約
10人に1人の監督者がついたようです。

これらの人たちがどのようなスケジュールで任務に就いたのかは、杢左衛門から江川
代官所に出された書状で確認できます。

恐れながら書付をもって申し上げ奉り候

武州多摩郡蔵敷村ほか五ヶ村役人惣代、右蔵敷村名主杢左衛門申し上げ奉り候。
先般御届け申し上げ置き候私ども村々、今般 和宮様御下向につき中山道浦和宿
御伝馬臨時助郷相勤め、右は十一月十日より右宿方へ罷り出で、翌十一日高百石
につき弐人、なお十二日は同宿詰め同断につき三人。同日桶川詰め同断六人、なお
同日夕酉の下刻より浦和宿矢来詰め百石につき五人、十三日浦和宿詰め同断につき
五人、同日桶川詰め同断拾人。なお十四日夜板橋詰め同断三人。十五日十六日両日
浦和宿にて百石につき三人宛て相勤め、都合高百石につき四拾人の勤め高に相なり、
右の通り相勤め滞りなく御用済みに相なり候間、此の段御届け申し上げ候。以上。
 
     武州多摩郡 蔵敷村 芋久保村 中藤村 横田村 小川村 同新田
             右村々役人惣代

文久元酉年十二月十九日     蔵敷村 名主 杢左衛門

江川太郎左衛門様 御役所


11月10日から一週間。浦和宿だけではなく、桶川や板橋にも行かされていたようです。

将軍家茂と皇女和宮の結婚、公武合体政策は幕末の一大イベントでしたが、それを陰で
支えた農民側から見てみるのも興味深いと思います。


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[ 2021/04/23 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(0)

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