天狗党、挙兵す!

前回は東大和の村民が、甲州道中の小仏関所というエライ遠くの場所
まで番人や人足の仕事に行かされた事を書きました。
それは、攘夷派浪士たちの活動が活発となり、関所などの守りをより
固めなければならなくなったことが原因だったんですね。

関東で尊皇攘夷派の集う拠点といえば、やはり水戸藩です。
水戸藩は徳川御三家ですし、幕府寄りなんじゃないの?と考えがちです
が、親藩であると同時に水戸学発祥の地でもあるんですな。
皆さんよく御存じの里見浩太郎・・・もとい水戸黄門の光圀さん。
彼は水戸藩の二代藩主ですが、「日本の正統な歴史を研究するんだッ」
と藩を挙げての一大事業。「大日本史」を編纂させます。
八兵衛とダンゴ食ってただけじゃないんですね。
日本の歴史といえば即ち天皇の歴史ですから、ここから尊王の考えが
培われてくる。さらに、ナショナリズム精神から攘夷思想も生まれやすく
なるわけです。
水戸のある常陸国(茨城県)は太平洋に面していますし、外敵からも攻め
られやすい・・・そうした事情も攘夷に結びついたかもしれません。

水戸藩はそんなワケで、あくまでも徳川将軍家一門の立場を守る保守派
と、尊王第一の立場を取る人たち両方がいる藩だったんです。
幕末に藩主だったのが、徳川斉昭。彼は藩政改革を実施するために、
門閥にとらわれず改革派の人材をドンドン登用していきました。
彼らは身分は軽い家柄でしたが、水戸学に影響を受けた尊攘精神の強い
者が多かったんです。
それまで藩の重役だった保守派の人たちは、こういった改革派を「天狗」
と呼んで嘲りました。これが「天狗党」です。
妖怪の集団ではありません。それじゃ、リーダーが水木しげるセンセイに
なっっちゃうでしョ。

この天狗党が、幕府の攘夷延期を不満として元治元年(1864)3月に
筑波山で挙兵しました。

「   亥(1863)5月27日関東御取締出役より廻状の写し
浮浪の徒の取締については追々触れているが、先日以来、下野国
大平山や常陸国筑波山などに大勢集まり、所かまわず歩きまわっている。
彼らは水戸殿御家来や水戸藩内の者で、前藩主の遺志を継ぐなどと言って
いると聞く。聞き捨てならないことであるが、水戸殿自らの手で取り鎮める
とも仰せだったのでお任せしておいたが、彼らはますます増長し最近では
右の場所にとどまらず、異形の恰好をして20~30人ずつ集団で歩きまわり
、中には無宿人や悪党も加わって金銭を押し借りし、百姓たちの難儀も
少なくない。そこで大平山や筑波山に集まっていた者どもは速やかに水戸
藩内に引き上げてもらうようにした。以後、異形の恰好で歩きまわり軍用金
などと言って金銭を押し借りするのはもちろん、全て過去に触れを出したよ
うに往来を改め、浪人体で怪しいと思われた者は、たとえ水戸殿の名前を
出したとしても召し捕え、手向かいした場合は斬り殺しても、打ち殺しても
かまわないとする旨を厳しく触れ、水戸殿へも知らせたので、右の事を心得、
それぞれの領分、知行地ごとに家来を差し出し時々見回ること。万が一、
不法者がいれば逮捕するか討ち取り、多人数の場合は隣の領地とも話し
あい互いに助け合うこと。二つ以上の領地にまたがった場合は村人たちが
申し合わせ逮捕すること。もっとも手に余るときは不法者を打ち殺しても
かまわない。御領、寺社領、小さな領内で家来が詰めていない場所は、
最寄の領主や地頭が心を配り、報告があり次第速やかに人を差し出し、
浮浪の者のために村々が難儀をしないように厚く世話すること。
但し、関東取締出役が村々を廻るときには、相互に打ち合わせをすること。
右のことを関八州、ならびに越後信濃の国に領分や知行のある者へ洩れ
なく触れられるべきものである。
    (以下略)
   5月27日    関東取締出役

右の廻状をうけて、6月6日に組合の村々で集会を持ち、怪しい者が立ち
まわった村では竹貝を吹き鳴らし、近隣の村では版木を打ち叩いて、竹貝
が吹かれた村へ駆けつけ、逮捕したり討ち取ったりする手筈を整えておい
た。」

 ※亥(1863)は筆者の間違い。正しくは子(元治元年 1864)

関東取締出役から、天狗党が挙兵したことと、その対策を知らせる廻状が
村々にも廻ってきたようです。
取締出役は関八州が管轄地域ですが、水戸藩領は除外されていました。
やはり親藩だからですかね。
なので元治元年3月の天狗党挙兵には、手を出すことができなかったんです。
「おいッ、ヤツら天狗党には手出しできねーゼ!」
そう思った悪党や無宿人たちが、天狗党にことよせて村々を横行するように
なり治安が悪化していったようなんです。
そこで、過去に出した厳しい取決め通りに「これからは水戸藩関係者だから
って見逃しはしないよ。ガッツンといくよ!」と宣言したわけです。

つまり、天狗党そのものの警戒というよりも、東大和など狭山丘陵周囲では
テングを騙った輩が多く出没し、その狼藉者対策として出された書状のよう
ですね。
もっとも、中には尊攘派の過激派浪士もいたかもしれませんが。

天狗党の活動は、幕府に対しての攘夷行動というだけではなく、関東周辺の
地域に様々な影響を与えていたんですね。

20130220.jpg

新選組だと、局長だった芹沢鴨が「天狗党出身」を売りにしていました。
彼は筑波山の挙兵にも関係があったのでしょうか?
答えは「NO」です。芹沢さんは文久3年9月に亡くなってますから。
当時、水戸藩には「郷校」と呼ばれる学校がありました。下級の藩士や
豪農、神官などが学ぶ藩校のようなもので、この郷校が尊皇攘夷運動の
拠点になっていたんです。芹沢さんもそこに通っていたようです。
彼らが記事に書いたように「天狗」と呼ばれた人たちだったんです。
芹沢さんは郷校の中でも気勢の高かった玉造郷校にいましたが、この
郷校に100人ほどの尊攘派が集まったため、藩から解散命令が出され
ます。
しかし、芹沢さんはこれに応じず仲間らと脱走。さらに文久元年(1963)
に名主や旅籠から攘夷を名目に押し借りを働きます。そして、捕縛に来た
役人に怪我を負わせたとして牢にブチ込まれてしまいます。
文久2年(1862)12月に釈放され、その後向かったのが江戸。浪士組
に参加するのです。
京都でも大暴れした芹沢さんですが、地元でも天狗級の暴れっぷりだった
みたいですね。

ところで、茨城は納豆が有名ですが、「天狗納豆」というブランドがありまし
て、これが激ウマ!ニオイが強く糸をガンガン引くストロングスタイルの
納豆です。
県内でしか手に入らないみたいなんだけど・・・ん~、そんなこと言ってたら
食べたくなってきちゃいましたヨ。


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#169
 こんばんわ。
 毎回、新撰組4コマ楽しませて頂いています。天狗党というと、吉村昭先生の小説が思い出されます。史実を調べぬいた上で、余計なものを加えないで小説になさる先生のような方が出るとまたいいのですが・・。
 そういえば、沖田の「講武所まげ」の月代部分はどれくらいの広さなのでしょうね?一般的なイメージは4コマのような感じでしょうが、実際はもっと狭かったのかなぁ・・・武者ピーで沖田のまげも造ったので気になる所ではあります。
#170 サムライ銅像研究会さま
沖田総司の髪型について書いてあるものって、実はあまりないですよね。
親族をモデルにした絵とかありますけど、確かに月代が狭いですね。
私が子供の頃、新撰組ドラマで草刈正雄さんが沖田役を総髪を束ねた姿で演じてて、
それが印象に残っているんですが、現実には月代を剃ってたんでしょうね。

新撰組武者ピー、傑作でした!

#171 河童と天狗と
史料引用の初めのほうの「不利卯」は「浮浪」の意味に捉えてよいでしょうか?

芹沢鴨の出自は謎に包まれてますが、生家が医業をしていたという説がありますね。
この芹沢家には、「筋渡薬(すじわたしぐすり)」なる打ち身の薬が伝わっており、その製法はご先祖が河童から教わったとか。
家伝・打ち身の薬・河童伝説とくれば、ご存じ土方家の「石田散薬」。
この三拍子そろった共通項に、いろいろな想像が脳内を駆け巡りませんか?(笑)

天狗納豆、以前はうちの近所(茨城県外)でも買えましたが
近頃はお◯め納豆に駆逐されてしまったみたいです。
#172 東屋さま
先ず始めに、スミマセンでした。私の入力ミスで「不利卯」になっていましたが、ご指摘の
通り「浮浪」です。修正しておきました。ありがとうございました。

仰るとおり、芹沢家は医術に優れていたようですね。あさくらゆうさんの書かれた記事に
よれば「筋渡薬」は会津藩からも製法を乞われ、現在でも処方されているとか。
しかし、その薬が「打ち身薬」で「河童から教わった」というのは初めて聞きました。
ホントに石田散薬と同じですね。確かに脳内を想像が駆け巡ります!京都で芹沢さんと
土方さんは薬談義をしていたのでしょうか・・・!?

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