甲州道中小仏関所

このところ東大和市域からハズれた話ばかりでしたので、軌道修正。
幕末の東大和の話に戻りましょう。
「って言いいながら、なんだよこのタイトル。ぜんぜん東大和じゃないじゃん!」
まぁまぁ、話を聞いてくださいよ。

世の中にはムチャな話って、よくあるじゃないですか。
終電の終わった時間に「おでんが食べたいから買ってきて」って呼びだされた
とか、真夜中に国道246の厚木あたりで車から降ろされて「ここからは歩いて
帰れ」って言われたりとか。
え?そこまでのムチャはサスガにない?

けど、幕末にはそれほどのムチャ振りが、お上から降ってくるんで油断でき
ません。

「   恐れながら書付をもって申し上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷村の名主杢左衛門が申し上げます。江川さまご支配内の
甲州道中小仏の関所を固めることですが、重要な場所なのでお役人様方が
付いていらっしゃることについて、非常人足はもちろん、下番人たちも地元の
宿場や村の者だけでは勤め続けることが難しく、物資も難渋しているとの
申立てを承っております。小仏関所は蔵敷村よりよほどかけ離れておりま
すが、元々同じ支配所内でもありますし、たとえ遠いといっても万が一の
ときは、増員の番人足を差し出し、村全体で負担し勤めるよう支度いたします。
そのようにしておけば、前もって人足を用意しておき、いつでもご沙汰があれば
差支えのないようにいたしますので、何とぞお慈悲をもって右の願いの通り
お聞きなされますように願い奉ります。以上。」


元治元年(1864)8月25日付けで、江川太郎左衛門の代官所に提出された
書状です。
甲州道中(甲州街道)小仏の関所に勤めている人足や番人が足りなくなった
ので、人員を補充してくれという要望がでたようなんですが、それがことも
あろうに東大和の村々に回ってきた・・・という内容です。

土地勘のない方は地図でもあれば見ていただきたいんですが、東大和から
小仏の距離を見てください。コレ、そーとーな距離があるでしョ。
東大和が甲州道中沿いにあるわけでもないしね。
当時、江川代官の支配していた管轄地域って、確かにかなり広範囲なんです
が、それだけで「ちょっと、行ってこいや」っていうのも乱暴な話だと思います。

小仏関所を固める・・・つまり警備を厳重にするというのは、やはり先の蛤御門
の変や、その後の長州征伐の影響ではないでしょうか。
また、この後でも触れますが、この頃関東周辺でも攘夷派浪士たちが集まる
気配を見せていましたので、その対策の意味もあったのかもしれません。

だけど、ちょっと遡ってみてください。
安政5年(1858)に東大和市域は熊本藩の預所にされて、村民は横須賀
まで働きに行かされました。
そして、今また小仏へ。いろいろと「派遣注文」が入る村だったんですねぇ。
横須賀も遠いですが、小仏もまた同じように遠いです。
さらに山道だし。
どのようなルートを通り、どれくらいの任期で行ったのでしょうか?

そして、まだまだこの先。
お上のムチャ振りは続くのです・・・(泣)

20130216.jpg

山南敬助は仙台伊達家中の剣術師範の次男に生まれた、と言いますが、詳しい
ことはわかりません。当時の本人の署名に山南を「三男」「三南」と書いてある
ものがあり、「読み方が同じなら当て字上等」の当時のルールに照らし合わせれ
ば、山南の読みは「サンナン」であった可能性が高いでしょう。
新選組のスポンサーであり、近藤さんの義兄弟だった小野路村(町田市)の名主
小島鹿之助は、山南さんを「武人にして文あり」と評価しています。芹沢粛清後の
頃までは間違いなく、近藤さんの片腕は山南さんだったハズです。
小説・映画・ドラマでは、新選組内で土方さんと対立する立場として描かれ、目立
つキャラではなかった山南さんですが、大河ドラマの「新選組!」で境雅人さんが
演じてから知名度急上昇!人気隊士の仲間入りを果たしました。
番組には当時、山南さんの助命嘆願の投書が寄せられたといいますが、さすが
にそれは・・・ねぇ。


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コメント一覧

#163 きな臭いですね~
蛤御門の変や長州征伐に加えて、天狗党の乱の影響が関東ではかなり大きかったと思います。
小仏関所は、当時は麓の駒木野にあったようですが、それでも決して近いとは言えないですね。
八王子千人同心(千人隊)も駒木野の守備に派遣されたとか、そのうえ東大和にもこういう要請があったとは、深刻な人手不足がうかがえます。
長く兵農分離政策をとってきた幕府が農兵隊を作らせることに踏み切ったのも、不穏な社会情勢ゆえでしょう。
#164 小仏峠
昨年、小仏峠と笹子峠を歩きましたが、どちらも難所。小仏峠は砂利が多く歩き難くかったのを憶えています。イッセーさん愛読書の里正日誌もITの時代になって、多くの人(ブログをみる)に知られるようになってきたということですね。
#165 東屋さま
天狗党・・・まさにその通りです。この後で書く予定ですが、天狗党への警戒の
お触れが東大和周辺にも廻ってきています。
農兵についても仰る通りですね。でも、農民の側にも農兵制度を受け入れることに
地域によって温度差があったりして興味深いです。このことについても、後ほど
触れたいと思います。
#166
「小仏峠」のタイトルでコメントをいただいた方、お名前を書いていただけると
助かります。

まぁ、「里正日誌」をブログで毎回ご紹介しているのは、おそらく地球上で私
だけかと思います(笑)。
多摩地区の歴史に少しでもスポットライトが当たると嬉しいですね。
#167
 こんばんわ。
 江川太郎左衛門について調査したことはありましたが、支配下の住民の嘆願書は気がついていませんでした。大変、参考になります。英龍が偉大な人物であっても、支配下の住民らにとっては「統治者」にかわりありませんからね。歴史を見る際の、もう一つの視点に気づかせて頂き、感謝!
#168 サムライ銅像研究会さま
同じ江川太郎左衛門でも、文久の頃は英龍の息子・三男英敏、次いで五男英武へと代替わり
しています。そのあたり、やはり父親とは温度差があったのかもしれません。
この後でご紹介しますが、江川代官と村々との間で様々なかけひきが行われていたことを
示す書状があります。英敏や英武は父の遺志を継いで農兵を実現化させたのですから、
能力はあったのでしょうが、世情不安の中で父のような立ち位置にいられない事情があった
のかもしれません。

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