いやぁ、奥さん!
NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」も来月で一時放送中止ですってよ!
麒麟が来ないで「麒麟がやすむ」になっちゃいましたよ、ホントにもう・・・。
休んでたら本能寺に間に合わないよぉ!
ということで、キリンビールよりキリンレモンが好きなイッセーです。
今日のひがしやまとお散歩巡りはコチラをご紹介しましょう。
熊野神社です。

旧青梅街道から1本脇道を入ったところにあります。
鳥居をくぐって石段を上がっていくと、丘陵の雑木林の中に小さな境内と本殿が
現れます。

創建年代は不明とされますが、近くにある厳島神社が永禄年間(1558~72)の
創建と云われることから、同年代の創建と推測されています。しかし、近隣の旧家
小嶋家の古文書には天文2年(1533)創建と記されているそうです。
どちらにしても、江戸時代以前からあったことは間違いなさそうです。
祭神は伊弉諾・伊弉冉(いざなぎ・いざなみ)の両尊を祀っており、一説には修験が
勧請したと伝わります。
ちょうどこの神社の真下に「里正日誌」を著した内野杢左衛門さんの内野家があり、
内野家の鬼門除けに建立され、蔵敷村の鎮守とされたと「狭山之栞」には書かれて
います。
先ほど修験が勧請した説があるとと書きましたが、江戸時代までは「熊野大権現」
と呼ばれ、神仏が混交していました。
ところが明治になり神仏分離の命令が政府から出されます。
熊野大権現は浄海という僧侶が、太子堂という聖徳太子を祀った堂宇とともに管理
に当たっていました(蔵敷村には寺がなかったため、太子堂がその代りだった)。
村では浄海を神職として認め、国に許可を申請します。
明治2年(1869)から国による神仏混淆の調査がはじまり、韮山県は蔵敷村の
諸社は芋窪村の豊鹿島神社の神主が関わるように申し渡します。
蔵敷村では神仏混淆であった熊野大権現を熊野神社と改めて、ようやく村社と
して認められるに至りました。
この経緯は「里正日誌」の明治元年(1868)の記載に見ることができます。
「復職神職願」
当御支配所 武州多摩郡蔵敷村
鎮守 熊野社別当
真義真言宗 太子堂 浄海事
復職改名 内野大内蔵
右熊野社の義、旧弊を以て熊野権現と唱い、別当仕り守り罷り在り候ところ、
今般 王政復古神仏混淆御廃止につき、熊野権現を熊野大神と称し替え仕り、
前書の通り、浄海義復職改名相願い、速やかに神主に転じ、以来相混じぬよう
神主家族らは自身神葬祭に相定め、その余祭神祈願すべて 皇国の古道を
守り天下泰平五穀豊穣の懇祈を凝し、村中安全のため社祠守護仕りたく存じ
奉り候間、何とぞ お慈悲を以て前書願いの通りお聞き済まし成しくだされ候
よう伏して願い上げ奉り候、以上。
当御支配所 武州多摩郡蔵敷村
鎮守 熊野別当
真義真言宗 太子堂 浄海
明治元辰十一月三日
氏子惣代 名主 杢左衛門
韮山県 御役所
浄海さんは杢左衛門さんの身内でもあったようで、対応に追われていた様子が
推測されます。
熊野神社は明治の神仏分離の様子が分かる神社です。
さて、熊野神社の面白い見どころをもう一つ。
本殿の後ろは、ちょっとした崖になっており土が露出しております。

土の中に小さな石がたくさん埋まっているのが見えますか?
大きさはピンポン玉くらい。手にとると砕けてしまう脆い石もあります。
コレは
芋窪礫層(れきそう)といいます。
礫層とは小石の詰まった地層をいいますが、芋窪礫層は今から73~60万年前に
古多摩川が運んだ礫で、東大和市芋窪で地層が良く観察されるところから、そう
名付けられました。熊野神社は蔵敷ですが、ここは間近で観察できます。
現在の多摩川は、東大和市からかなり離れた南を流れていますが、その昔は
狭山丘陵の南麓を流れ、次第にその流路を南へ南へと変えていったんですね。
つまり、狭山丘陵と多摩丘陵はもともと一つの丘陵で、多摩川がこれを削ってゆき、
二つの丘陵をつくったということでしょうか。
礫層の上にはさらに赤土の地層がありますが、これが
多摩ローム層で芋窪礫層
の上に約15万年前までに八ヶ岳や古箱根火山が噴火した灰が堆積したものと
考えられています。
なんか、こういう地層とか川の話は「ブラタモリ」みたいですね。
タモさん、コロナが収束したら一度遊びにいらっしゃいませんか?
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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多摩川が最初に狭山丘陵を削り出し、次に多摩丘陵を作っていったとは…
気が遠くなるような昔の話です。
そういう地層の側に、神社や社が多く存在するということは、あるいは昔の人は現代人より肌感覚が優れていて、
かつて海だった何かを感じて、神聖な場所として扱ったのかもしれませんね。
青梅街道の新しい一面を見たような気がしました。
多摩の歴史を勉強していると、多摩川は古来から暴れ川だったということは分かりますが、狭山丘陵から多摩丘陵まで移動していたのかと思うと、驚きますね。
国分寺崖線など、その痕跡を追ってみることもできます。
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