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雲性寺の地頭墓  東大和市奈良橋

お久しぶりザード。吹雪を呼ぶ男、イッセーです。
ま、実際は南国の太陽の方が好きなんですけどね。
季節外れのご挨拶、失礼いたしました。

さて、みなさま。
前例のない不要不急の外出自粛が続きますが、お元気でいらっしゃいますか?
地方ではそろそろ自粛の緩和も始まっているようですが、お隣の韓国のように
浮かれてクラブに遊びに行ったら再び感染ドカーン!みたいなコトもありますの
で、ゆめゆめ御油断なされませぬようお願いいたします。

今回も、ワタクシのご近所お散歩史跡探訪といきましょう。
もう気分は高田純次かちぃちぃか、です。

この日歩きましたのは、ワタクシの自宅から一番近いお寺、雲性寺です。

雲性寺1

真義真言宗、豊山派。天王山観音院雲性寺。
ご本尊は阿弥陀三尊です。
参道から石段を上がると山門がありますが、この山門はかつて箱根本陣に
置かれていたものと伝わります。昭和26年(1951)に設置されました。
参道の両側は駐車場と宅地になっていますが、ワタクシが小学生の頃は
カエルがグァグァ鳴く田圃でした。ここが東大和市内で最後まで残っていた
水田です。

雲性寺2

雲性寺のご住職は、元々理科の先生をされていた方なので、植物がお好き。
境内に花を咲かせることを大事にしておられます。
この写真を撮ったのは、4月末日の頃ですので牡丹がきれいに咲いており
ました。
例年ですと、参道前に「境内に牡丹が咲いております。ぜひご覧になってくだ
さい」という立て札を建てていらっしゃるのですが、今年はそれも自粛。
ご住職も残念でしょうなぁ。
お庭を拝見しに伺うと、とても喜ばれる方なのでね。

現在の本堂が建てられる前に使われていた建物が、観音堂として境内の西側
に移されています。
軒下に奉納された献額があります。

雲性寺3

雲性寺4

「狭山札所巡拝記念」と書かれた額には、当時の大和村(東大和市)と近隣の
村々から巡拝に参加したおよそ300人ほどの名前が書かれています。
これがいつのものかというと、昭和5年(1930)なんですね。アメリカから
始まった大恐慌(昭和恐慌)の真っ只中です。
そんな大変な時代に、これだけの大人数で札所を巡ったわけで、当時の人々の
間にはかなり強い信仰心があったことが窺えます。

ちなみに、現在放送中のNHK朝ドラ「エール」で描かれているのが、この時代。
主人公の小山裕一クン(窪田正孝)は、世界恐慌の影響で留学がオジャンになって
しまいました。

本堂と観音堂の間を通って坂道を登っていきますと、墓地があります。
ここが本日ご紹介するメインポイント。
墓地の真ん中ほどに、古い墓石の一群があります。

雲性寺5

石川地頭墓です。

八王子城が落城した翌年の天正19年(1591)、関東に移封してきた徳川
家康は家臣である旗本を新しい領地に配属します。
当時奈良橋村と呼ばれたこの地に、領主としてやってきたのが石川太郎
右衛門という武士でした。
石川氏は家族と共に奈良橋村に住み、この地から江戸に通ったといいます。

地頭というと、鎌倉時代など中世の武士の呼び名だと思いがちですが、
江戸時代の旗本領主も地頭と呼ばれていました。

こちらの墓石郡は石川地頭とその家族の代々のお墓です。
ただし、初代から4代目までの石川氏当主は戒名のみ伝わり墓石はあり
ません。5代から7代までの当主とその家族の墓石が残されています。
通常は、地頭の墓は本堂の側に建てられるそうで、この墓石たちは移さ
れた可能性が高いようです。黒く変色しヒビの入った墓石は火災にあった
ものらしく、それが移動された原因かもしれません。

江戸の整備が進み、幕臣も官僚化が進むと地頭らは次第に江戸に屋敷が
用意され、そこで生活するようになります。
武士と土地が切り離され、土地は幕領となり、武士(幕臣)は蔵米取りと
なるわけですね。
石川氏も江戸に移りましたが、こうした時、新たな菩提寺を探してお墓をそこ
へ移すことが多いのですが、石川氏のお墓はそのまま雲性寺に残された
ようです。
こういったケースは珍しく、地頭墓が残るのは近隣では他に武蔵村山市に
あるだけとのことです。

5代目石川与兵衛矩重は享保11年(1726)没
6代目石川太郎衛門寿員は元文5年(1740)没
7代目石川半之丞矩仲は安永6年(1777)没

なお、雲性寺の近くには地頭稲荷という社があります。

雲性寺6地頭稲荷

石川氏の屋敷の中にあったので、その名前があります。
稲荷のすぐ後ろに川(奈良橋川)が流れているため、川端稲荷とも呼ばれます。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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#1699 地頭のお墓のあるお寺
コロナ禍で、どこへも行けず、出来る事も制限されているためか、
外を眺めることが多くなった気がします。そんな中、あらためて気づかされるのは、草花や樹木のうつくしさですね。

元理科の先生である御住職の育てたという「牡丹」のお写真、本当に素晴らしいです。これなら、一日中ゆっくり眺めていても飽きる事がないでしょう。

「地頭」の名称が中世以降も使われていたとは初めて知りました。お墓を動かさなかったということは、石川さんは地元を相当気に入っていたのかもしれませんね。お写真のお稲荷は、何度か見かけたことがありましたが、「地頭稲荷」というとは初めて知りました。割合に狭いエリアという印象でしたが、ここに屋敷があったのですね。
それにしても、東大和から江戸まで通うというのは…馬を使ってたのでしょうか…それにしても結構ハードな通勤ですね。

やはり、地元の人が地元の史跡を説明してくださるというのは親しみがあって読んでいて心が和むし、意外な事実が知れて本当に得るところが多く、ありがたいです。
#1700 甚左衛門さま
なかなか遠出のできない日々が続きますので、自然と地元を歩き廻ることが多くなります。
雲性寺は子供の頃の遊び場でした。
その頃の墓地は樹々が鬱蒼と茂る雑木林のようで、その中に古い墓石が散在するような、ちょっと怖い感じのする場所でした。

地頭稲荷は川端稲荷と呼ばれるほか、勘兵衛稲荷とも呼ばれています。この稲荷の西隣に名主を務めた勘兵衛という人の屋敷があったからだそうです。
となると、勘兵衛さんは石川地頭の後に屋敷地に入ったものでしょうか?
いずれにしても、歴史のあるお稲荷様ですね。

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