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比翼塚 維新哀話⑤

今年最後の記事になると思いますが、この「比翼塚」も最終回です。
長々とお付き合いいただき、「ありがとぉぅーー」(by 谷村新司)

さて、話は明治維新前夜。
1月に鳥羽・伏見の戦いが起こり幕府軍は敗退。慶喜は降伏を受け入れ、寛永寺
に謹慎します。
その前後、慶喜は幕臣の屋敷の貸与・売買の自由や随身の自由を認めます。
徳川家は断絶とはならずに、田安亀之助(後の徳川家達)が相続を許され、駿河
70万石に移封されました。希望する幕臣は家達に付いていきますが、全員が行ける
ものではありません。
ましてや、旗本の陪臣などどうなったものか・・・。

ということで、遠山家の維新前後はどうだったのか?
なかなか書かれている史料がないので詳細はわからないのですが、当時の当主は
遠山金四郎景之です。「遠山金四郎家日記」によれば遠山家9代目ということになり
ます(遠山の金さんは6代目)。
この景之のお墓は他の遠山家一族と共に巣鴨の本妙寺にあります。その墓石を見る
と没年は慶応4年8月26日となっています。つまり元号が明治にかわる直前に景之は
亡くなってしまいました。享年はわずか28歳。
本妙寺は明治期に巣鴨に移転してきましたが、元は本郷にありました。ということは、
景之は東京(8月10日に江戸から東京に改称)で亡くなったということでしょうか。

また、静岡県浜松市にある楞厳寺(りょうごんじ)には遠山家の過去帳が残されている
そうで、初代景吉(宝永7年・1710年没)からの遠山家一族の没年、戒名等がわか
りますが、それによると景之の後は10代目として景福が遠山家を継ぎ、この景福さん
は昭和7年(1932)に亡くなっているとのこと。
この景福さんは明治元年9月3日に、遠山家の旧領だった上総国岩熊村に移住し帰農
したそうです。岩熊村の農民らは景福を慕い明治3年(1870)に「遠山講」を組織して
歴代当主の功績を讃えたといいますから、遠山氏はよほど善政を敷いた領主だったの
でしょう。

ただし、比翼塚の宮嶋巌さんは岩熊村へは行かなかったということになります。
これは、主人であった景之が幕府瓦解と同時に亡くなってしまい、遠山家がその瞬間
に解散状態になってしまったことを想像させます。宮嶋夫妻には太郎という息子がいた
らしいことは分かりましたが、その息子とも一緒に暮らせない事情ができたのでしょうか。
主人に付いてゆくこともできず、江戸(東京)にもいられず、全く土地勘のない高木村に
やってきたことを思うと、当時の幕臣関係者の寂しさが偲ばれます。

「よもやまばなし」には宮嶋巌さんは「高木村の明楽寺の庫裡に留守番として」住み込んだ
とあります。
「里正日誌」の明治3年11月の記録には、韮山県に提出した村々の神社の詳細が出て
います。一部抜粋します。

  武蔵国多摩郡高木村鎮座
尉殿大神社  但式外

(中略)

一 新補神主宮嶋岩保儀位階御座無く、家筋の儀は元百姓哲右衛門鍵取に候所、本
別当明楽寺永く無住に付き去る辰十二月中右同人祠官願い済ましに御座候。

(以下略)


尉殿大神社は高木村の神社で、現在は高木神社と名前を変えています。明楽寺は
その別当寺でした。鍵取というのは管理人のことです。
宮嶋さんは土地がないので帰農することもできず、高木村の村民となって神社の祠官
(しかん)となったのでしょうね。祠官とは明治4年(1871)に府県社や郷社に置かれた
神職者のことですが、明治6年(1873)に平民籍へと編入されています。

また、「よもやまばなし」によれば、宮嶋さんは「かたわら寺子屋を開いて村人に読み
書きを教えて」いたとあり、ここから収入を得ていたようにも感じられます。
しかし、明治5年(1872)8月には学制が布かれ寺子屋教育は終わりとなります。
最初の小学校は寺や神社に置かれ、高木村の場合は隣りの後ヶ谷村にある円乗院
に「竭力学舎」が設けられました。教員となったのは旧寺子屋の師匠、神官、僧侶と
いった人たちでしたが、試験を受けて合格しなければならずかなりハードルは高かった
ようです。
「学区取締創置之件」には

「・・・・全く小学校教師の任に堪え難き者相存じ居り候趣も相聞き、右等の義は開化の
障碍と相成り候間、速やかに廃業致すべき候、・・・」


とあって、幕臣の身内だった宮嶋さんなどは「開化の障碍」として教員にはなれなかった
ものとも思われます。
宮嶋巌さんは明治6年8月15日、病死したとありますが、将来を悲観して体調が悪化
したのかもしれません。

明治維新では、旧幕臣の肩身の狭さや、悲劇など様々な話が伝わります。
東大和市高木の比翼塚も、そんな時代の中に翻弄された一組の夫婦の史跡です。

高木神社a
現在の高木神社。
創建は不明ながら江戸時代までは尉殿権現社の名称で、明治の廃仏毀釈に伴い
高木神社と改められました。祭神は手力雄命と伝わります。
神社と隣接して別当寺の明楽寺がありました。後ヶ谷村の円乗院の塔頭だったと
いいます。

六十六部供養塔
こちらの写真は比翼塚と同じく旧明楽寺墓地に建てられている六十六部供養塔。
全国六十六ヶ国の霊場に納経する巡礼の行をして、その達成を記念したもの
でしょうか。宝暦4年(1754)建立。天辺に大日如来を安置しています。
右側に「願主 江戸麹町拾壱丁目 河清平左衛門 法名 光円」
裏側に「武陽多摩郡高木邑」
台座正面に「小野伊左衛門 尾崎伝左衛門 宮鍋定七郎 尾崎宇兵衛 施主 当村中
宮鍋久右衛門 尾崎平左衛門 和地佐兵衛 念仏助 若イイ者中」
台座左側に「飯田町 伝八郎 三郎兵衛 麹町十二丁目 小右衛門 麹町 禄兵衛」
とあります。これも、江戸と高木村との間に交流があったことを示します。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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#1685 新年
明けましておめでとうございます。
今年も面白い記事を宜しくお願い致します。

一連の比翼塚の記事たいへん興味深く拝見させていただきました!
こういう意外な歴史を持つ史跡は、実はどこの土地にもあるのでしょうが、
蓄積した史料、口碑・伝承の類、さらに気づく人の有無
の差で無くなっていくのだと思います。
そういう意味では、ブログという手段(これすら最近では古くなっているようですが)で取り上げられるというのは、本当に意義のあることだと思います。史跡にとっても幸運なことだと。

今回の一連の考察をお手本にして、私も身近な史跡を調べてみようと思うようになりました。

#1686 甚左衛門さま
明けましておめでとうございます。いつもありがとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

郷土史を細かく調べていて、歴史的にビッグな名前と関係する史料、史跡に遭遇すると一気に興味が増大するものですね。
ちょっとミーハー的な視点で申し訳ないですが、比翼塚などがその一例でした。
しかし、歴史というのは時間的にも地理的にも、決して切り取られた一部分ではなく、どの時代・地域とも繋がっていて無関係ではないのですから、考えようによっては当然のことなのかも知れませんね。
甚左衛門さんが調査されている博奕打ち等の歴史も、まさにそのものだと思います。

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