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比翼塚 維新哀話④

歴史の隅っこをツツく、マイナーなお話ワタクシのブログ。
比翼塚のお話も、もう少しお付き合いくださいませませ。(by さだまさし)

「よもやまばなし」の中で一つ引っ掛かるのは、遠山家所縁(家臣かそれと同等
の身分)の宮嶋夫妻が、「奉公人の里」である、高木村に来たという点です。
高木村の村民がなぜ、遠山の金さん宅の奉公人になれたの?という所。

「寛政重修諸家譜」では遠山景晋(金さんの親父)の石高は500石。これが先祖
代々からの遠山家石高です。
「遠山金四郎家日記」によれば、知行地は上総国岩熊村(現千葉県いすみ市)の
300石と、下総国今泉村・樋橋村(現茨城県下妻市)200石だそうです。
こういった場合、奉公人は知行地から呼ぶことが多いのではないでしょうか。
遠山家でも中間は岩熊村の者が務めていたようです。

安政三年十一月五日  未晴昼後風  貢助 泊喜藤太
一、名主専次郎出府の事

安政三年十一月八日  戌晴  泊共喜藤太
一、御中間三年の分、藤三・専蔵・清七・兼吉、右四人、重年これを御願い、喜代三・
治助両人は御暇相願い、もっとも治助義は、代り人参り次第帰村候つもり申立て候事。
御給金名主専次郎へ相渡す。


中間は年季勤めで、希望すれば更新され、退職すれば替わりの者が同じ岩熊村から
やってきました。そしてその給金は名主が代表して受け取っていたことがわかります。
慶応年間にも同様の事例が記録されています。
つまり、中間という一例ではありますが、当時の武家奉公人は個人で契約するのでは
なく、知行地の村単位で供給していたということが推察されます。もっとも同時に、池波
正太郎の小説にでてくる音羽屋半右衛門のような人入れ家業があったのも事実です
から、これらは並列して行われていたのでしょう。

知行地でもない高木村の村人が、町奉行まで勤めた遠山家に奉公をし、譜代家臣と
同等であった宮嶋家と懇意になるというのは、どのような経緯があったのでしょうか。

東大和市域の村々は江戸時代初期には旗本の知行地でしたが、やがて天領に支配替え
され幕末まで続きました(一時他藩の預け地となったことはある)。
当時の税はご存知の通り米ですが、東大和周囲は水の便が悪く良質の米が収穫できま
せんでした。当時の評価で「下下田(げげでん)」という、最低ランクの田圃しかないのです。
鬼太郎が唄うゲゲゲの唄が聞こえてきそう。
「こんな米は受け取れん!」てんで、年貢は金納とされました。
そこで、村では馬に野菜やら炭やらを背負わせて江戸に向かいます。そして江戸市中に
荷物を納め、運送賃として代金をもらい年貢に当てました。これを農間稼ぎと言います。
こうして荷物を納めた先の中には、大名や旗本などの武家屋敷がありました。

「里正日誌」の文久2年にはこのような記事が出ています。

  差し上げ申す一札の事
私の父、武州多摩郡高木村百姓勘左衛門と申す者、当戌五十歳に罷りなり、農間炭渡世
仕り来り。去る十月廿日、御出入り御屋敷様の御払い代金請け取りのため罷り出、その後
立ち帰り申さず候につき、所々相尋ね候ところ、四ツ谷内藤新宿の内藤駿河守様御下屋敷
内古井戸へ落ち入り相果ており候旨を、御同人様御家来三浦平兵衛殿より御知らせ候に
つき、早速罷り越し見候ところ、父勘左衛門疵を請け相果ており候死骸に御座候。
もっとも平日、意趣遺恨など請け候覚え御座無く、何故右始末に及び候や、かつて存じ奉ら
ず候。御検分相済み候上はなおまた御見下され候ところ、右勘左衛門死骸に相違いなき
御座候間、なにとぞ御慈悲をもってお渡しくだされ候わば、請け取り奉りたく此の段願い上げ
奉り候。以上。


ちょっと異常な事件性のある記事なので例としてはどうかと思ったのですが、高木村の人
が江戸へ農間稼ぎをしに行っていたという事例です。新宿にあった内藤家の下屋敷であれば、
成木道(青梅街道)をまっすぐですから便利でもあったでしょう。
しかし、遠山家となると違います。遠山家があったのは愛宕下大名通りの近く。現在のJR
新橋駅を少し南に行った所です。

img044aaa.jpg
赤く丸で囲ったところ。もうちょっとアップします。
img044aaaa.jpg

この場所まで農間稼ぎに行くのは、すこし遠いのではないかと思います。
何か遠山家と高木村を結ぶものがないかと地図を見ますと、遠山家の南に鉄砲調練場
があります。ここは江川太郎左衛門英龍が亡くなったあと、その遺蹟を讃えて幕府から
息子の英敏に与えられた芝新銭座大小砲習練場のことです。本所にあった江川氏の
役宅もこちらに移ってきています。遠山家とは目と鼻の先。
一方、安政の改革の一環として、幕臣男谷精一郎の建言を入れた幕府は講武所を発足
させますが、この講武所が一時ここに置かれます。
さて、遠山家は文久3年(1863)に景元の孫の景彰が亡くなり、養子の景之が当主と
なっていました。この景之が講武所奉行支配、海軍奉行並支配の役職に就いているの
です。英敏を継いだ江川英武も講武所教授方になっており、江川・遠山両家は互いに
知る立場にあったことになります。

文久元年以降、すでに講武所は水道橋(現日本大学法学部)に移転していましたが、
江川支配地の村民は芝の江川代官所によく行っていましたし、高木村-江川代官所-
遠山家、というような繋がりで、高木村の村民が遠山家に紹介され、出入りを許されて
いたのではないか・・・と想像を膨らませてみました。
残念ながら、「遠山金四郎家日記」には「江川」という人物は登場していないようです。
まぁ、当時の江川家は当主の英武がまだ年少で手代の柏木総三が切り盛りをしてい
ましたから、名前が出てこないのは仕方のないことかもしれません。

いずれにしても、幕府高官を務める家に奉公をする人物ですから、ある程度信用の
置ける者でなければなりません。高木村の村民が遠山家に出入りするにはこんな
ルートがあったのでは、と歴史ファンの想像でございます。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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