遠山金四郎家家臣、宮嶋哲右衛門とはどんな人物だったのか。
「遠山金四郎家日記」から拾ってみます。
嘉永元年一月廿九日 辰晴 万蔵
一、今日例月の通り晦日掃除これ有り、ただし御人少に付き、哲右衛門手伝い
仰せ付けられ候
嘉永元年七月八日 卯晴 辰次郎
一、御新造様、曾我様へ御出なされ候、御供哲右衛門、清次
嘉永元年八月二日 卯晴 辰次郎
一、奥方様御本屋敷へ御出なされ候に付き御先番平造・万蔵、御供哲右衛門、
清司、太吉
嘉永元年十一月十七日 亥晴 万三
一、奥方様・御新造様・若様・お駒様、伊奈様へ御出なされ候、御供哲右衛門・
清司・嘉市罷り出、尤も奥様御滞留なされ候
嘉永元年十一月廿四日 午晴 辰次郎
一、奥方様、今日伊奈様より御帰りなされ候、御迎え哲右衛門・清司、御中小姓
罷越る日記はここから「安政2年」になります。
安政二年三月三日 寅曇夕方より雨夜地震 喜藤太
一、今朝六時過ぎ、大道寺御前様、宗源寺へ御納骨のため御出、それより本妙寺
へ御埋葬、御供に者宮嶋哲右衛門・その罷り出候事
安政二年四月四日 申曇 喜藤太
一、宮嶋哲右衛門・みのや勘兵衛・田中仙姿へ御遣い物下され、これを差し出す
安政二年九月朔日 酉曇 喜藤太
一、東福寺様登和に於て六時過ぎ出宅にて、宗源寺へ御納骨のため御出る、御供
哲右衛門・久司罷出る、それより本妙寺へ御埋葬、御滞り無く相済み、七時頃御一同
御帰宅さらにまた飛んで「慶応元年」
慶応元年二月廿日 戌風 貢
一、宮嶋哲右衛門来る
慶応元年五月廿日 寅晴朝地震 喜藤太
一、明朝御出立に付、御振舞これ有、牧野隼之介様、同前元三郎様御出、梅之助様
には御当番に付昨夕相済、ほか植村奥方様・宮嶋哲右衛門・西嶋俊佐・乃ミ雪慶・
幸次郎・きく・いね・さい罷り出、御家中へも御酒・御吸物これを下される
慶応元年六月廿一日 寅晴風風 (執筆者不明)
一、御年回御逮夜に付き、植村様並びに奥方様御出、宮地吉三、柏田与右衛門・乃ミ
雪慶・宮嶋哲右衛門罷出で、○○つま、松川・とし・いね・御手伝旁罷出る、兼澤しけも
○候えとも遠方の儀に付、すぐさま退散、その他御家来女中までも御酒・御膳など、これ
を下される、御中間中へは代りにて下され候事「遠山金四郎日記」は嘉永元年1月~12月、安政2年1月~3年12月、慶応元年1月
~6月のものしか現存しておりません。
嘉永元年時点での遠山家当主は景元、つまり遠山の金さんです。
1月29日の項を見ると、掃除で人が足りないので哲右衛門が呼ばれたとあります。
本の解説を読むと哲右衛門は「水野忠精家臣か」とあり、遠山家の家臣ではないような
印象を受けます。ちなみに水野忠精は、あの天保の改革でおなじみ水野忠邦の長男。
慶応元年七月廿四日 戌晴風 (執筆者不明)
一、水野様若様、宮嶋御供にて御出御通りなされ候と、日記にもあります。
当時、大名や旗本の間では「御貸人」という習慣がありました。これは、地方への赴任
や役職が変わったりして、家臣の人数が足りなくなったとき一時的に家臣を貸し借り
をするというものです。まぁ、サッカーのレンタル移籍みたいなものでしょうか。
この御貸人だったかはわかりませんが、哲右衛門は水野家と遠山家の両家に所縁
のある人物だったようです。
安永2年はある人物が亡くなり、その納骨の御供に哲右衛門がついています。
亡くなったのは景元です。「大道寺御前様」は大道寺家へ嫁いだ景元の長女。
景元の遺体は千住の宗源寺で荼毘に、本所の本妙寺に埋葬されました(現在
巣鴨に移転)。また、「東福寺様」とは出家した景元の三男景興と思われます。
哲右衛門は「御遣物」をいただいています。みのやは商人、田中仙姿は茶人かと
思われますので、ここでも哲右衛門は助っ人のような印象です。
慶応元年2月20日も他所から「来る」となっています。
しかしながら、
慶応元年三月八日 卯曇折々雨 貢
一、懸川娘多美、御奥へ御腰元に日々罷り出で候事
一、宮嶋よりの女中に、玉川よりの御腰元引き越しの事
一、右宮嶋よりの女中と多美は無給の事、多美はかをると名をこれ下さる懸川多美とは日記の記録も担当している懸川喜藤太の娘。
その多美と宮嶋家に関係する女性が腰元になったと、同等に記録されています。
これは、宮嶋家が遠山家の家臣としてして扱われていたからだと思うのですが、
いかがでしょうか。
また、
慶応元年二月廿四日 寅雨 貢
一、宮嶋父子来る、子供の者は泊り候事
慶応元年六月廿三日 辰少雨後曇 (執筆者不明)
一、愛宕山御代参、喜藤太罷り出、任五郎様・宮嶋太郎○男谷も参り候事
慶応元年七月十八日 辰曇夕より雨遠雷二、三鳴 (執筆者不明)
一、御前様・任五郎様、八時過ぎより水野様へ御出、宮しま夫婦並びに太郎御出
迎えに罷り出る、暮れ六時頃より鎗司罷り出、四時頃御帰宅、御出かけよりおせん
御供御帰り候節、太郎御供にて来、一泊候事とあり、宮嶋哲右衛門夫妻には太郎という、御供が務まる年齢の子供がいることが
わかります。
「里正日誌」に残されていた宮嶋きよさんの年齢は、明治6年で45歳。慶応元年当時
では37歳です。
哲右衛門と鉄右衛門の違いはありますが、「遠山金四郎日記」に登場する宮嶋哲右
衛門が、比翼塚の宮嶋巌さんだとみていいのではないかと思います。

写真は遠山金四郎景元の墓(本妙寺)
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


にほんブログ村
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
スポンサーサイト
3回分のお話を順番に読んでゆくと、事の大きさと結論の意外さに驚いてしまいます。
御推察、極めて筋が通っているので、これはおっしゃるとおり、遠山金四郎の家臣だった宮嶋哲右衛門さん夫婦のお墓と見て間違いないと思わされます。
こんな歴史ある人の墓石が路傍にあるとは!
①墓石が残っていること。②文献史料があること。③伝承が生きているという稀有な状況にも増して、イッセーさんのようなそれらを繋ぐ人が現れると言う点も偶然ではないように思います。
『里正日誌』刊行タイミングも含めて、歴史というのは然るべき時に然るべき物や人が集まるように出来ているのかもしれない…と、そんな風に思わされました。
しかし、名主家とはいえ13歳の子が気を病んだ元武家の奥さんの介添えをしたという点は、いろいろと考えてしまいます。
時代の転換期に立たざるをえなかった御内儀にとっては、むしろ純粋な子供といる方が心が平静でいられるとの配慮があったのでしょうか。
もしこの子の言い残しでもあれば、より多くの意外な事実が詳らかになったのかもしれません。それこそ本当に理解できる哀史があったのかも。
いずれ、お二方の墓石、近いうちに参拝させていただきたいと思います。
素晴らしいお話を有難うございました。
嘉永元年一月廿九日 辰晴 万蔵で第三回を紹介されました。読み終わって、まさに万歳です。
高木は集落の開始時記が不明で、中世は謎に満ち、江戸時代になると、土地所有、年貢関係はお隣の奈良橋と入り乱れ、末期、明治初めになると、急に幕府要人との交流が始まって、郷土史を理解する上で何とも困る地域です。
それが、イッセイさんのご努力で一謎解けて、大助かりです。
今度、よもやま話の会でじっくり皆さんに紹介する機会を持って下さい。皆さんとても喜ばれると思います。先ずは、心からお礼を申し上げます。
大事なことを書き漏らしました。『里正日誌』の後継者内野録太郎氏(私の上司)の回顧では、
「当時、通常でない死の場合、検視やら手続きが複雑で、関係者はほとんど、変死扱いにしたと聞いた」
と話してくれました。
いつもお読みいただきありがとうございます。
この比翼塚も最近まで藪や灌木の中に埋もれて見るのも一苦労するという状況だったのですが、地域の方々のご努力で草木が伐採されて、よく見られるようになりました。本当に感謝です^^
野火止用水さんのコメントにもありますように、旧高木村はなかなか謎の多い、歴史的には面白い地域です。幕府と天領支配地の関係性を考える上で、比翼塚の話がひとつの材料になれば幸いです。
ちなみに、続編にもう少しお付き合いくださいませ。
高木の比翼塚の話は、調べてみるとなかなか深い話のようです。
甚左衛門さんへの返信コメントでも書きましたが、江戸と天領支配地の村の関係性を考える上で、非常に面白い研究対象だと気づかされました。幕府と幕臣の関係性はよく研究されていますが、その陪臣について書かれたものはあまり見受けられません。
しかし、宮崎巌さんの事例をみても、旗本陪臣を調べることでより多くのことが分かるのではないかと思っています。
また、内野氏の回顧談。新政府役所と村々の関係性が推察される貴重な話ですね。
コメントの投稿