蛤御門の変、起きる

文久3年(1863)に将軍・家茂さんが上洛をします。
そのときにボディーガードとして雇われた荒くれ浪人集団の中から
生まれたのが新選組です。
彼らが来るのを待っていたかのように、歴史の表舞台は関東から
京都へと変わっていったんですね。

「てぇへんだ、てぇへんだッ!!」
「どうした?前田敦子がキンタロー。に対マンでも申し込んだか?」
「おぉ、そりゃ見てみてぇや・・・て、違うッスよ。京で大事件があった
らしいんで!」

元治元年(1864)7月、全国に、そして東大和市域にもビックリする
ようなニュースが飛び込んできました。
「   子(元治元年)7月26日ご廻状の写し
去る19日卯の刻(午前6時)頃より松平大善大夫の家来が、御所へ
乱入、発砲する事件があったが、諸藩から大人数が出張ったので
おおよその者は討ち取り、残党はいずれも逃げ去った。
未だ詳細はわからないが、天皇はお立ち退きもなさらず禁裏にいら
っしゃる。親王、准后様方も安全だったとのことが、京都より報告が
ありました。

一、京都にて乱暴を働いた者があり、御所の近くに発砲し火事を出し
た事件につき、お上があれこれとご配慮をお考えになる間、当分は
神事祭礼、鳴り物などは見合わせるようにいたすべきこと。」

※准后・・・高い位の公家

それは、蛤御門の変(禁門の変)を知らせる廻状でした。
松平大善大夫(まつだいらだいぜんだいぶ)っていうのは、長州藩主・
毛利敬親(たかちか)のことです。
松平っていうと徳川の親戚かと思いがちですが、徳川に勲功のあった
者には「松平姓」をご褒美として与えることがあったんですね。なので
賜った方は表向き松平を名乗るワケです。
蛤御門の変は、長州藩士たちが御所の蛤御門に押し寄せ、会津、
桑名や薩摩の藩兵、新選組らと戦った事件です。
なんでこんな事件が起きたのかといいますと・・・

長州藩は過激な思想家・吉田松陰の影響もあって急進的な尊王攘夷
論を掲げていました。で、朝廷を抱き込んで政局の主導権を握ろうと
考えていたんですね。
ところがこれに危機感を持った京都守護職の会津藩と、あくまでも幕府
内の改革を望んでいた薩摩藩がタッグを組んで、文久3年8月18日に
長州藩とそれに同調する公家たちを京都から追放してしまいました。
(八月十八日の政変)
しかし、京都に隠れ残った一部の長州藩士らは、土佐藩等のやはり
過激な尊王攘夷派と手を組んで、ある作戦を計画します。
それは風邪の強い日に京都の町中に火を放ち、天皇を拉致しようとい
うアルカイダも真っ青のテロ計画でした。
ところが新選組がこの計画を察知し、元治元年6月5日、長州藩士らが
集まっていた旅籠の池田屋を急襲。ほぼ全員を討ち取るか逮捕したん
ですね。(池田屋事件)
京都を追われるわ、仲間は殺されるわで、長州藩の中で過激派がバク
ハツ!「もーガマンできんッ!」てことで出兵騒ぎを起こしたのが、この
蛤御門の変なんです。
結果は長州藩の大敗でした。

「    子7月晦日ご廻状の写し
今般京都において松平大善大夫の家来が徒党を組み、御所へ乱入し
発砲におよび乱暴を働いたことにつき、おおよその者は討ち取られたと
のことであるが、残党らがこの上東海道、中山道を横行し、または変装
して5人、7人と偽名を使って通行し、江戸市中に立ち入り暴発する可
能性も考えられる。
ついては代官支配地域の旅籠、主要道路はもちろんのこと、脇道や海
岸なども厳重に取り締まり、怪しい者が徘徊していたら差し押さえ、もし
手に余るようであれば討ち取っても仕方ないと、支配地域の者たちへ
申し渡し、手付・手代たちも村を廻り取り締まりを行き届くようにし、彼ら
の噂など探索してどんな事でも聞いたならば、大小の別なく速やかに
報告すること。」


当時、京都で起きた大事件が、約1週間遅れて江戸周辺の村々に伝わ
っていたんですね。
神事祭礼や鳴り物も禁止されたというのは、事件の大きさを物語って
います。やはり御所を巻き込んだドンパチだったからでしょうか。
次いで廻ってきた廻状では、逃亡してきた長州藩士らが江戸にまで来て
暴れる恐れアリと警告しています。実際にそんなことはなかったんですが、
幕府がかなり警戒していたことを表しています。

しかし、おそらく東大和のほとんどの村民が京都など想像もしなかった
この時代。
この事件が、どれくらいのリアリティをもって彼らに受け取られたので
しょうか。なかなか興味深いところではあります。

20130203.jpg

「新選組」「新撰組」、どちらが正しいの?
よく聞く質問です。正解は「どちらでもよい」です。局長の近藤さんが
どちらの字も使っているので、そういう事になってます。
江戸時代の人は読み方が同じなら、漢字はテキトーに使っていたという
トコロがあるんですね。
元々会津藩に「新撰組」という部隊が存在していたことがあり、その
隊名を、藩主の松平容保(かたもり)公が近藤さんたちに与えました。
「撰」には「エラぶ」という意味の他に「ソナえる」という意味もあるのだ
そうです。
現在はどうでしょう、「新選組」と書かれた本やドラマの方が多いように
感じるんですが・・・大河ドラマも「新選組!」でしたね。

昭和3年に平尾道雄が「新撰組史録」という本を出し、これが近代新撰組
研究の嚆矢と云われます。平尾さんは明治時代に出された「新選組始末
記」という西本願寺にいた西村兼文の書いた本を参考にしたといいます。
しかし、会津藩の公文書に従って「新撰組」で統一したそうです。
ところが、ほぼ同じ頃に子母澤寛が「新選組始末記」という、西村兼文と
まったく同じタイトルの本を出版します。
子母澤さんはこのタイトルがとても気に入っていたらしく、そのまま拝借
したんだそうで・・・今なら訴えられますが。

「新撰組史録」は半ば研究書のスタイルを取っていて、資料・文献も多数
紹介されているんですが、やや読みづらいんですね。
ところが「新選組始末記」は子母澤さんの取材になるものとは言いながら、
小説ですから読みやすい!面白い!アッという間にベストセラーとなり
「新選組異聞」「新選組物語」と続編が出されました。
一般的に「新選組」の方が人気が高いのは、これがきっかけではないかと
思います。

ちなみに、私も本音を言えば「新撰組」派なのです。隊士だった永倉新八
も自著に「新撰組」を使っていますし。
しかし、一般的な浸透度を考えてブログでは「新選組」としています。


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#140 松陰も登場
ついに松陰も登場、話題はいよいよ八重の桜にも近づいていくのでしょうか。このテンプレート、すっきりしていていいですね。
#141 純平さま
ありがとうございます。
八重の桜の「兄つぁま」・山本覚馬は、藩主容保に従い京都に行き、今回記事の
蛤御門の変では出兵し、長州兵と戦っています。近藤や土方と何か会話があった
かもしれませんね。

テンプレート、「文字が見え辛い」等のご意見をいただきましたので、再度変更
しました。見やすいようなら良かったです。
#142 隣村では雨乞い
 当時、東大和周辺では雨が降らず、渇水で、村人達は雨乞いに追われていたようです。
 指田日記に
 15日、神明社で雨乞い
 17日、大雨
 25日、風祭り
 と天への祈りの継続の様子が記されています。
  野火止用水
#143 野火止用水さま
ありがとうございます。
水の確保という切実な問題の前に、遠い京都の政治事件など構っていられない
という所でしょうか。
しかし、同じ多摩でも多摩川流域の水量が豊富な村々では、政治的な活動が
起こりつつあるのもこの時代ですね。
これらの地域と東大和地域の比較などにも、今後触れていきたいと思っています。

けど、15日に雨乞いして17日に大雨って・・・。
けっこう効果あるんだなぁ。
#144 隣村では雨乞い2
 前回のコメント、書いている最中に来客があり、うっかりして送信してしまいました。書くべきだったことを追加させて下さい。

 6月26日、雷神をまつる京都愛宕神社の勧化について、神明社で村中が相談を重ね、雨乞いに入ります
 7月10日からはじまり、14日にも行われて15日を迎えました。
 15日は神明社で千垢離(せんごり)を行い、井の頭池まで水をとりに行っています。
 以上を紹介したかったのですが、スミませんでした。
  野火止用水
#147 うわはは
福島贔屓としましてはAIZでゼヒw
元々、会津に新撰組があったとは知りませんでした。
飯盛山の資料館は行った当時はよくわからんでしたが、イッセーさんのような方が行かれたらきっと宝の山ですよね♪
#149 kitacoさま
ありがとうございます。
陽気がよくなったら、如来堂とか斉藤一の墓参とか、会津の史跡巡りを
したいと思っております。
大河の影響で観光客も増えるでしょうね。

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