寒ーーーーーッ!!
今年の冬はホント寒いですねぇ。皆さまいかがお過ごしでしょうか?
ところでちょっとテンプレートに不具合が出てしまったので、表紙を
替えてみました。
どうでしょう?
さて、江戸時代ってのも実は寒い時代だったと言われています。
全体を通して亜寒帯くらいの気候だったそうですよ。
そのせいでしょうか、江戸時代ってのは実に飢饉が多くて、たいていが
天候不順によるものなんですね。夏になっても暑くない。むしろ寒い
くらいだから稲や作物が育たないというわけです。
ここで「ま、いっか」って放っぽっておいたら大変なコトに。
おびただしい死者を出すか、一揆になるかで幕府はゲームオーバーに
なっちゃいます。何か対策を立てなくちゃ!
皆さんも日本史で習ったと思いますけど、
寛政の改革って覚えてますでしょ。
天明7年(1787)老中に就任した松平定信の政治改革。
江戸時代三大改革と云われる中のひとつですね。
その寛政の改革の中に飢饉対策が入ってました。定信さんが老中になる
前に「天明の大飢饉」ていうギガマックスな飢饉があって、その影響が残っ
てたもんだから飢饉対策は切実な問題だったんですよね。
で、その手段として取られたのが
「農村で穀物を貯蔵しておく貯穀」制度でした。
「里正日誌」の寛政元年(1789)には次の記事が出ています。
「お囲い穀のことは、去年天明8年にお達しのあった通り、人別1人につき
稗(ひえ)1升づつ。大麦の分も稗1升づつ取り集め、都合1人につき2升を
あてる。下女・下男の分についても村方人別同様に取りたてる。
取りたてた穀物は村方の身元確かな百姓へ預けること。俵をつくる際は1俵
5斗入りとするように仰せつけられた。」現代人の感覚だと「米を貯えたんだろうなぁ」なんて思うんですが、集めたのは
稗なんですね。ひえぇぇ~~~。(←お約束)
江戸時代の農業に関する法律を集めた「牧民金鑑」て本があるんですけど、
それによると最初は米・麦・稗・粟(あわ)を貯めるように指定されてます。
ところが翌年には、切り干し大根・木の根・タニシ・海草などを貯めてもOKと
マニュアルが変わってきています。
食べられるものならナンデモってかんじですね。飢饉のすさまじさを想像させ
られます。タニシなんてどうやって保存したんでしょ?
まぁ、東大和は飢饉じゃなくても下下田(げげでん)ですから。ゲゲゲのゲです
から。最初っから「稗指定」なんでしょうね。悲なぴー。
さて、この貯穀ですが、およそ80年経った幕末期にどれほどの成果が出て
いるのでしょう?
「里正日誌」の元治元年(1864)3月12日には、検分にやってきた役人に
提出した東大和村域の貯穀高の報告書が出ています。
「村内穀櫃囲惣貯高 武州多摩郡
御加籾 1石4斗1升3合 奈良橋村(蔵敷分含む)
一、稗 48石6斗8升9合4勺
このうち、6石3斗8升2合2勺 麦代を稗に替えて願い出ました分
一、人数 327人 但し男女平均1日1人4合で100日分
130石8斗
惣貯高差引
稗 82石1斗1升6勺 不足」「
村内穀櫃囲惣貯高 武州多摩郡
御加籾 6斗2升7合8勺 蔵敷分
一、稗 34石7斗4升5合6勺
このうち、4石5斗9升7合8勺 麦代を稗に替えて願い出ました分
一、人数 305人 但し男女平均1日1人4合で100日分
稗122石
惣貯高差引
稗 87石2斗5升4合4勺 不足」細かい数字はいいとして、結論として奈良橋村も蔵敷村も相当の石高の
稗が「不足」となっています。
つまり、貯穀にまわすだけの作物がこれだけ足りません・・・ていう報告書
なんです。
「うわぁ~・・・、カッツカツのギリギリ生活をしていたんだなぁ。とても貯める
ところまで余裕がなかったんだぁ。うるうる・・・」
と、時代を超えて同情しちゃいそうです。
でもね。ちょっとオカシイな、コレ・・・。と思われるフシがあるんですな、この
一文。
もし、本当にそれだけカツカツの生活が続いているんだとしたら、村の人口は
現状維持がやっとか、あるいは減っているハズでしょう。
ところが蔵敷村の過去の人口を調べてみると、全国的に飢饉があった天保
(1800年)の頃からも徐々に人口は増えていて、幕末から明治にかけては
急増しているんです。
黒船が来る前年の嘉永5年(1852)に276人だった村民が、上の資料
では305人になってるでしょ。
この間、村の家数は57家と増減はありません。
つまり、家の中で家族の人数が増えてるってことなんですよね。
これはそれだけ暮らすことに必要な食糧があったということでしょう。
でも「穀物は不足」と届け出てるって、どういうコト?
実は「寛政の改革」で全国に貯穀の命令が出る以前、多摩の一部地域では
すでに自主的に貯穀を行っていました。
元文4年(1739)に押立村(現・府中市)名主・川崎平右衛門が武蔵野新田
(元文期以降に武蔵野に作られた新田の総称)の世話役に選ばれました。
新田といえば聞こえはいいですが、水が十分に確保できない地域のため
土質が悪く、生産性がダメダメだったようなんですね。
で、平右衛門さんが村民を救うためにとった政策が貯穀でした。
一方、寛政期からスタートしたのはお上による貯穀です。
飢饉の救済策ではあるけれど、一種の税と捉えられなくもありません。
何度もご紹介しているように狭山丘陵一帯は生産性がヒジョーにキビシィー
土地です。毎年の貯穀は村民にはかなりの負担になったでしょう。
それを思うと、もしも十分な量の収穫があったにせよ
「いやモー、今年の収穫はギリギリで・・・。貯穀にまわす分はもうねェっす」
なんて言っちゃうコトもあったのかなぁ・・・なんて思うんですが。
とにかく、この「不足」の二文字には、なんとか収穫高を確保したいお上と
村民の、それぞれの思惑が見てとれる気がするのです。

今ではファンに人気の「ダンダラ羽織」ですが、当時はどうだったんで
しょう?「うわッ、デーハー・・・!」と思った隊士もいたのではないで
しょうか?間違いなく赤穂浪士のコスプレですし。
このデザインは絶対に近藤勇の趣味でしょう。勇さんは大石内蔵助を
非常に尊敬しており、彼の書を持っていたといいます。また、京にいた
時に高遠藩士と名乗る人から、内蔵助遺品の鎧を贈られたとの話も
あります。
浅葱(あさぎ)色とは水色に近い色で、武士が切腹をする時に着る裃
(かみしも)に使う色とされます。「それだけ覚悟をキメて俺たちはヤる
ぜ!」という決意の表れだったのでしょう。
しかし、この隊服を着用していたのは文久3年(1863)4月から半年
ほどの間で、翌元治元年(1864)からは誰も着なくなりました。
それは、新選組の活動が「秘密警察」に近いものとなったため、「こん
なに目立つ服はどうよ?」という理由になるものと思われます。
なので、「池田屋事件」とか「蛤御門の変」とか、ましてや「鳥羽・伏見
の戦い」で新選組がダンダラ着て戦ってるのは、ドラマの演出ってことで
ご理解くださいね。
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こんばんわ。
毎回、新撰組4コマを楽しみに拝見しております。新しい背景ですが、画像としては素敵ですが、文章が読めませんできれば別のものにされた方がいいかと愚考いたします。
新撰組4コマの単行本化を期待しております。
地方史やっていると、文面と実際はどうなんだと、常々判断を求められます。それを人口の面から見られた事、新撰組の剣先ばりでスゴイです。
どんどん、迫って下さい。 野火止用水
ありがとうございます。
漫画を楽しんでいただけているようで嬉しい限りです。
単行本・・・読者の皆さまの後押しでそうなれば、良い
のですが!
背景についてはスミマセンでした。
次回更新のときに検討いたします。
ありがとうございます。
幕末期の人口については、「東大和市史」を参考に
いたしました。
資料の真実性にどこまで迫れるか・・・なかなか難しい
です。今後もアドバイスをお願いいたします。
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