文久を駆け抜ける!

文久年間はたった3年間なんですけど(1861~1863)、幕末の様相が
ここにギュッと凝縮されているような時代だと思います。
幕末から明治への時代の流れってのは、スッゴイ速さで駆け抜けていった
んですね。

では、この文久に何があったのかっていうと、まずは徳川将軍の権威が
ダダ落ちします。
文久3年2月に、14代将軍の家茂さんが上洛するんですが、孝明天皇に
攘夷の決行を約束させられちゃいます。
「え?ちょっと待ってよ。開国したのは幕府でしょ。それを今さら攘夷だなんて
おかしいんじゃないの?」
奥さん、そのとーり、おっしゃるとーりでございマス。
この頃、強行に攘夷を主張していたのが長州、薩摩、土佐。この三藩が朝廷
に「攘夷しろって言ってやってくださいよ」と働きかけたんですな。
孝明天皇は大の外国人嫌いですから、当然この建言にGOですよ。
幕府の方針は開国なのに、天皇からの要求には断りきれない家茂さん。
なんたって将軍さまこの時20歳。今で言えば大学生ですよ。
政治家としては若すぎました。
さらに、この天皇との謁見で家茂さんの席次は末席に置かれちゃったり、天皇が
賀茂神社で攘夷祈願をする間中、雨の中を庭で待たされたりするんですな。
将軍の権威がもはや最安値になったことが、明確になった時でした。

そうそう。
この家茂将軍上洛の先発隊ボディガードとして編成されたのが、前回話した
清河八郎の浪士組なんですね。
つまり、近藤勇、土方歳三、沖田総司たちもこの時に京に上ったんです。
でもこの時点では近藤さんですら平隊士。各宿場に先乗りしてみんなの宿泊先を
手配するという、言わば「パシリ」に甘んじているのでした。

この将軍上洛に際して狭山丘陵近辺の村々に「御上洛につき御取締向の触」って
いうのが出されてます。
狭山丘陵は上洛ルートからハズれてるんで「え?なぜ?」って思うんですが、コレ
関東取締出役から出されてるんですよね。つまり、この上洛に乗じて「一丁ヤマで
も踏んでやるか」っていう無宿・悪党を警戒するお触れでした。
武蔵村山市の中藤村では、次のように取決めをしています。
「一、今般村内はもちろん近村まで、田畑は申すに及ばず山林や竹林を荒す者が
   いると聞くので、村役人一同出席の上で左の通り取り決めた。
 一、田畑、山林、竹林を荒す者がいれば、見つけ次第村役人へ早急に差し出す
   ようにすること。見逃した者は三貫文(3000文)の罰金。
   もっとも見つけ次第報告した者は三貫文の賞金を差しつかわす。
 一、田畑、山林、竹林を荒した当人は五貫文過料の上、村の作法に従うように
   すること。盗品と知りながら買い取った者もいると聞くので、そのように
   買い取った者は盗んだ者同様に扱うこと。村役人一同、出席の上取決め
   議定連印を押しました。」


このブログで何度も紹介していますが、社会情勢が不安定になったことで農村でも
自衛手段にでなければならなくなったんですね。
特に蓄えのある豪農層がこの自衛団の中心になり、ここに幕府側も目をつけるよう
になります。まぁ、そのあたりのお話はまた先にってことで・・・。

さて、話がちょっとそれちゃいましたけど着いてきてます?
All Right?
文久に起きたもう一つの大きな流れ、それは外国との関係です。
幕府は開国して貿易で稼ぎ、先端技術を導入して強力な軍隊を作り西洋諸国に
対抗しようとしてました。
ところが、諸国の藩は攘夷論が支配的で、この幕府の計画を大きく変えてしまった
んです。

まず、文久2年8月に生麦事件てのがおきます。
コレ聞いたことあるでしょ。薩摩の大名行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬っ
ちゃった事件です。
これに激怒したイギリスが翌3年2月に軍艦を横浜に入港させて、賠償金を要求。
通らない場合は戦争も辞さない構えを取るんですね。
もー、幕府も江戸庶民たちもビックラ仰天ノ助ですよ。
「なんで、こーなるの!?」(by 幕府&欽ちゃん)

武蔵村山市の「指田日記」には次のように書かれています。
「3月7日 異国人と戦争になるというので、江戸は混雑この上ない。二分一朱で
 売れた絣(カスリ)や縞の着物が一分六、七百までになる。
 3月16日 江戸はますます混乱。お大名方は奥方を地元の知行地に送り、お旗本
 は老人、女子供を知行地の寺院に送る手続きをしている。町方の人も田舎の縁者
 を求めて家財を運び、老人を送ること、日々続いている。
 3月20日 在所各地へ、江戸からの雑具が運ばれ、老人や子女が送られることが
 日々絶えず続いている。
 3月25日 村々に見張りを置く。人数に応じて竹槍を備えておき、もしも狼藉者が
 手に余るような時は突き刺し斬り殺してもかまわないとの、申し渡しを受ける。」


最後のあたり、ちょっとコワイですが、江戸の混乱ぶりがわかるでしょ。
江戸時代、大名の正妻と嫡子は江戸に住むことが義務付けられていたんですけど、
「そんなこと言ってる場合じゃないっしょ!」てことなんでしょうね。

さらにこの頃、東大和周辺では広い部屋を持つ家の調査が行われたそうなんです。
芋久保村(現・芋窪)では名主が22畳、組頭が22畳半の部屋があることを申し
出ました。
これは、いざって時の幕閣要人の避難場所として考えられたみたいなんです。
武蔵村山市史にも「多摩地域は、混乱する江戸からの疎開地となった」とあります。

話しは少し戻りますが、家茂さんが天皇に謁見したのは江戸がこんな状況の時
だったんです。
朝廷からの要求に逆らえず、5月10日に攘夷・・・つまり外国と国交を断絶すると
諸藩に通達してしまいます。家茂さんと幕府にしたら「とりあえずそう言っといて、
後でなんとか善後策を・・・」なんて考えていたんでしょうね。
ところが、これからが大変。

5月10日になったら、長州がマジで外国船を砲撃しちゃいます。
攘夷だからっていきなり撃っちゃうのも、どうかと思うんですけどね。
薩摩もイギリスと戦争しちゃうでしょ。薩英戦争です。
モチのロンで、長州も薩摩も1Rノックアウト級の敗戦を喫するんですが、かえって
外国の技術力の高さを実感。それ以降は軍制を改革するなど外国のイイトコ取り
をするようになっていくんですね。
一方の幕府は諸外国から「アンタが日本の総本部でしょ、責任取んなさいよ」と
責められて、生麦事件の賠償金を払わされるわ、関税率もやがて引き下げられる
わでドンドン窮地に追い込まれちゃう。
この辺りからだんだんと、幕府と西国大藩の勢いが逆転しそうな気配が出てくる
のですね。

文久は、まさに幕末を集約したような3年間だったのです。

20130120.jpg

芹沢鴨(せりざわ・かも)は水戸脱藩浪士。元は松井村の男橘媛(おとたち
ばなひめ)神社の神官で、下村嗣次といいました。この神社は海岸防備の
拠点として徳川斉昭が建てたもので、吉田松陰も訪れたといいます。
水戸藩攘夷派の「天狗党」にいたといわれ、剣術も神道無念流免許皆伝。
浪士組の中でも一目置かれた存在だったようです。
このマンガでは、近藤のミスをすぐに許したように描いてありますが、実際に
はゴネにゴネて周りをハラハラさせたといいます。芹沢の傲慢さを表すエピ
ソードとしてよく紹介されます。
しかし、この話は永倉新八の「新撰組顚末(てんまつ)記」にのみ語られて
いる話で、本庄宿には何の記録・伝承も残っていないとのことです。


スポンサーサイト

トラックバック一覧

コメント一覧

#134 一方で農間稼ぎが盛り
 猛烈に時代が動く中、東大和市域の村人達は江戸市中へと炭や薪を馬で運び込んで、駄賃稼ぎ(商業ではないとの言い訳)を精力的にしています。午後11時に江戸街道を出かけて、翌朝届け、同じ道を帰って、午後8時に
帰宅しています。しかも、10人前後の集団で行動している様子がうかがえます。
 若い頃試しにやってみて行きの成子坂でダウンした事を想い出します。変革期の人々のパワーは凄いですね。野火止用水
#135 野火止用水さま
ありがとうございます。
幕末はみんなが政治に目を向けていたように思いがちですが、
庶民には庶民の生活があったということですね。
すべて徒歩で移動した・・・当時は当たり前の事でしょうが、
現代人には驚異ですね(汗;)。

コメントの投稿

名前

タイトル

メールアドレス

URL

本文

パスワード

非公開コメント管理者にだけ表示を許可する