東大和市地域発見講座の3回目は、東大和市と戊辰戦争の関わりです。
以前にもお話しましたが、戊辰戦争における実際の戦闘は、東京では上野で彰義隊の
戦いがあっただけですが、やはりその影響はその他の地域にもあるワケで。
そのひとつの例として、東大和市域のケースを上げたいと思います。
1 東征軍と江戸城開城1 江川代官の恭順慶応4年2月15日、東征大総督の有栖川宮熾仁親王は京都を出発し、慶喜追討のため
江戸に進軍します。
その少し前、東征軍の先触れが韮山の江川代官屋敷にやってきて、朝敵(慶喜)を討つ
ために今まで江川家が支配してきた支配地の絵図面や石高帳・人別帳を持って総督府
まで出頭せよと江川は命令を受けます。
江川英武は手附の柏木総蔵と共に名古屋へ行き、木戸準一郎(木戸孝允)と面談。
そこで兵力の供出を命じられます。しかし、代官所には兵隊はなく、農兵も他を攻撃する
ためのものではないことを江川は訴えました。
木戸は江川らに京都まで行き、事情を説明するよう言います。江川らはそのまま上京し、
10月まで滞在。3~4月頃、韮山の領地安堵を言い渡され新政府に恭順しました。
2 江戸開城と旧幕臣3月12日から14日にかけて、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府を代表して勝海舟が話し
合い、慶喜を水戸へ預けることと江戸城の明け渡しが決まりました。4月11日に江戸城は
無血開城しますが、海軍を率いる榎本武揚は軍艦の引き渡しを拒否して江戸湾を脱走。
また、陸軍の大鳥圭介も伝習隊の一部を率いて脱走し、これに土方歳三らも合流。北関東、
東北へと転戦していくことになります。
一方、江戸周辺に残りながら、新政府に抵抗を試みる幕臣を中心とする勢力もありました。
その代表とも言えるのが彰義隊です。
2 彰義隊と振武軍 1 彰義隊の結成慶喜が上野の寛永寺に謹慎をした時に、一橋家の家臣の中から慶喜の護衛をしたいと
いう有志が集まりました。彼らは会合を重ねるうちに人数を増やして行き67名が集まり
ます。彼らは「尊王恭順有志会」と名乗りその後「彰義隊」と改名、頭取に渋沢成一郎、
副頭取に天野八郎が就任しました。


渋沢成一郎 天野八郎
渋沢成一郎は武州榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)の豪農の出身。天保9年(1838)
生まれで、2歳下の従兄弟に明治の大実業家・渋沢栄一がいます。成一郎と栄一の
二人は江戸に出たところ、一橋家用人の平岡円四郎に誘われ、一橋家の家臣となり
ました。御三卿は大名家ではないので家臣が少なく、当主の慶喜が注目されてくるよう
になるに連れて有能な家臣が必要となっていたのです。慶応2年(1866)に慶喜が
徳川宗家を相続したことにより、2人も共に幕臣となりました。
栄一はフランスで行われた万国博に参加した慶喜の弟・徳川昭武の随行員として欧州に
派遣され、成一郎は陸軍奉行支配調役から奥右筆格に抜擢されるなど、活躍。鳥羽・
伏見の戦いでは、大坂に取り残された幕臣らを江戸まで帰還させる責任者を任されました。
天野八郎は上州甘楽(かんらく)郡磐戸村の庄屋の次男として、天保2年(1831)に生まれ
ます。本名は大井田林太郎。
父親が江戸神田で公宿を営んでいたことから江戸に出て、男谷精一郎門下生となり直心影流
の剣術を学んだといいます。その後、火消役与力・広瀬家の養子となりますが、すぐに離縁。
その頃から天野八郎と名乗り始めますが、その理由は不明です。
天野は幕臣でも一橋家の家臣でもないのですが、No.2の座に推されたのは人望があり、リー
ダーシップもあったからだと思われます。
彰義隊は慶喜の身辺警護を目的とした部隊であり、薩長と一戦交えてやろうという目的で
作られたものではありませんでした。特に頭取の渋沢は一橋家家臣でしたから、当主慶喜の
命だけは何としても守らなければならぬ、という気持ちが大きかったのです。
ところが次第に彰義隊の評判が広がり、入隊希望者が次々と集まってくるようになりました。
幕府がなくなり明日の希望が見えない状況に身を置いた幕臣らの受け皿と、彰義隊が見られ
てきたようです。こうして上野の山には300人以上が屯集するようになってきたのです。
しかし、ひたすら恭順し助命を嘆願する慶喜にとって、彰義隊は厄介な存在だと思ったのが
勝海舟です。そこで勝は彰義隊に江戸市中の取締りを命じ、その行動に責任を持つように
仕向けました。当時の江戸は治安が相当に悪化していたので、彰義隊は江戸っ子の評判を
呼びました。
ところがこの頃になると、彰義隊の中で意見の対立が起こり、渋沢派と天野派という二つの
派閥ができてしまいます。渋沢は先にも話したように、彰義隊の目的は慶喜の護衛であると
いうスタンスです。新入隊士も幕臣に限る、としていました。
しかし、集まってくる者の中には幕府の再興を考える者が多く、その意を汲み取っていたのが
天野でした。天野は隊士募集も「身分・前歴問わず」、薩長への反抗心があり戦う気持ちがあ
れば誰でも引き受けました。簡単に言ってしまうと、慶喜大事・慎重論の渋沢派と幕臣生活
大事・主戦論の天野派です。
3 彰義隊の分裂次第に二派の衝突は表面化することになり、ついに「新政府に寝返らないこと」「降伏はしない
こと」を約束して天野派と渋沢派は分裂してしまいました。
この頃、4月11日、慶喜は水戸で謹慎するために江戸を出ます。彰義隊の大多数を率いること
になった天野は、1000人余りに増えた隊士とともに寛永寺座主・輪王寺宮公現法親王を守護
するため上野の山に入りました。新政府を撃退し、幕府を再興する。それが天野率いる彰義隊
の目的となったのです。
一方の渋沢は100人の隊士を連れて江戸を出ました。慶喜のいない江戸にいても仕方が
ないし、水戸は他藩ですから入れません。彼らは青梅街道を西に進み、田無村(西東京市)に
駐屯しました。
渋沢は彰義隊から分かれたこの隊に振武軍と命名します。
ここまでは、東大和市域はカンケイのない話ですが、これを話しておかないと振武軍が何者
なのかわかりません。それで、講座でもこのように彰義隊について触れさせていただきました。
さて、この振武軍が東大和市域にやってくるのですが、それはまた次回。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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いや、天野八郎って、凄い顔(というか威厳というか)してますね。
上州だと足を大きく開いた間庭念流を思いますが、
直真蔭流とは。
せめて山岡鉄舟くらいは知名度あってもいいんじゃないか、と思います。
ちなみに多摩の侠客小金井小次郎は最後の最期まで
この天野を徳川最後のお武家として牢内にまで手をのばして助けようとした、らしいです。(真偽不明)
振武軍、渋沢平九郎の没後150年展が、渋沢記念館で開催中とのことです。
https://www.japaaan.com/card/1901
天野八郎は亡くなってしまったのが、実に惜しい人物です。
幕臣でも大名家臣でもない八郎が、隊長に推されたのはよほどの人望と統率力があったのでしょう。その辺り、新選組の近藤勇あたりと共通する所があったのかもしれません。
せめて箱館戦争まで戦わせてあげたかったです。
小金井小次郎の話はいい話ですね。真実であって欲しいです。
情報をありがとうございます!
夏に飯能でも振武軍の企画展をやっていたらしいのですが、行けませんでした。ご紹介の企画展は時間を見つけて行ってみたいです。
「太郎左衛門あんぱん」なるものが売られていました。袋には英龍さんの似顔絵付き。
東久留米のクルネ内のパン屋さんにありました。こちらの会社は、静岡県に本社があって、これまで静岡県内限定だったものが、全国の店舗に展開することにしたようです。今度買ってみようと思います。
韮山反射炉の売店で売っていた「江川太郎左衛門パン」は、笑っちゃうほど硬かったですけど、あんパンだったらそういうことはないんでしょうねww
でも、柏木総三が書いた当時のレシピには原材料に砂糖の記述もあるので、乾パンだけではなく菓子パンに近いものを作っていた可能性も指摘されています。あんパンではないでしょうが、江川さんが明治の世まで生きていたら作っていたかもしれないですね(笑)
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